【天使とヤコブの闘い】ギュスターヴ・ドレ
今回もまた前文に書くことないっていうことで……「All or Nothing」っていうアメフトのドキュメンタリーのこと書いてたら、本文のほうが長くて入りきらなかったというか(^^;)
そんなわけで、今回は【22】のところに出てきた聖書の引用箇所のことについてでも、と思いました
>>時々ネイサンはこのふたりがヤコブと天使のあの戦いのように、取っ組み合いをして喧嘩しているように感じることがある。だが、ヤコブが天使に勝ったようにではなく、ネイサンの中では天使が勝つこともあればヤコブが勝つこともあるという、何かそんなことの繰り返しだった。そして今彼は腿のつがいが外れた状態だったといえるが、マクフィールド家のキャンプでみんなに会えば、そんな自分の傷ついた心も癒えるだろうという気がしたのである。
……というここなんですけど、これは旧約聖書、創世記からの引用となります
>>しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
するとその人は言った。
「わたしを去らせよ。夜が明けるから」
しかし、ヤコブは答えた。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」
ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その所の名をぺヌエルと呼んだ。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
彼がぺヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
(創世記、第32章22~32節)
ええと、この場合の<神>っていうのは天使(御使い)のことなのですが、何故ふたりが争っているのか、話すと長くなりますので端折ろうと思うんですけど……お話のもっとあとになってから、ヤコブのお兄さんのエサウのことについてちょっと本文に引用があったはずなので、この時ヤコブは双子のお兄さんのエサウと喧嘩したのち、再び兄に会いにいくところだった……ということだけ書いておこうかなって思います(^^;)
なんていうか、このことについても書きはじめると長いので……なんとなーく「もものつがいがはずれた状態」ってそういう意味か~☆的に思ってもらえればと思ったり。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【23】-
ところで、マクフィールドキャンプ場は一泊二日でも、また二泊三日でも終わらなかった。毎日、誰か彼かがテントに寝泊まりしに来て、雨の日は屋内へ避難するものの、それ以外では秘密基地ごっこを続けるという、そんなことが続いた。
「おまえら、父ちゃんと母ちゃんの許可はきちんと取りつけてあるんだろうな?」
「その点は大丈夫ですよーう」と、のんびりした声でノアが答える。「うちは両親とも共働きで放任主義っていうのもあるけど、むしろ俺が毎日家にいたら弟の分と含めておやつとかなんとか、面倒くさいでしょう?だから、マクフィールドさんのほうでそれでいいなら、うちの坊主をよろしくお願いしますってことでした」
「うちもそんな感じ」とリアム。「姉ちゃんはなんだかんだで友達と出かけてるし、これで俺もいなくなれば、母ちゃんも楽できていいんじゃないかな」
「ぼくはひとりっ子だから」と、少し照れたようにケビン。「お父さんもお母さんもぼくが夕食の時にいないと寂しいみたいなんだけど……」
ふむ、そうか、と頷いて、イーサンは(それならまあいいか)と考える。とはいえ、「ランディくんの家に行くと言ったきり、うちの子が戻らない」だのなんだの、可能性の低いリスクについても想定すると、なるべくならこんなキャンプは早くやめるに限ると言えば限るのだ。だが、毎日子供たちが楽しそうに秘密基地ごっこしているのを見ると、何故だかイーサンは「もう解散だ!」とは言いかねたのである。
この時、塾へ行っていたため、ネイサンはこの場にいなかった。けれど、実をいうとイーサンは彼のことを一番心配していた。何故といって他の子たちは二日にいっぺんとか、三日にいっぺんといった頻度で泊まっていくのに対し――彼は毎日やって来て、キャンプからそのまま塾へ通うという生活を続けていたからである。
その後、キャンプ大会が十日も過ぎる頃になると、ケビンとリアムとノアの親たちからは、それぞれ連絡が来た。「自分たちの息子がお世話になってます」とか、「本当は迷惑なんじゃないでしょうか」とか、「何か悪さをしたら厳しく叱ってくださって構いませんから」とか、何かそうした良識的な電話である。対するマリーやイーサンは、「来てくださるのはまるで構いませんし、まあそのうちこのキャンプ大会にも、子供たちのほうで飽きるでしょう」といったような話をしていたかもしれない。
けれど、唯一ネイサンの両親からはなんの音沙汰もなかったため、イーサンは最後に彼に聞くことにした。キャンプ大会がはじまって二十日を過ぎ、まず最初にリアムが叔母の別荘へ行って暫く戻らないという二日前のこと……ようやくイーサンは「そろそろこの秘密の基地ごっこも終わりにしなけりゃあな」と子供たちに言ったのである。
ノアとケビンもそれぞれ、一週間後か十日後には、リゾート地や近場のキャンプ場へキャンピングしにいく予定だったため、「まだ続けていたいけど、そろそろ駄目かなあ」と言って、納得していた。けれど唯一、ネイサンだけはそのことにとてもショックを受けたようだった。彼が何も言わなくてもイーサンにはそのことがわかったし、それはマリーにしても同じだった。
「おまえはどうしたいんだ、ネイサン?」
最後にテントを畳むのを手伝わせ、軽く庭の掃除もさせてから、他の子たちは自然と帰るに任せ――最後にひとり残ったネイサンのことを呼び寄せると、イーサンはガレージにテントやバーベキューセットを片付けたあと、そう聞いた。
「その……俺……出来ればこのまま、この庭の隅のほうにでも住まわせてもらうことは出来ないでしょうか?」
「そんなに家に帰りたくないのか」
(帰りたくないなんてものじゃない)と言いかけて、ネイサンは黙りこんだ。ここでキャンプをして過ごした二十日ほどの間、どれほど心が解放されて楽しかったことだろう。そんな自由を味わったあとで、気詰まりなことの多い家に帰るというのは、外で自由の味を覚えた鳥が、籠の中での不自由な生活に戻るのにも等しかった。
「俺、本当になんでもします!雑用とか掃除とか、ロンくんやココちゃんに勉強教えたりとか、たぶん結構役に立つと思うんです。それじゃ駄目でしょうか」
「…………………」
とりあえずイーサンは何も答えず、切羽詰った顔をしているネイサンのことを連れていくと、いつも通り夕食の食卓に彼のことも着かせた。ランディは言うに及ばず、マリーもロンもココも、ネイサンがいてもまるで不思議でないといった態度で、彼のことを迎えていた。特にココなどは彼がいると少しばかりお行儀のほうが良くなるくらいなようである。
食事のあと、マリーはランディの部屋の隣にあるゲストルームへネイサンのことを案内し、「遠慮なく好きなように使ってちょうだい」と言った。この間、イーサンはネイサンの家に電話で連絡を取っていたわけであるが――ネイサンは清潔なシーツ類に取り替えたばかりのベッドを見るなり、そこへ倒れこむようにして泣きだした。
「なんでですか……っ。俺、自分の家でもこんなこと、してもらったことないのに……俺、ランディのことがずっと羨ましかったんです。マリーさんみたいなおねえさんがいて、イーサンみたいなお兄さんがいて……それに比べたら、うちには実のお父さんと義理のお母さんがいるけど、自分は不幸で惨めだなあと思って……そしたらなんだか、羨ましくないとか嫉妬してないとか、そんな振りばっかりするのがだんだんつらくなってきて……」
「今、イーサンがおうちに電話して、ここにいてもいいかどうかって、聞いてると思うわ。それでもしお許しがでたら、好きなだけここにいたらいいんじゃないかしら」
ベッドの上に突っ伏して泣きじゃくるネイサンの黒い髪を、マリーは優しく撫でた。彼がキャンプに参加するようになって以来、マクフィールド家の子供たちにもいい影響があった。なんといってもネイサンはマリーのことをよく手伝ってくれる。食事の前の食卓の準備や後片付け、それだけじゃなくお風呂場洗いやゴミ出しなども……まったくの赤の他人の彼が率先してそんなことをするものだから、ロンやココもなんとなく気まずい感じがして、以降色々一緒に手伝ってくれるようになった。
「お義母さんのことは、とても残念ね。あなたはこんなにいい子なのに……その本当の値打ちがきっとわからないんだわ」
ネイサンはマリーのこの言葉にハッとした。何故といって、自分もまたまったく同じことを思っていたからだ。『マクフィールド家の子供たちは、マリーおねえさんの有り難味を、本当の意味ではまるでわかっていない』と。
目頭の涙をぬぐい、ティッシュで洟をかむと、ネイサンはベッドの上にマリーと並んで座った。(なんていい人なんだろう)と、いつもの慕わしい気持ちを感じるのと同時に、ネイサンはその自分の思いをどう言葉で表現したらいいか、わからなかった。
