こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

モザイク・ラセン。-【2】-

2021年10月09日 | 日記

 さて、今回は『モザイク・ラセン』の文庫版に収録された、残りの2編の作品について、ですm(_ _)m

 

 まず、『ハワードさんの新聞広告』は、『一度きりの大泉の話』にも大体真ん中あたりに収録されてるので、今ではすっかり有名な作品になったのではないでしょうか

 

 ただ、わたしが最初に『一度きりの大泉の話』を読んだ時……まだ『トーマの心臓』も読んでいませんでしたので、『トーマの心臓』のクロッキーブックに描かれた段階のものが掲載されている理由についても、実はよくわかっていませんでした(バカな子☆)。

 

 それで、最初に読んだ時、『ハワードさんの新聞広告』についても、割合さらっと読んでしまうくらいなもので……何故この漫画作品を萩尾先生は『一度きりの大泉の話』の間に挟んだのか――ということについては、ほとんどあまり考えていませんでした。

 

 でも、『モザイク・ラセン』の文庫版を読んでいて……何故同時収録されたのが、『ハワードさんの新聞広告』と『きみは美しい瞳』なのだろうと少し思ったんですよね。もちろん、普通に考えた場合、「枚数的にこの作品の取り合わせがちょうど良かったから」とか、そうした編集上の事情でないかと考えるのが普通と思います。

 

 ただ、『モザイク・ラセン』って文庫本としてはやや痩せてる(?)と言いますか、若干細いんですよ。しかも、すべての掲載作品が秋田書店の雑誌に掲載されたものだから、それでこの3作品の取り合わせになった……というのなら、わたしも「ああ、なるほど!」という、ただそれだけだったと思います。

 

 でも、『モザイク・ラセン』はプリンセス掲載で、連載期間のほうが1982年9~12月号、『ハワードさんの新聞広告』は別冊少女コミック掲載(1974年3月号)、そして『きみは美しい瞳』は掲載誌がASUKAで、1985年8月号掲載なんですよね。これ、わたし的に思うにはかなり不自然な取り揃えと思います(^^;)

 

 もちろん、このあたりの事情についてはおそらく、萩尾先生自身はほとんどタッチしておらず、編集さんのほうなどで、「このような形で文庫本を……」みたいな感じだったのかもしれません。

 

 さて、前置きが長くなりましたが(いつものこと!笑)、『ハワードさんの新聞広告』についてはわたし、すごく感動すると同時に、すごく胸が痛みました漫画のほうを描かれたのはすべて萩尾先生でも、元の原作のほうは池田いくみさんが描いておられて、もともとこのお話のほうはいくみさんが落選した原稿だったと言います。池田いくみさんは脳血栓で突然倒れられて、その後は後遺症によって漫画は描けない状態だったとのことで……萩尾先生はいくみさんに同情したのではなく、『ハワードさんの新聞広告』が純粋に面白い作品だったから描かせてもらった……といったように書いておられます。

 

 

 >>いくみさんは病気の後遺症で、ペンを持つ右手が前ほど動かなくなっていました。厳しい話ですが、今後作品を描けないだろうし、デビューもできないことを思うと、「原作者として名前が載った」ことが、史生さんにとっても友人として嬉しかったのだろうなと思います。

 

 でも私は史生さんよりはシビアで、彼女が病気になったからこの話を描いたのではなく、ハワードさんというキャラクターが面白かったから、描かせてもらったのでした。

 

 この原作は20ページぐらいの投稿作で、いくみさんがペンを入れて完成させていました。この後、ちょっと妖しい愛の『温室』という、いくみさん原作の漫画も描きました。これは文章の原作でした。

 

 これらの作品はのちに単行本になった時は、ページで割って、いくみさんの分の印税を払いました。20年ほど印税を払いましたが、いくみさんがご病気になり入院が長引いたので、買取りの形でまとまった金額をお支払いしました。

 

(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)

 

 

 そもそも――萩尾先生は池田いくみさんが倒れられたその後、いくみさんが入院している洞爺湖近くの病院にまで、わざわざお見舞いに行っておられます。わたし、同じく北海道生まれなのである程度地理についてわかるのですが……地図で「へえ、ふうん。ここがあの洞爺湖。銀魂ファンが必ず木刀買うっていう場所ね」と確認するのは割合簡単なのですが、実際のとこ、洞爺湖あたりまで行くのって結構大変なんですよ(^^;)

 

 いえ、観光とかで行く場合はそうでもないかもしれません。「洞爺湖であんなことやこんなことして楽しもう♪」みたいな旅行気分であれば……でも、1973年くらいのこの当時、今以上に洞爺湖あたりまで行くのは大変でなかったかと想像されます

 

 萩尾先生がお見舞いに来てくれた時のいくみさんの嬉しさは、並のものではなかったでしょう。北海道の、こんな田舎まで、わざわざ東京からやって来てくれた……普通の人にはちょっと出来ないことです。だって、脳血栓で突然倒れて、もう漫画は描けないかもしれない……いや、そちらの可能性のほうが高いだろうという同年代の女性に、一体なんて言葉をかけたらいいでしょうか?