「じゃあ、ちょっと待っててね。イーサンがお父さんと話してみてどうだったか、聞いてくるから。その間、ランディに浴室にあるタオルとか、どれがネイサン用のかって聞いとくといいわ」
マリーはネイサンの頭のてっぺんにキスすると、そう言い残して一階へ戻ろうとした。けれど、彼もまた父が何をどう言うかが気になったため、やはり彼女と一緒にエレベーターで下へ降りるということにする。
「たぶんきっと……お父さんはそんなの駄目だって言うに決まってると思うんだ。でも俺、なんかもういいかなって少し思ったりもして。それはね、おねえさん。おねえさんが俺の値打ちをわかってくれたから、だから、そんならいいかなって思うっていう、そういうことなんだ。うちの義理の母も、悪い人ではないんだよ。っていうか俺、気の毒で可哀想な人だなあと思ってる。この間も、家計簿とレシートを引き比べながら、お金が合わないって言うんだ。つまりね、お金が合わないっていうことは、レジの人が何か間違いを犯して自分に少なくお釣りを渡したってことなんじゃないかって、ずっとそんなことを考えてるんだね。しかもそれ、ほんの二ドルとか三ドルとか、そんな程度のお金なんだよ。それよか、お義母さんがそれをどっかで落としたか何か勘違いしてるって可能性のほうがよっぽど高いと思うんだけど……」
「確かにそうね」と言って、マリーは笑った。マリー自身、人の噂を鵜呑みにしてはいけないと思っていたが、やはり何かにつけ、細かいことが気になるという性分なのかもしれない。スタンフィールド夫人という人は。「あんまり細かいことに囚われていると、そのことでイライラしたりして、あんまり体にも良くないでしょうしね」
「そうなんだ。ああいうのはほんと、周りの人にも迷惑なんだよ。なんとかということで自分が損したとなると、何故自分がそんな目に遭うのだろうと、随分くよくよするらしくて……父さんも弟のジミーもうんざりしてるんだけど、父さんが「そんなことばかり考えるものじゃないよ、おまえ」って言っても、まるで効果ないんだ。なんでかっていうとね、お義母さんにとっては常に自分が被害者で、か弱き立場のものだって考えだからなんだよ。スーパーで本来ならもらえるはずの福引券をもらえなかったのは自分に対する嫌がらせだとか、この間正規の値段で買ったセーターが一週間後に半額になってただとか……それで、そんな運命を自分に与えた店員のことを恨んだりするんだね。あれはもう一種の病気じゃないかなって俺は思うんだけど、精神病院に入院して治る類の病気じゃないから、なんともしようがないよ」
この段になると、流石にマリーもおかくしなってきて、くすくす笑った。ネイサンは自分の好きな女性が自分の話したことで笑ってくれたので、そのことがとても嬉しかった。
(ほんの時々でいいから、今みたいにふたりきりで話せるといいんだけどな。だって俺、この人には自分が心の中で思ってることをなんでも話せてしまえるくらいだから……)
一階でエレベーターを降り、ふたりがリビングのほうへ向かってみると――そこからはじめに聞こえてきたのは、イーサンの大きな怒鳴り声だった。
「わからない人だな、あんたも。お宅の血の繋がった息子が、自分の家にいるよりも他人の家にいるほうがよっぽど居心地がいいって言ってるんだぞ。しかも、いじましいことには、なんでもするから庭の隅にでもテントを張って暮らすのを許してくれって言うんだ。こんな異常なことが他にあるか?子供にとってはな、毎日うきうき楽しく家にいれるというより、そこにいるのがあまりに当たり前だっていうことが一番大事なんだ。それはようするに、家にいても針のむしろに座らされてるような何かがお宅の家にはあるってことじゃないか。差し出がましいようだが、そういうことについてあんたは父親として一度でも考えたことがあるのか!?」
このあと、相手――ネイサンの父のジェームズ・スタンフィールド――から、何かの反論があったと見え、暫くイーサンは黙って向こうの言い分に耳を傾けていたようである。
「そりゃそうさ。ネイサンはいい子だ。だがな、このことだけは覚えておけよ。あの子がいい子だから、今のところは他人の家の庭の片隅で暮らしたいくらいのことで済んでるんだ。あの子はその気になったら、あんたを困らせるためにどんな悪い人間にも本当はなれるんだ。だけど、自分の父親のことが好きで、その愛情に応えたいと思えばこそ、家の中でも学校でもいい子でいるように努力してるんじゃないか。その努力をもしあんたが当たり前のことだと思うなら……それは親として、とんだ思いあがりというものだ」
ネイサンはイーサンのこの言葉を聞いて、胸を突かれたように立ち尽くしていた。そして胸にあまりに熱いものが溢れるあまり、その場から逃げだすようにして、階段を上がっていった。マリーには彼の気持ちがわかったため、追いかけはしなかったわけだが――イーサンが電話を切ったあと、舌打ちしている彼を見て、優しく微笑った。
「コーヒーでもお淹れしましょうか?」
「ああ、頼む」
新聞を読む振りをしながら、イーサンが自己嫌悪に陥っているらしいと見てとって――マリーは彼に慰めるように言った。
「ネイサンもきっと、びっくりしたんじゃないかしら。イーサンお兄さんが自分の気持ちを代弁して、はっきりお父さんに言ってくれたことに対して……」
「そうか?俺にはあの坊主の本当の気持ちなぞ、実際にはよくわかっちゃいないさ。だがまあ、かつての自分と比べて、あいつの気持ちは少しわかるところがある。俺も寄宿学校に入ってからは、帰る家なんぞなかったからな。休暇の時にはラリーの家のほうに泊まらせてもらったり……やっぱり、俺だってあいつの屋敷の広い庭の片隅にでも住みたいと思っただろうよ。まあ、実際あいつは本当に出来た奴だった。俺がなんの気兼ねもしなくていいように、俺のプライドが傷ついたりしないよう、うまいこと「いくらでもここにいろよ」って言ってくれたからな。じゃなかったら俺もとても、寄宿学校での六年間を耐えられたとは思えん」
その彼につい先日なじられて以来、会ってないことを思うと……イーサンはやはり自分が折れるべきなのだろうという気がしてきた。イーサンとラリーの間で大きな喧嘩や言い合いになったということは、これまでほとんどない。だが、マリーがうさしゃんのパジャマを取りに戻ってきた時、何があったかをラリーは知るなり、「彼女が侮辱されていても、おまえは黙っていたのか!?」と言って、怒りだしたのである。いや、怒り狂っていたといってもいい。
マイケル・スチュアートがマリーに何をしようとしていたかを知れば、あいつの命が危ういと思ったことから――世が世なら、ラリーはスチュアートに決闘を申し込んでいたことだろう――イーサンはかろうじて、「俺だって変な男の魔手からあいつを守ってやったりしたんだぜ」と弁明するに留めておいたのである。
「それで、ネイサンのお父さんは、あの子がここにいてもいいって言ってくださったの?」
「ああ。一応その方向で説得してはみたが、夏休みが終わったら一度迎えにくるとさ。ようするに、夏休みの期間の間だけなら他人の家にご厄介になってもいいってことだな。まあ、簡単に言えば今年のディズニーランドはネイサンも一緒だってことだ」
「本当ですか!?」
ネイサンがどれほど喜ぶかを思って、マリーは顔を輝かせた。実をいうとこういう時のマリーに彼は弱い。もっとも、彼女は自分以外の他人のことでしか、こんなふうにはならなかったが。
だからこういう時、イーサンとしてはいつもマリーが「自分のことのためだけで同じようになるにはどうしたらいいのか」について考えさせられるところがある。
(まあもちろん、もっといいのは、あいつが俺のことのためだけにああいう顔をするってことなんだがな)
そう思い、イーサンが溜息を着いていると、マリーが言った。
「あの、ディズニーランドのことはあなたの口から伝えてもらえないでしょうか?」
「なんでだ?べつにあんたの口から言ったっていいことじゃないか」
「そうかもしれませんけど……さっきあの子、きっととても嬉しかったと思うんです。自分の気持ちを憧れのお兄さんが思ってた以上にわかってくれてて……ほんとに、いい子ですものね。ネイサンにはこれからもあのまま真っ直ぐ育っていって欲しいですわ」
ミミがここで、「ミミもうさしゃんも、ネイサンお兄ちゃんのこと、好っきー!」と言いながら駆けて来たため、イーサンは妹とぬいぐるみの頭を撫でた。
「ふふん。あんたもさぞ残念だろうな。うちの豚児どものうち、ひとりくらいネイサンみたいに優秀だったら、それこそ育て甲斐があるってもんだったろうに。ところがうちにはミミくらいしか有望株がいないからな」
「あら、そんなことありませんわ。第一、あの子たちはみんなまだ十歳かそこらですもの。これから大きくなるにつれて、ますますもっと良くなっていくんじゃないかしら。あのくらいの子たちは可能性の塊みたいなものですもの」
(俺は今以上にあいつらが悪くなっていくことを想像するがね)などと、皮肉なことは言わず、イーサンは肩を竦めただけでマリーとの会話を終えた。それからエレベーターで五階のほうへ上がっていき、ランディの隣のネイサンの部屋をノックする。
彼はランディと一緒に何か話して笑っていたらしいが、その瞳の中にはまだ涙のあとが残っていた。
「あ~、そのなんだ。ネイサンのお父さんは、夏休みの間だけならおまえがうちにいてもいいんだと。だからまあ、ディズニーランドにも一緒に行くってことになるな」
「やったあ!!」と言って、ランディが肉付きのいい両腕を振り上げる。「毎年さあ、車の中でココと最低何回かは喧嘩になるじゃん。でもネイサンがいれば、比較的あいつも大人しーんだよな。なんでかはよくわかんないけど!」
「あ、あの……でもぼく……」
イーサンはネイサンが何を言いたいのか、暫くの間待っていた。彼はイーサンのことを見上げて何か言いかけ、それからまた口を噤む。
「なんだ?言いたいことがあるなら言っちまえ。そのほうがスッキリして楽になるぞ」
「なんだか、弟のジミーのことが可哀想で……ジミーの奴、お義母さんの通ってるほうの教会でキャンプがあって、そっちに行かされることになると思うんです。それなのに、ぼくだけディズニーランドに行ったなんて言ったら……」
がっかりと肩を落としているイーサンに、ランディが言った。
「じゃあ、弟も一緒に来ればいいじゃないか。あの子、ロンとも同学年で顔見知りだし、ロンもきっと喜ぶんじゃないかな」
「でも、そんなの迷惑だよ。ぼく、さっきのお兄さんの言葉、ほんとにすごく嬉しかったんです。だから、みなさんが家族旅行へ行くっていう時期には家に戻ります。そこまでご一緒させてもらうっていうこと自体、そもそも物凄く図々しいことだし」
「いや、べつにいいさ。ただうちの車は七人乗りだからな……誰かひとり狭い思いをしなきゃならんかもしれないが、幸いミミは小さいし、みんなで交替で席替えすれば、まあどうにかなるだろう。明日、弟のほうにはネイサンが直接そう知らせてやるといい。俺はまたおまえの親父さんと喧嘩腰に話したり、神経質なおっかさんとうんざりするような話だけは絶対にしたくない」
なんとなく雰囲気として、『全然迷惑じゃないから、気にしなくていい』といったように感じて、ネイサンはマクフィールド一家のご厚意をそのまま受けとめることにした。そしてこの翌日、義母と顔を合わせるのが嫌なため、居間の電話を借りてネイサンは弟のジミーと話をしたのだが――むしろ逆に気の毒なことをしたかもしれなかった。
最初、ジミーは「自分もディズニーランドへ行ける!」と思って大喜びだった。ところが、ママに話をしたところ、大反対されたらしく……次に返事の電話をかけてきた時、彼の声は涙声だった。
「うん。なんか逆にごめんな。じゃあ、お土産は必ず買って帰るから……ああ。それじゃあな」
電話を切るなり、ネイサンはダイニングのほうへ戻ってきて、そこでお菓子作りをしているマリーのそばまで行った。
「ジミーくんはなんて?」
アップルパイの生地を麺棒でのしながら、マリーはそう聞いた。
「……なんか、お義母さんに反対されたみたいなんです。だから、行けないって」
ここでマリーは一旦「まあ」とでも言うように、生地をのすのをやめた。子供にとってあんなに楽しい場所へ行かせないだなんて、ジミーのママはディズニーランドをよく知らないのではないかと思った。
「その、俺もほんとは薄々、こうなるんじゃないかっていう気はしてたんです。あの人、弟を叱る時にもよく、『そんな子は悪魔にさらわれちゃうよ』とか『地獄へ行くからね、そんな悪い子は』って言ったりするもんですから……今回も同じ調子で言って、そんなことよりも教会のキャンプへ行きなさいって言ったんじゃないかなって思います。弟はほんと、純真な性格で信じやすいもんですから、お化けとかそういう話にもすごく弱いんですよ。だから……」
「そうねえ。ディズニーランドへ行っても、悪魔はやって来ないと思うけど……」
ネイサンはおねえさんがそう言って溜息を着くのを見て、少しだけ笑った。彼女自身は毎週ミミとロンのことを連れて教会へ行く。けれど、ランディやココのことを無理に連れていったりするようなことはないのだ。また、ネイサンはこの家で会話のさなかに『そんな悪い子は~~になるからね』とか『地獄へ行く』などといった言葉は一度も聞いたことがない。
「せめて何か、弟のために弟が喜ぶようなお土産を買って帰りたいと思います。それに、お義母さんも息子のジミーが今ごろ交通事故に遭ってるんじゃないかとか、ちょっと離れただけで色々想像する人なので、仕方ないと言えば仕方ないっていうか」
ネイサンはキッチンのところにあった洗い物などを素早く片付けると、また五階のほうへ上がっていった。マリーはといえば、スタンフィールド家の兄弟のうち、兄のほうは悪魔から救うことが出来たのに、弟のほうは魔女の手に留め置かれたといったような、奇妙な罪悪感を感じていたが、こればかりは彼女にもどうしようもないことである。
――なんにしても、このようなわけで、今年のディズニーランド旅行は、ある意味去年以上に楽しいものとなった。ネイサンのいてくれるお陰で、後部席のほうでは会話が弾んで楽しかったし、イーサンがこの夏の旅行をはじめて以来、車内ではなんのトラブルもなかったほどである。
そして、イーサンはそんな子供たちの様子を見ていて(奇妙なもんだな)と、あらためてそう感じたかもしれない。
何故といって、ネイサンという赤の他人の子が混ざったことでココにしても多少大人しくしている部分があるわけだが、去年新しくマリー・ルイスという赤の他人が入ってきた時には、子供たちは喧嘩したりなんだり、小さなことで揉めてばかりいるといったことになんの変化もなかったからである。
(ということは、だ。あいつはそもそも最初から、俺たちの家族にも等しかったってことなのか?)
イーサンはマリーの姿をバックミラーごしに眺めやり、彼女がミミのためにバナナの皮を剥いてやったり、子供たちにバスケットからお菓子を配ったりするのをちら見する。配られたお菓子が前のほうまでやって来ると、助手席にいたココが「わたし、これじゃないのがいい~!!」と言い、味は同じなのに、キャラクターのパッケージが違うものを所望する。
「マリー!こっちまでおまえの作ったハンバーガーまわしてくれ。腹へった」
後ろからハンバーガーが回ってくると、ココが食べやすいようにラップを半分とき、イーサンの片手に渡す。コーラのほうはすでにジュースホルダーのほうにしっかり置いてあった。
こんな調子でマクフィールド家の面々はドライブを楽しみ、途中農業体験が出来るという農場でヤギや羊やアルパカなどと親しんだのち、今夜一泊するためのホテルへ辿り着いたのだった。部屋は二部屋取ってあり、それぞれイーサン・ランディ・ネイサン・ロンと、マリー・ココ・ミミの二手に分かれるということになる。
この翌日、去年と同じようにディズニーランドに近いサウスルイスにある高級ホテルへ泊まり、さらにその翌日、みんなは旅の目的地であるディズニーランドへ流れこんだというわけだった。
マリーはこれで二度目だが、ネイサンは初めてやって来る場所にきのうから興奮してなかなか眠れなかったと告白していた。普段、少し大人びたところのある子供なだけに、イーサンもマリーも彼が年相応の子のように顔を明るく輝かせるのを見て――彼のことを連れてきて本当によかったと、そう思った。
去年は、イーサンもまた「子供たちに嫌々ながらつきあわされている」というポーズを取りつつ、その内心楽しんでいたりしたわけだが、今年の彼は少し違った。ミミが行きたがる方々につきあわされるマリーのそばにいて、ミミを間に挟み、まるで本当の夫婦のようにしているのが楽しかった。
何分、ネイサンはしっかりした子なので、ランディとロンとココだけでは心許ないが、マクフィールド家の兄妹にあちらこちらと引っ張りまわされながらも――実際は彼がうまいこと、三人の間を取り仕切ってくれるとわかっているため、イーサンとしても安心なのだった。
子供たちは携帯の情報を巧みに駆使して、あっちのアトラクション、こっちのアトラクションとどんどん進みゆき、マリーは去年同様ミミとゆっくりのんびり子供向けのショーを見たりして回った。最初はずっとイーサンがついて来るので落ち着かなかったし、彼がランディやロンやココ、ネイサンを引率するとばかり思っていたため、子供たちのことが心配でもあったが――「ガキはガキ同士、むしろ俺よりネイサンに引率されたほうがうまくやれるだろう」と彼が言うのを聞いて、「子供たちの自主性を重んじる」ということなのだろうかと、マリーも納得したのだった。
夜も遅くなり、携帯で「おい、おまえら今一体どこにいるんだ?」とイーサンが連絡してみると、「今、スペース・マウンテンのところにいるよう!!」とロンが浮かれた声で言うのを聞いて、イーサンは笑った。彼らは今回、トゥモローランドから攻めていたから、ぐるっとアトラクションを一巡し、再びまた自分たちの好きな場所へ行くことにしたに違いない。
「なんにしても、そろそろ引き上げるぞ。どこか適当なところで待ち合わせて帰ろう」
「うん。わかったー!!」
このあと、園内の入口近くで待ち合わせたものの、彼らがそう簡単には戻ってこないとわかっているため、イーサンは少しずつ時間を置いては電話をかけ、「今どこらへんにいるんだ?」と、現在位置を確認した。お土産を買ったり、やり残したことを最後にちょっとしてみたりと……実際、彼らが全員揃ってディズニーランドを出たのは、閉園間際のことだったといっていい。