 

 それは、「気の毒だけれど、本当に気の毒と思うけれど、かといってお見舞いにいってもなんて声をかけたらいいか……」と躊躇するあまり、やはりわざわざ北海道までは行かないというか、行けないのが普通でないかと思うんですよね。

 

 けれど、萩尾先生はわざわざ訪ねていかれた。尋常でない、人としての優しさだと思います……みたいに書くより(いえ、わたしは心の底からそう思っているのですが)、おそらく萩尾先生はこの時、ご自身もすごく傷ついておられたという、そうした理由もあったと思うんですよね。

 

『一度きりの大泉の話』を読んで、萩尾先生が漫画家をやめる……みたいに語っているあのくだり、「え~っ、ほんとかなあ」みたいに思った方はおられると思います。でも、竹宮先生に盗作疑惑をかけられたあの一件で、悩んだのは間違いなく本当のことで――でも、『一度きりの大泉の話』にはそんなふうに書かれていませんが、池田いくみさんはおそらくもう漫画が描けないのです。描きたくても描けない  いくみさん……でも、自分は――といったように、萩尾先生は葛藤しておられたかもしれない。

 

 このあたり、萩尾先生は美談になるような書き方は一切されていませんが、竹宮先生に盗作疑惑をかけられた一件で、池田いくみさんの存在が果たした役割が、萩尾先生にとってどれだけ大きかったか……という、それが『ハワードさんの新聞広告』が『一度きりの大泉の話』に収録されている理由ではないかと、今あらためて、そのように思っています(また、こうした形で池田いくみさんのことを他の方にも思いだしたり、覚えていて欲しかった……という気持ちもあられたのではないでしょうか)。

 

 それで、ですね。『きみは美しい瞳』はわたし、一読した感想が――「SFホラーといってもいいくらい、ちょっと怖い話」というものだったんですよ。

 

 う゛~ん。わたし、普段あんまり、このくらいであれば「怖い」とか思わないタイプなのですが、『きみは美しい瞳』には読者をゾクリとさせるような、独特の冷たさがあると思ってて。

 

 ジャンルとしてはSFで、主な登場人物はいずれ一国の王となるらしい、若さゆえか傍若無人な感じのハプト、いずれ聖職者になるという、優しくて穏やかなメールデールという美しい男性(このふたりはフォラムという星区で同じ学校だったとか)。

 

 他に、ハプトの婚約者で結婚式を挙げる予定のリアという名前の聡明な姫君、辺境にあるラズリ星に住む保護動物の『夢鳥』と呼ばれる人によく似た鳥(鳥人?)が出てきます。

 

 この『夢鳥』は、夢で心の深層を見せるということで、実はハプトには美しいメールデールに繰り返しキスするという夢を見せており、この『夢鳥』をラズリ星へ親切にも帰してあげようとしたメールデールに対しては――自我が崩壊しそうになるほどの、恐ろしい夢を見せたのでした……結果として、自分にも懐いていたこの『夢鳥』をメールデールは殺してしまいます。

 

 確かに、ハプトは男性とは思えぬほどの美貌のメールデールに、ホモセクシュアル的というか、BL的感情を抱いていたのかもしれない。けれど、自分の感情を常に律し、誰に対しても優しく穏やかで平等なのだろう性格のメールデールのほうが――心の奥底に自分自身さえも崩壊させてしまいそうになるほどの感情の闇を実は抱えていたわけです。

 

 このあたり、すごくよくわかるような気がします。ハプトはいずれ結婚することになるリア姫の機嫌が悪くなるようなことをあえて口にしたり、彼女でなくても周囲の人が不快になるような言動をつい取ってしまいがちな人物で……しかも、『夢鳥』を自分のものであるとして、おイタをしたような時にはぶったりしている。簡単にいえば、普段から適度に自分を出してストレス解消しているというか、ハプトはそのような人物なわけです。

 