ミミはその間、ベンチに座ったまま、今日自分が買ってもらった戦利品をひとつずつ取りだしては嬉しそうにニコニコ眺め、マリーにもこの日何度目になるかしれない報告をした。
「今ミミね、とってもしゃーわせなの!!おねえさんがいるでしょ、そしてイーサン兄たんもいるでしょ、それにうさしゃんもいるでしょ。だからね、もうなーんにもいらないの!!」
カチューシャをし、シンデレラのドレスを着たミミは、なんとも可愛らしかった。そしてそんなミミにイーサンもまた何度も「この世界でミミが一番可愛いぞ。そのことはお兄ちゃんが保証してやる」などと言っていたのだった。
そして、魔法使いのマントやら、海賊の格好やらをしたランディたち一行と合流すると、彼らはそのまま楽しげにしゃべりながらホテルへの道をゆき――そのおしゃべりはホテルの部屋に戻ってからも、実際に眠りにつくまで続いたのだった。
マリーもまた、ココからみんなとどの順番でどのアトラクションを楽しんだかを細々と説明され、何度も相槌を打ちながらその話を聞いた。時々、ランディとロンとココの間で意見が別れたような時も、どうやらイーサンが思っていたとおり、ネイサンがうまく仲裁してくれたらしい。
「そういえばネイサンって、夏休みが終わったらうちに帰るの?」
ホテルへ戻ってくるまでの道すがら、また部屋のほうに戻ってきてからも、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ舌を動かし通しだったココは、十二時近くになってからようやくあくびをし、ベッドの中に入っていた。
「そうね。お父さんがうちにいてもいいのは夏休みの間だけって、そうおっしゃったみたいだから……」
「へえ……そうなんだ。家に帰るのが嫌なら、このままうちの子になっちゃえばいいのにね。わたし、ランディやロンなんてべつにどうでもいいから、イーサンの次にネイサンみたいなお兄さんが欲しかったわ」
そのあと、「じゃ、おやすみなさい!!」と言ってココは、枕に頭をつけて布団をかぶった。それでマリーも「おやすみなさい」と言って、部屋のナイトスタンドを消す。ちなみにミミはもうとっくに、夢の国の住人になっている。
そしてマリーもまた、この夜はなんだか変な感じだった。最初、マリーは去年と同じくミミと二人であちこちのショーを見たり、アトラクションを楽しんだりする予定だった。けれど、イーサンがずっと一緒にいるとわかってからは、なんだか落ち着かなかった。もちろんミミにとっては、自分だけでなく「大好きなイーサン兄たん」も一緒にいてくれるほうが嬉しいとわかっている。
けれど、彼がどこに行くにしても自分に対して協力的で、マリーの意見もしっかり聞き、何かとレディファーストに親切かつ優しくしてくれたため――変な話、すっかり調子が狂ってしまったのだ。ミミにしても一度、「にいたーん。今日のイーサンにいたんはなんだかとってもやさしいね~」と言っていたように……確かに何かがおかしいと、マリーにしてもそう感じたものである。
何より、何かの拍子に彼がじっと自分のほうを見てくる目つき……そこに潜んでいる曰く言いがたい気配のことが、マリーにはよくわからないのだった。もっとも、マリーのほうではもっぱらミミを中心にして彼女が楽しめるようにと考えていたため、イーサンのことは次第にそれほど気にしなくなっていたとはいえ……。
それでも、何かの拍子にちょっと助けてくれたり、人がぶつかってきた時に、相手のことを居丈高に睨みつけたり――マリーはこの日、イーサンが見せた態度に戸惑いながらも、(いつも彼が意地悪じゃなく、あんなふうならいいのに)と、そう思ったかもしれない。そして、彼とミミを間に挟んでコーヒーカップの乗り物に乗ったり、空飛ぶダンボに一緒に乗ったりしたことを思いだしながら……マリーもまた、ミミやココと同じく、いつしか夢の国の住人になっていたのである。
翌日は家路に向かうということになってはいたが、子供たちはきのうのことで興奮しきっていたため、車の中での話題はディズニーランドのことばかりだった。また、ココも助手席できのうマリーにしたのと同じく、事細かくどんな順番でどのアトラクションを楽しんだかといったことを話したため、イーサンはその場にいなかったにも関わらず、そこにいたのと同じくらい何がどうだったかを知ることが出来たといえる。
帰りは去年と同じくキャンプして帰る予定となっており、車の最後部からは例のテントやバーベキューセットが降ろされ、イーサン指揮の下、まずは男の子だけでテントを張るということになった。その後、火を起こしてマリーが下ごしらえしておいたバーベキューが焼かれ、子供たちはこの屋外生活を満喫したというわけだった。
夜は最後に花火をして、明日も早く出発することから、みんなはもう夜の九時には就寝するということにしていたかもしれない。
マリーは三人用のテントのほうで眠っていたわけだが、夜中に人の話し声で目を覚ましていた。隣をみると、ミミもココもぐっすり眠っており、彼女は「何も心配ない」と思い、再びバスタオルを重ねた枕に頭をつけたのだが……その外の話し声が、やがてイーサンとネイサンのものであることに気づいた。
「ふうん。で、おまえ……医者ってのは、本当におまえ自身がなりたいものなのか」
「よく、わかりません」と、ネイサンの声。「俺、八歳で母さんのことを亡くしてるから、父さんの望むとおり医者になることが父さんが一番喜んでくれることだって、ずっとそう思ってた気がします。でも、あの人がうちにやって来てから……父さんもなんだか変わっちゃって。たぶん、結婚する前まではお義母さんがああいう性格だとはよく知らなかったんじゃないかなって思います。だって、あの人ときたら、うちの庭に毎日同じカラスがやって来るっていうだけでも、悪霊がカラスに取り憑いてて、それが自分たちを見張って不幸にしようとしているとか、そんな考えなんですからね。しかもそれがカラスのことだけじゃないんですよ。なんにでもそうやって不幸な側面ばっかり見ようとする人なもんで、しまいには周りの人がみんな嫌になってくるんです。父さんの頭にはきっと、自分のことだけじゃなくて、俺のこともあったとは思うんですよ。息子もまだ小さいし、まだまだ母親の力が必要だとかって思ったんだろうな。でも、俺にしてみたらあんな人が家に転がりこんでくるより、前と同じく家政婦さんでもいてくれたほうが、まだしもましだったっていうか」
ネイサンはここで、深々と溜息を着いた。楽しかった夏休みももうすぐ終わってしまう――ネイサンの場合、学校がはじまるのが憂鬱なのではなかった。実家に戻って義母と顔を合わせることを思うと憂鬱なのだった。それに、前とは違って心から笑うことの少なくなった父親と顔を合わせることも……。
「そうか。こう言っちゃなんだが、それももうあと一年の辛抱とでも思って我慢するしかないかもな。俺の場合は十一の時に母親が死んで、その一年後には寄宿学校に入ることになってた。実の父親ってのがまったく役に立たない軽蔑すべき男だったもんで、一応認知はしてくれたものの、それは学校の授業料を払ってくれるとか、とかく金の面に関することだけでな。実質、俺は孤児になったも同然だったといっていい。それに比べたらネイサン、おまえはまだ心から愛し尊敬できる父親がいるってだけでも、少しは救いかもしれないぞ」
「…………………」
ネイサンは黙りこんだが、それはイーサンの言った言葉を承服しかねたからではない。ケネス・マクフィールドの生前の評判については風の噂のようなものによってネイサンも知っている。そう考えた場合、確かに自分には心から尊敬し、愛する父がいてくれるだけでも幸せだと、心からそう思えたからだった。
「なんにしても、そろそろ寝ろ。さっき偶然捕獲したクワガタ虫についてはな、出来ればランディにもロンにも気づかれないでおくのが最善だが、まあ無理だろうから、あいつらが欲しがっても適当にあしらっておけ。これは弟のジミーに持って帰るんだとでも言ってな」
「……はい」
ネイサンがそう嬉しそうに答えると、イーサンは彼の頭を撫でた。そしてネイサンがテントに入っていったあとも、イーサンが焚き火の炎の前に座っているらしいのを見て――マリーは起き上がることにしたのだった。
「眠れないんですか?」
「ああ。なんとなくな……こうやって焚き火の炎をずっと見ていると、あんたは変な気になることはないか?俺はこういう時、自分の御先祖様のDNAの遠い記憶が脳のどっかにあるんだろうなって気がする。マンモスとか狩ってた遥か昔も、こんなふうに焚き火してたって記憶がどっかに残ってるんだろうよ。もっともあんたは、進化論なんて信じちゃいないんだろうが」
「…………………」
マリーはこの質問には答えなかった。ユトランドの国中を見渡してみた場合、比較的リベラルな傾向にある学校では進化論についても教えているが、たとえばミッションスクールなどでは進化論については教えていないどころか、否定している場合がほとんどだろう。
「クワガタ虫を捕ってきたんですか?」
「ああ。小便しにいこうとしたら、ネイサンも一緒に行くっていうもんでな、そしたらその途中にあった樹に何故か一匹だけ止まってたんだ。虫籠に入れておいたんだが、捕まえたのが実際は俺でも、あれはネイサンのものってことにして、ランディやロンがぶうぶう言ってもあんたも相手にするなよ」
「そうですね」
マリーはイーサンの隣、先ほどまでネイサンが座っていた折り畳み椅子に腰掛けた。それから、少しの間焚き火の炎に魅入られた者のようにぼうっとしてから、何かの暗示を解くように口を開く。
「その……お父さまのケネス・マクフィールドさんのことなんですけど……」
「ああ。あんた一体、どのあたりから俺たちの話を聞いてたんだ?」
盗み聞きとは趣味がいいな、などと言うつもりはイーサンには毛頭ない。寝ていたところを話し声で起こしたのかもしれないし、あとは聞きたくなくても会話が聞こえてきたのだろうとわかっていたからだ。
「あなたがネイサンに本当にお医者さんになりたいのかって聞いたあたりからだと思います。それで、お父さまのことなんですけど、ケネスさんはあなたのこと、父親として誇りに思うって言ってました。父親としてお金以外のことでは何もしてやらなかったのに、あんなに立派に育つとは思ってなかったって……ランディやロンやココちゃんたちのことも、金以外のことでは何もしてやれない駄目な父親だと言って、涙を零しておられたんです」
「まあ、あんたはお人好しだからな。それに、確かに死ぬ三十秒くらい前には心からそう思うくらいの良心が、あいつにもあったんだろうよ。だが、実質的に俺もあの子たちも、父親としてのケネス・マクフィールドには何もしてもらっちゃいないさ。だが俺はそのことを特に不満とも思ってないし、昔はともかく今じゃあ、あれだけの預金口座を五人のガキめらによく残してくれたと思って、その一事によってその他の細かいことなんかは許せるくらいかもしれないな」
「……本当に、そうなんですか?」
イーサンは心からそう思っていたので頷いた。いや、去年こうして焚き火を前にした時に同じようなことを言われていたら、イーサンはもしかしたらカッカするあまり、「話はこれでしまいだ!」といったような態度だったかもしれない。だが、今は去年とは違った。何故といって、マリーがその後弟妹たちの面倒を優しく見てくれたことで……イーサンもまた「もうこれでいい」と思い、あのひどい父親のことを許してやれる一歩手前くらいのところまでやって来ることが出来たのだ。
「ああ。といってもそれは何も、俺が人間として成長したとかなんとか、そんなことではないんだ。理由はあんたさ、マリー。あのろくでなしの父親が、遺産の他にあんたも残していってくれたから、そんなら許してやるかという、これはそういう話なんだ」
マリーはびっくりして言葉を失った。それというのも、今日ディズニーランドで何度か見たあの顔の表情――慈母が持つのにも似た、優しく慈しみ深い眼差しでまたも彼が自分のことを見つめてきたからだった。
「その、もしあなたが心の中でお父さまと和解できたとしたら、わたしもとても嬉しく思います」
「<和解>か。まあ、一種の宗教用語だな。ところでマリー、あんた父親は?」
これまで、イーサンは一貫して彼女に過去に関わることを聞くのは避けてきた。それは何か直感的に、マリー・ルイスには人に聞かれたくない過去があるに違いないと思っていたからだし、彼女自身、聞かれたことには素直に答える質なため、なんとなく悪いような気がしていたというのがある。また、そんなことを色々聞いてしまった翌日に、「お世話になりました」だのいう書き置きひとつ残して彼女は去っていった……などということになっては困ると思ったせいでもある。
「父親は、いません。とにかく、最初から存在していませんでした」
「よくわからんな。まあ、話したくないならいいんだ。人には色んな過去がある。だが、あんたがそれなりに俺にも気を許すようになったら、自分から家族のことだのなんだの話してくれるだろうと思ってたんだ。第一、ネイサンの家だって、ある観点から見ればひどく悲惨な気さえするからな。ああいう神経に障りのある女っていうのは、おそらく誰にもどうにも出来んだろう。ネイサンのおとっつぁんの医学博士にもどうにも出来まいよ。あの妻といると自分まで憂鬱症になると思ったところで、もはや離婚もできないだろうしな。まあ、ケネス・マクフィールド氏も、シャーロット・オブライエンと結婚したことで、大体のところ似たような災厄をしょいこんだといったところだ」
『父親がいないんなら、じゃあ母親は?』と聞こうかとも思ったが、もしや彼女は孤児なのだろうかという気もし、イーサンは聞くのがためらわれた。もちろん、彼のうちにも、好きな女のことについてはなんでも知っておきたいと感じる気持ちはある。だが、マリーのほうで服を脱ぐようになるまで待つ……と誓ったとおり、このことについても、彼女のほうから話す時がいずれやって来るだろうと、そう思うことにしたのだ。
「災厄っていうと、どういうことですか?」
「ほら、あんたも最初にうちの屋敷へやって来た時、びっくりしただろうが……あちこちとにかくイルカだらけでな。ランディたちのママは、とにかく占いに狂ってたんだ。何か重要なことを決定する時には、タロットカードを引いたりなんだりして決めたりとかな。あんた、俺がもしレストランを決める時に、『妻よ。今日の俺たちのラッキーな方角は南西だ。南西にあるレストランへ行こう』なんて言い出したらどうする?」
「そうですねえ」と、マリーも屈託なく笑った。「でもそれが、ケネス・マクフィールドさんがあまりご自宅へ寄りつかなくなった理由ということなんですか?」
「さてな。俺はこう思ってるよ。彼女と結婚した時、親父はだんだんに年を取ってきていた。だから、このあたりで三十も年の離れた女と結婚するのも悪くないかもしれない……くらいの気持ちだったんだろう。ところが、新妻に豪邸を建ててやったまではいいが、占いだけじゃなく、その筋の高名なお先生に来ていただいたりするのを見るにつけ、こんな女とわかっていれば結婚するんじゃなかったと思ったんじゃないかな。だが、何分ホロスコープで相性バッチリとか女のほうに言われてした結婚だけあって――確かにあっちのほうの相性は良かったんだろう。親父はどうにか離婚の口実を見つけようとして、ココの時にもミミの時にも本当に自分の子かどうかDNA鑑定させたらしい。だが、みんな親父の子さ。妻の機嫌取りに連れていった旅行先なんかで孕むってことになったんだろう。そんなわけで親父は自分の妻という存在にうんざりしながら、その後もまるで自分は結婚してないっていう具合で他の愛人たちともつきあってた。ようするに俺たちの親父ってのは、そんな男さ」
「…………………」
イーサンにしても、やはり今も少し不思議なのだ。ロンシュタットの老人福祉施設でのケネス・マクフィールドのふるまいというのは、彼が患者でもなく老人でもなく金持ちでもなかったら、介護員にサンドバッグにされていたことだろう……というくらい、行儀のいいものだったらしい。マリーがいかに善良といえども、辟易しなかったとはイーサンには思えない。しかも、その男の最後の願いを彼女が受け容れたからこそ、マリーは今ここにいるのだ。
「だから、あんたの父親ってのはどうだったのかなと思ったんだ。けど、父親がいなかったってことは、母親のほうはシングルマザーだったってことなのか?」
「そうです。わたしの母も変わっていましたから……ネイサンのお母さんやミミちゃんたちのお母さんが少し風変わりでも、あんまり驚きません。お母さんっていうのは、ただ自分と血の繋がったお母さんだっていうだけで、本当にそれだけでいいことだと思うんです。その……あなたが学生の仲間の方とお屋敷のほうでパーティした時……」
「ああ、あのパーティな」
マリーが少しばかり頬を赤らめるのを見ても、イーサンは誤解したりしない。自分とのことを思いだしたというのでなく、うさしゃんのパジャマのために彼女が被った恥辱のことを思うと、今はイーサンもラリーが怒り狂っていたのと同様、自分があの時どうにかしてやっていればと後悔していた。
「ランディがまだ、ネイサンとの仲が気まずくなってた頃で、お兄ちゃんの元気がなかったものだから、ココちゃんも急に泣きだしたことがあって。あの時わたし、本当にハッとしました。普段、他の友達の家でパパとママが当たり前にいる家庭を目にしながら……ココちゃんも本当は羨ましかったんだなってわかったんです。でも、それはわたしにもどうにもしてあげられないことだから……」
「そりゃそうさ。俺だって十一の時に母親は癌で死んだ。誰が悪いんでもない。<死>っていうのはそういうものだ。ココだってママの代わりをあんたに求めてるってわけじゃないだろう。ミミはまだ小さいから別にしても――乗り越えらないことでも、乗り越えて生きていくしかない。俺が自分のこともランディたちのことも可哀想だって思うのは何よりその点さ。そんなこと、人生行路を歩むもっとあとになってから知るべきことなはずなのに、なんの準備もなしにわけもわからず、あの幼さでそういう現実と向きあっていかなくちゃならなかったってのは……子供には残酷なことだからな」
「イーサンはどうやって乗り越えたんですか?」
この時、イーサンはどう答えたらいいかわからなくて、組み合わせた両手に視線を落としたままでいた。