 一方、メールデールは僧院に入って聖職者になろうという気高い人間ですが、その分、やはり深層心理において押さえつけているものが普段から本人が自覚している以上に色々あって――わかりやすく言ったとすれば、普段滅多なことでは怒らないような人物のほうが、ちょっとしたことですぐ癇癪を起こす短気な人物よりも……噴火度合いが違うということですよね(ハプトは大噴火には至らない活火山みたいなもので、一方メールデールは一度噴火したとなったら溶岩噴出ドロドロタイプなのだと思います。たぶん^^;)。

 

 このあと、メールデールは自分の耳を切り落とし、『夢鳥』の羽と一緒に埋めて欲しいと言ってハプトの元に送りつけてきます。このままでは彼は「次には目を潰しかねない」ということで、メールデールに会いにいくハプト。

 

 すでに少し頭がおかしくなっているメールデール。そして、「あの鳥を殺したのはおまえじゃない。オレだ」といったように語ったり、色々な言葉によってハプトはメールデールを慰めようとしますが……結局のところ彼は、自分の手で今度は自分の両目を潰してしまうのでした。。。

 

 耳の次は目……このままいったらメールデールはおそらく、自分で自分の体を切り刻んでしまうでしょう。そこで、お医者さん(と思う、たぶん☆)は、死んで冷凍保存されている『夢鳥』の目をメールデールに移植しようとするのでした。何故なら、新しい人造眼球によって再び目が見えるようになったとしたら……彼はまたその新しい眼球をも潰すだろう、ということだったからです。

 

 こうして、『夢鳥』の美しい瞳がメールデールに移植されるということになります。おそらく、人間の瞳と『夢鳥』の見る世界は違うのでしょう。メールデールは最後、>>「なにもかも、わたしにははじめてみるものばかり」と言って、物語は幕を閉じます。

 

 わたしのこの下手くそな書き方だと、いまいち伝わらない気がしますが……目というとやっぱり、『一度きりの大泉の話』との関連で、萩尾先生が心因性の眼病になったというお話のことがどうしても思い浮かんでしまいます。わたしも最初に読んだ時には、「いや、それは流石にこじつけがすぎるというものでは……」と思いました。でも、ほんのちょっと気になるのが――>>「私は二人から離れ、考えまいとしました。その後お二人がどうなさったかも、聞かずにすませてきました。私が知りたくなくても、時々風の噂のように流れてきます。なるべく耳をふさいでいます。何も聞きたくもないし、何も言いたくもない。冷凍庫に入れて鍵をかけたのです」とあるところ。それからもう一箇所目が、>>「また、わたしは何か言われて、不快でも反論せずに黙ってしまう癖があります。それは不快という感情と共に、強い怒りが伴うので、自分で自分の感情のコントロールができなくなってしまうのです。感情は熱を持ち、一気に暴走列車のようになり、自分で持て余してしまいます。この感情はきっと大事故を起こす。怖くなって、押さえ込み、黙ってしまう方を取ります。冷静に反論する練習をすればいいのでしょうが、なかなかうまくいきません。冷静に反論できるのは、自分の描く、漫画の中だけです」。

 

 つまり、あのメールデールが見た、底なし沼のようなドロドロした情景というのは、萩尾先生が竹宮先生や増山法恵さんとの間で圧殺しなくてはならなかった過去の怒りや悲しみ(こうした種類のことについて、萩尾先生は大体家族との問題について語ることが多いように思うのですが)、>>「なにもかもわたしにははじめてみるものばかり」――というのは、もしかしたら、竹宮先生や増山さんと仲違いすることもなく、もしあのままでいられたとしたら……という、『夢鳥』がもし本当にいたら萩尾先生に見せたかもしれない無意識の夢、といったようにも連想されるというか。

 

 まあ、基本的には考えすぎもいいとこなのですが、似たことが脳内を軽く掠める人は少ないながらおられるだろう……そう思いましたので、ちょっと書いてみることにしましたm(_ _)m

 

 では、何か暗い終わり方のようで恐縮ですが(すみません)、次は『海のアリア』の感想を書こうかなと思うので――暗くはならないはず!と思います。たぶん。。。

 

 それではまた~!!

 

 

P.S.よく考えたら当たり前のことですが、『ハワードさんの新聞広告』が収録になっているのは、そうすれば池田いくみさんの印税の分をお支払いすることが出来るから……ということであったのかもしれません。なんにしても、池田いくみさん原作の『温室』というお話の収録されている本を、近いうちに注文してみたいと思っています

 

 

 

 

 


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