「……俺は、どうやって乗り越えたんだったか、あんまり昔なことなもんで、忘れちまったな。とにかく、野球でいうなら目の前にやって来た球をバットで次から次へと打ってくうちに少しずつ悲しみやつらさに慣れていったんだろう。アメフトでいうならな、自分が持ってる大切なボールを奪いにやってくる連中から必死に逃げたり、味方にパスして渡すっていう、ああいう感覚に似てる。そうやって、親がいなくても困難になんか負けてたまるかと思って生きてきたんだろうな。なんとも可哀想な奴さ、まったく」
「そんなことありません。イーサンは可哀想じゃないと思います」
「そうか?」
彼はクーラーの中からビールを取りだして、一口飲んだ。(やれやれ。まったく変な女だ)と思いながら。
「だって、あなたにはこんなに可愛い弟や妹がいて、心から慕われているんですもの。それに、友達もたくさんいて、あんなに綺麗で美人なガールフレンドだっているじゃありませんか」
「ああ、そういう意味な。だが俺はキャサリンとはいずれ別れることになると思ってる。まあ、クリスティンとマーティンの結婚式の時には、まだつきあってるっていう風を装うことになるだろうが……いずれ、そういうことになるだろうな」
「どうしてですか?」
イーサンがマリーの顔を見返すと、彼女があんまりきょとんとした顔をしているので、彼は例のイライラの虫が顔を出すのをこの時も感じた。
「どうしてって、まあ、あんたにはわからんだろうが、恋人同士なんて言っても、俺とキャシーの間には色々あるんだ。まあ、ろくに大した恋愛経験もないだろうあんたにはまずもって絶対わからんだろうがな」
「そうですね。それじゃあわたし、そろそろ寝ます。おやすみなさい」
(一体なんなんだ、本当にこのマリー・ルイスって女は)
イーサンはそう思いながら、ビールを一本飲み干したあと、火を消して眠りについた。都会のユトレイシアあたりではこんなにくっきりと美しく星空を眺められることはまずなかったが、イーサンは最後に流れ星が落ちていくのを見て、自分が今心に思い描く『星に願いたいこと』はなんだろうかと考えた。
流れ星が落ちていくまでの間にイーサンが瞬間的に感じたのは、マリー・ルイスと結ばれるということだった。だが、そうではなく、もし本当に願いが叶うのなら、彼はマリーのことは自分の力で獲得したかったため、それ以外のこととなると――まだ幼い弟たちや妹たちの幸福、それに心から大切に感じる友人たちの幸福、それから最後にマリー個人の、彼女がもっとも願っていることが叶うようにというところまで考えて……彼はテントの中で寝返りを打ちつつ、そのことがどうしてもわからなかった。
たとえば、恋人のキャサリンの願う幸福が自分との結婚であることは想像できるのに、マリー・ルイスの場合は……彼女が自分の幸福として一体どんなことを本当は望んでいるのか、イーサンにはまったくわかりかねたのである。
>>続く。
今回もまた前文に書くことないっていうことで……「All or Nothing」っていうアメフトのドキュメンタリーのこと書いてたら、本文のほうが長くて入りきらなかったというか(^^;)
そんなわけで、今回は【22】のところに出てきた聖書の引用箇所のことについてでも、と思いました
>>時々ネイサンはこのふたりがヤコブと天使のあの戦いのように、取っ組み合いをして喧嘩しているように感じることがある。だが、ヤコブが天使に勝ったようにではなく、ネイサンの中では天使が勝つこともあればヤコブが勝つこともあるという、何かそんなことの繰り返しだった。そして今彼は腿のつがいが外れた状態だったといえるが、マクフィールド家のキャンプでみんなに会えば、そんな自分の傷ついた心も癒えるだろうという気がしたのである。
……というここなんですけど、これは旧約聖書、創世記からの引用となります
>>しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
するとその人は言った。
「わたしを去らせよ。夜が明けるから」
しかし、ヤコブは答えた。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」
ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
そこでヤコブは、その所の名をぺヌエルと呼んだ。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
彼がぺヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
(創世記、第32章22~32節)
ええと、この場合の<神>っていうのは天使(御使い)のことなのですが、何故ふたりが争っているのか、話すと長くなりますので端折ろうと思うんですけど……お話のもっとあとになってから、ヤコブのお兄さんのエサウのことについてちょっと本文に引用があったはずなので、この時ヤコブは双子のお兄さんのエサウと喧嘩したのち、再び兄に会いにいくところだった……ということだけ書いておこうかなって思います(^^;)
なんていうか、このことについても書きはじめると長いので……なんとなーく「もものつがいがはずれた状態」ってそういう意味か~☆的に思ってもらえればと思ったり。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【23】-
ところで、マクフィールドキャンプ場は一泊二日でも、また二泊三日でも終わらなかった。毎日、誰か彼かがテントに寝泊まりしに来て、雨の日は屋内へ避難するものの、それ以外では秘密基地ごっこを続けるという、そんなことが続いた。
「おまえら、父ちゃんと母ちゃんの許可はきちんと取りつけてあるんだろうな?」
「その点は大丈夫ですよーう」と、のんびりした声でノアが答える。「うちは両親とも共働きで放任主義っていうのもあるけど、むしろ俺が毎日家にいたら弟の分と含めておやつとかなんとか、面倒くさいでしょう?だから、マクフィールドさんのほうでそれでいいなら、うちの坊主をよろしくお願いしますってことでした」
「うちもそんな感じ」とリアム。「姉ちゃんはなんだかんだで友達と出かけてるし、これで俺もいなくなれば、母ちゃんも楽できていいんじゃないかな」
「ぼくはひとりっ子だから」と、少し照れたようにケビン。「お父さんもお母さんもぼくが夕食の時にいないと寂しいみたいなんだけど……」
ふむ、そうか、と頷いて、イーサンは(それならまあいいか)と考える。とはいえ、「ランディくんの家に行くと言ったきり、うちの子が戻らない」だのなんだの、可能性の低いリスクについても想定すると、なるべくならこんなキャンプは早くやめるに限ると言えば限るのだ。だが、毎日子供たちが楽しそうに秘密基地ごっこしているのを見ると、何故だかイーサンは「もう解散だ!」とは言いかねたのである。
この時、塾へ行っていたため、ネイサンはこの場にいなかった。けれど、実をいうとイーサンは彼のことを一番心配していた。何故といって他の子たちは二日にいっぺんとか、三日にいっぺんといった頻度で泊まっていくのに対し――彼は毎日やって来て、キャンプからそのまま塾へ通うという生活を続けていたからである。
その後、キャンプ大会が十日も過ぎる頃になると、ケビンとリアムとノアの親たちからは、それぞれ連絡が来た。「自分たちの息子がお世話になってます」とか、「本当は迷惑なんじゃないでしょうか」とか、「何か悪さをしたら厳しく叱ってくださって構いませんから」とか、何かそうした良識的な電話である。対するマリーやイーサンは、「来てくださるのはまるで構いませんし、まあそのうちこのキャンプ大会にも、子供たちのほうで飽きるでしょう」といったような話をしていたかもしれない。
けれど、唯一ネイサンの両親からはなんの音沙汰もなかったため、イーサンは最後に彼に聞くことにした。キャンプ大会がはじまって二十日を過ぎ、まず最初にリアムが叔母の別荘へ行って暫く戻らないという二日前のこと……ようやくイーサンは「そろそろこの秘密の基地ごっこも終わりにしなけりゃあな」と子供たちに言ったのである。
ノアとケビンもそれぞれ、一週間後か十日後には、リゾート地や近場のキャンプ場へキャンピングしにいく予定だったため、「まだ続けていたいけど、そろそろ駄目かなあ」と言って、納得していた。けれど唯一、ネイサンだけはそのことにとてもショックを受けたようだった。彼が何も言わなくてもイーサンにはそのことがわかったし、それはマリーにしても同じだった。
「おまえはどうしたいんだ、ネイサン?」
最後にテントを畳むのを手伝わせ、軽く庭の掃除もさせてから、他の子たちは自然と帰るに任せ――最後にひとり残ったネイサンのことを呼び寄せると、イーサンはガレージにテントやバーベキューセットを片付けたあと、そう聞いた。
「その……俺……出来ればこのまま、この庭の隅のほうにでも住まわせてもらうことは出来ないでしょうか?」
「そんなに家に帰りたくないのか」
(帰りたくないなんてものじゃない)と言いかけて、ネイサンは黙りこんだ。ここでキャンプをして過ごした二十日ほどの間、どれほど心が解放されて楽しかったことだろう。そんな自由を味わったあとで、気詰まりなことの多い家に帰るというのは、外で自由の味を覚えた鳥が、籠の中での不自由な生活に戻るのにも等しかった。
「俺、本当になんでもします!雑用とか掃除とか、ロンくんやココちゃんに勉強教えたりとか、たぶん結構役に立つと思うんです。それじゃ駄目でしょうか」
「…………………」
とりあえずイーサンは何も答えず、切羽詰った顔をしているネイサンのことを連れていくと、いつも通り夕食の食卓に彼のことも着かせた。ランディは言うに及ばず、マリーもロンもココも、ネイサンがいてもまるで不思議でないといった態度で、彼のことを迎えていた。特にココなどは彼がいると少しばかりお行儀のほうが良くなるくらいなようである。
食事のあと、マリーはランディの部屋の隣にあるゲストルームへネイサンのことを案内し、「遠慮なく好きなように使ってちょうだい」と言った。この間、イーサンはネイサンの家に電話で連絡を取っていたわけであるが――ネイサンは清潔なシーツ類に取り替えたばかりのベッドを見るなり、そこへ倒れこむようにして泣きだした。
「なんでですか……っ。俺、自分の家でもこんなこと、してもらったことないのに……俺、ランディのことがずっと羨ましかったんです。マリーさんみたいなおねえさんがいて、イーサンみたいなお兄さんがいて……それに比べたら、うちには実のお父さんと義理のお母さんがいるけど、自分は不幸で惨めだなあと思って……そしたらなんだか、羨ましくないとか嫉妬してないとか、そんな振りばっかりするのがだんだんつらくなってきて……」
「今、イーサンがおうちに電話して、ここにいてもいいかどうかって、聞いてると思うわ。それでもしお許しがでたら、好きなだけここにいたらいいんじゃないかしら」
ベッドの上に突っ伏して泣きじゃくるネイサンの黒い髪を、マリーは優しく撫でた。彼がキャンプに参加するようになって以来、マクフィールド家の子供たちにもいい影響があった。なんといってもネイサンはマリーのことをよく手伝ってくれる。食事の前の食卓の準備や後片付け、それだけじゃなくお風呂場洗いやゴミ出しなども……まったくの赤の他人の彼が率先してそんなことをするものだから、ロンやココもなんとなく気まずい感じがして、以降色々一緒に手伝ってくれるようになった。
「お義母さんのことは、とても残念ね。あなたはこんなにいい子なのに……その本当の値打ちがきっとわからないんだわ」
ネイサンはマリーのこの言葉にハッとした。何故といって、自分もまたまったく同じことを思っていたからだ。『マクフィールド家の子供たちは、マリーおねえさんの有り難味を、本当の意味ではまるでわかっていない』と。
目頭の涙をぬぐい、ティッシュで洟をかむと、ネイサンはベッドの上にマリーと並んで座った。(なんていい人なんだろう)と、いつもの慕わしい気持ちを感じるのと同時に、ネイサンはその自分の思いをどう言葉で表現したらいいか、わからなかった。
「じゃあ、ちょっと待っててね。イーサンがお父さんと話してみてどうだったか、聞いてくるから。その間、ランディに浴室にあるタオルとか、どれがネイサン用のかって聞いとくといいわ」
マリーはネイサンの頭のてっぺんにキスすると、そう言い残して一階へ戻ろうとした。けれど、彼もまた父が何をどう言うかが気になったため、やはり彼女と一緒にエレベーターで下へ降りるということにする。
「たぶんきっと……お父さんはそんなの駄目だって言うに決まってると思うんだ。でも俺、なんかもういいかなって少し思ったりもして。それはね、おねえさん。おねえさんが俺の値打ちをわかってくれたから、だから、そんならいいかなって思うっていう、そういうことなんだ。うちの義理の母も、悪い人ではないんだよ。っていうか俺、気の毒で可哀想な人だなあと思ってる。この間も、家計簿とレシートを引き比べながら、お金が合わないって言うんだ。つまりね、お金が合わないっていうことは、レジの人が何か間違いを犯して自分に少なくお釣りを渡したってことなんじゃないかって、ずっとそんなことを考えてるんだね。しかもそれ、ほんの二ドルとか三ドルとか、そんな程度のお金なんだよ。それよか、お義母さんがそれをどっかで落としたか何か勘違いしてるって可能性のほうがよっぽど高いと思うんだけど……」
「確かにそうね」と言って、マリーは笑った。マリー自身、人の噂を鵜呑みにしてはいけないと思っていたが、やはり何かにつけ、細かいことが気になるという性分なのかもしれない。スタンフィールド夫人という人は。「あんまり細かいことに囚われていると、そのことでイライラしたりして、あんまり体にも良くないでしょうしね」
「そうなんだ。ああいうのはほんと、周りの人にも迷惑なんだよ。なんとかということで自分が損したとなると、何故自分がそんな目に遭うのだろうと、随分くよくよするらしくて……父さんも弟のジミーもうんざりしてるんだけど、父さんが「そんなことばかり考えるものじゃないよ、おまえ」って言っても、まるで効果ないんだ。なんでかっていうとね、お義母さんにとっては常に自分が被害者で、か弱き立場のものだって考えだからなんだよ。スーパーで本来ならもらえるはずの福引券をもらえなかったのは自分に対する嫌がらせだとか、この間正規の値段で買ったセーターが一週間後に半額になってただとか……それで、そんな運命を自分に与えた店員のことを恨んだりするんだね。あれはもう一種の病気じゃないかなって俺は思うんだけど、精神病院に入院して治る類の病気じゃないから、なんともしようがないよ」
この段になると、流石にマリーもおかくしなってきて、くすくす笑った。ネイサンは自分の好きな女性が自分の話したことで笑ってくれたので、そのことがとても嬉しかった。
(ほんの時々でいいから、今みたいにふたりきりで話せるといいんだけどな。だって俺、この人には自分が心の中で思ってることをなんでも話せてしまえるくらいだから……)
一階でエレベーターを降り、ふたりがリビングのほうへ向かってみると――そこからはじめに聞こえてきたのは、イーサンの大きな怒鳴り声だった。
「わからない人だな、あんたも。お宅の血の繋がった息子が、自分の家にいるよりも他人の家にいるほうがよっぽど居心地がいいって言ってるんだぞ。しかも、いじましいことには、なんでもするから庭の隅にでもテントを張って暮らすのを許してくれって言うんだ。こんな異常なことが他にあるか?子供にとってはな、毎日うきうき楽しく家にいれるというより、そこにいるのがあまりに当たり前だっていうことが一番大事なんだ。それはようするに、家にいても針のむしろに座らされてるような何かがお宅の家にはあるってことじゃないか。差し出がましいようだが、そういうことについてあんたは父親として一度でも考えたことがあるのか!?」
このあと、相手――ネイサンの父のジェームズ・スタンフィールド――から、何かの反論があったと見え、暫くイーサンは黙って向こうの言い分に耳を傾けていたようである。
「そりゃそうさ。ネイサンはいい子だ。だがな、このことだけは覚えておけよ。あの子がいい子だから、今のところは他人の家の庭の片隅で暮らしたいくらいのことで済んでるんだ。あの子はその気になったら、あんたを困らせるためにどんな悪い人間にも本当はなれるんだ。だけど、自分の父親のことが好きで、その愛情に応えたいと思えばこそ、家の中でも学校でもいい子でいるように努力してるんじゃないか。その努力をもしあんたが当たり前のことだと思うなら……それは親として、とんだ思いあがりというものだ」
ネイサンはイーサンのこの言葉を聞いて、胸を突かれたように立ち尽くしていた。そして胸にあまりに熱いものが溢れるあまり、その場から逃げだすようにして、階段を上がっていった。マリーには彼の気持ちがわかったため、追いかけはしなかったわけだが――イーサンが電話を切ったあと、舌打ちしている彼を見て、優しく微笑った。
「コーヒーでもお淹れしましょうか?」
「ああ、頼む」
新聞を読む振りをしながら、イーサンが自己嫌悪に陥っているらしいと見てとって――マリーは彼に慰めるように言った。
「ネイサンもきっと、びっくりしたんじゃないかしら。イーサンお兄さんが自分の気持ちを代弁して、はっきりお父さんに言ってくれたことに対して……」
「そうか?俺にはあの坊主の本当の気持ちなぞ、実際にはよくわかっちゃいないさ。だがまあ、かつての自分と比べて、あいつの気持ちは少しわかるところがある。俺も寄宿学校に入ってからは、帰る家なんぞなかったからな。休暇の時にはラリーの家のほうに泊まらせてもらったり……やっぱり、俺だってあいつの屋敷の広い庭の片隅にでも住みたいと思っただろうよ。まあ、実際あいつは本当に出来た奴だった。俺がなんの気兼ねもしなくていいように、俺のプライドが傷ついたりしないよう、うまいこと「いくらでもここにいろよ」って言ってくれたからな。じゃなかったら俺もとても、寄宿学校での六年間を耐えられたとは思えん」
その彼につい先日なじられて以来、会ってないことを思うと……イーサンはやはり自分が折れるべきなのだろうという気がしてきた。イーサンとラリーの間で大きな喧嘩や言い合いになったということは、これまでほとんどない。だが、マリーがうさしゃんのパジャマを取りに戻ってきた時、何があったかをラリーは知るなり、「彼女が侮辱されていても、おまえは黙っていたのか!?」と言って、怒りだしたのである。いや、怒り狂っていたといってもいい。
マイケル・スチュアートがマリーに何をしようとしていたかを知れば、あいつの命が危ういと思ったことから――世が世なら、ラリーはスチュアートに決闘を申し込んでいたことだろう――イーサンはかろうじて、「俺だって変な男の魔手からあいつを守ってやったりしたんだぜ」と弁明するに留めておいたのである。
「それで、ネイサンのお父さんは、あの子がここにいてもいいって言ってくださったの?」
「ああ。一応その方向で説得してはみたが、夏休みが終わったら一度迎えにくるとさ。ようするに、夏休みの期間の間だけなら他人の家にご厄介になってもいいってことだな。まあ、簡単に言えば今年のディズニーランドはネイサンも一緒だってことだ」
「本当ですか!?」
ネイサンがどれほど喜ぶかを思って、マリーは顔を輝かせた。実をいうとこういう時のマリーに彼は弱い。もっとも、彼女は自分以外の他人のことでしか、こんなふうにはならなかったが。
だからこういう時、イーサンとしてはいつもマリーが「自分のことのためだけで同じようになるにはどうしたらいいのか」について考えさせられるところがある。
(まあもちろん、もっといいのは、あいつが俺のことのためだけにああいう顔をするってことなんだがな)
そう思い、イーサンが溜息を着いていると、マリーが言った。
「あの、ディズニーランドのことはあなたの口から伝えてもらえないでしょうか?」
「なんでだ?べつにあんたの口から言ったっていいことじゃないか」
「そうかもしれませんけど……さっきあの子、きっととても嬉しかったと思うんです。自分の気持ちを憧れのお兄さんが思ってた以上にわかってくれてて……ほんとに、いい子ですものね。ネイサンにはこれからもあのまま真っ直ぐ育っていって欲しいですわ」
ミミがここで、「ミミもうさしゃんも、ネイサンお兄ちゃんのこと、好っきー!」と言いながら駆けて来たため、イーサンは妹とぬいぐるみの頭を撫でた。
「ふふん。あんたもさぞ残念だろうな。うちの豚児どものうち、ひとりくらいネイサンみたいに優秀だったら、それこそ育て甲斐があるってもんだったろうに。ところがうちにはミミくらいしか有望株がいないからな」
「あら、そんなことありませんわ。第一、あの子たちはみんなまだ十歳かそこらですもの。これから大きくなるにつれて、ますますもっと良くなっていくんじゃないかしら。あのくらいの子たちは可能性の塊みたいなものですもの」
(俺は今以上にあいつらが悪くなっていくことを想像するがね)などと、皮肉なことは言わず、イーサンは肩を竦めただけでマリーとの会話を終えた。それからエレベーターで五階のほうへ上がっていき、ランディの隣のネイサンの部屋をノックする。
彼はランディと一緒に何か話して笑っていたらしいが、その瞳の中にはまだ涙のあとが残っていた。
「あ~、そのなんだ。ネイサンのお父さんは、夏休みの間だけならおまえがうちにいてもいいんだと。だからまあ、ディズニーランドにも一緒に行くってことになるな」
「やったあ!!」と言って、ランディが肉付きのいい両腕を振り上げる。「毎年さあ、車の中でココと最低何回かは喧嘩になるじゃん。でもネイサンがいれば、比較的あいつも大人しーんだよな。なんでかはよくわかんないけど!」
「あ、あの……でもぼく……」
イーサンはネイサンが何を言いたいのか、暫くの間待っていた。彼はイーサンのことを見上げて何か言いかけ、それからまた口を噤む。
「なんだ?言いたいことがあるなら言っちまえ。そのほうがスッキリして楽になるぞ」
「なんだか、弟のジミーのことが可哀想で……ジミーの奴、お義母さんの通ってるほうの教会でキャンプがあって、そっちに行かされることになると思うんです。それなのに、ぼくだけディズニーランドに行ったなんて言ったら……」
がっかりと肩を落としているイーサンに、ランディが言った。
「じゃあ、弟も一緒に来ればいいじゃないか。あの子、ロンとも同学年で顔見知りだし、ロンもきっと喜ぶんじゃないかな」
「でも、そんなの迷惑だよ。ぼく、さっきのお兄さんの言葉、ほんとにすごく嬉しかったんです。だから、みなさんが家族旅行へ行くっていう時期には家に戻ります。そこまでご一緒させてもらうっていうこと自体、そもそも物凄く図々しいことだし」
「いや、べつにいいさ。ただうちの車は七人乗りだからな……誰かひとり狭い思いをしなきゃならんかもしれないが、幸いミミは小さいし、みんなで交替で席替えすれば、まあどうにかなるだろう。明日、弟のほうにはネイサンが直接そう知らせてやるといい。俺はまたおまえの親父さんと喧嘩腰に話したり、神経質なおっかさんとうんざりするような話だけは絶対にしたくない」
なんとなく雰囲気として、『全然迷惑じゃないから、気にしなくていい』といったように感じて、ネイサンはマクフィールド一家のご厚意をそのまま受けとめることにした。そしてこの翌日、義母と顔を合わせるのが嫌なため、居間の電話を借りてネイサンは弟のジミーと話をしたのだが――むしろ逆に気の毒なことをしたかもしれなかった。
最初、ジミーは「自分もディズニーランドへ行ける!」と思って大喜びだった。ところが、ママに話をしたところ、大反対されたらしく……次に返事の電話をかけてきた時、彼の声は涙声だった。
「うん。なんか逆にごめんな。じゃあ、お土産は必ず買って帰るから……ああ。それじゃあな」
電話を切るなり、ネイサンはダイニングのほうへ戻ってきて、そこでお菓子作りをしているマリーのそばまで行った。
「ジミーくんはなんて?」
アップルパイの生地を麺棒でのしながら、マリーはそう聞いた。
「……なんか、お義母さんに反対されたみたいなんです。だから、行けないって」
ここでマリーは一旦「まあ」とでも言うように、生地をのすのをやめた。子供にとってあんなに楽しい場所へ行かせないだなんて、ジミーのママはディズニーランドをよく知らないのではないかと思った。
「その、俺もほんとは薄々、こうなるんじゃないかっていう気はしてたんです。あの人、弟を叱る時にもよく、『そんな子は悪魔にさらわれちゃうよ』とか『地獄へ行くからね、そんな悪い子は』って言ったりするもんですから……今回も同じ調子で言って、そんなことよりも教会のキャンプへ行きなさいって言ったんじゃないかなって思います。弟はほんと、純真な性格で信じやすいもんですから、お化けとかそういう話にもすごく弱いんですよ。だから……」
「そうねえ。ディズニーランドへ行っても、悪魔はやって来ないと思うけど……」
ネイサンはおねえさんがそう言って溜息を着くのを見て、少しだけ笑った。彼女自身は毎週ミミとロンのことを連れて教会へ行く。けれど、ランディやココのことを無理に連れていったりするようなことはないのだ。また、ネイサンはこの家で会話のさなかに『そんな悪い子は~~になるからね』とか『地獄へ行く』などといった言葉は一度も聞いたことがない。
「せめて何か、弟のために弟が喜ぶようなお土産を買って帰りたいと思います。それに、お義母さんも息子のジミーが今ごろ交通事故に遭ってるんじゃないかとか、ちょっと離れただけで色々想像する人なので、仕方ないと言えば仕方ないっていうか」
ネイサンはキッチンのところにあった洗い物などを素早く片付けると、また五階のほうへ上がっていった。マリーはといえば、スタンフィールド家の兄弟のうち、兄のほうは悪魔から救うことが出来たのに、弟のほうは魔女の手に留め置かれたといったような、奇妙な罪悪感を感じていたが、こればかりは彼女にもどうしようもないことである。
――なんにしても、このようなわけで、今年のディズニーランド旅行は、ある意味去年以上に楽しいものとなった。ネイサンのいてくれるお陰で、後部席のほうでは会話が弾んで楽しかったし、イーサンがこの夏の旅行をはじめて以来、車内ではなんのトラブルもなかったほどである。
そして、イーサンはそんな子供たちの様子を見ていて(奇妙なもんだな)と、あらためてそう感じたかもしれない。
何故といって、ネイサンという赤の他人の子が混ざったことでココにしても多少大人しくしている部分があるわけだが、去年新しくマリー・ルイスという赤の他人が入ってきた時には、子供たちは喧嘩したりなんだり、小さなことで揉めてばかりいるといったことになんの変化もなかったからである。
(ということは、だ。あいつはそもそも最初から、俺たちの家族にも等しかったってことなのか?)
イーサンはマリーの姿をバックミラーごしに眺めやり、彼女がミミのためにバナナの皮を剥いてやったり、子供たちにバスケットからお菓子を配ったりするのをちら見する。配られたお菓子が前のほうまでやって来ると、助手席にいたココが「わたし、これじゃないのがいい~!!」と言い、味は同じなのに、キャラクターのパッケージが違うものを所望する。
「マリー!こっちまでおまえの作ったハンバーガーまわしてくれ。腹へった」
後ろからハンバーガーが回ってくると、ココが食べやすいようにラップを半分とき、イーサンの片手に渡す。コーラのほうはすでにジュースホルダーのほうにしっかり置いてあった。
こんな調子でマクフィールド家の面々はドライブを楽しみ、途中農業体験が出来るという農場でヤギや羊やアルパカなどと親しんだのち、今夜一泊するためのホテルへ辿り着いたのだった。部屋は二部屋取ってあり、それぞれイーサン・ランディ・ネイサン・ロンと、マリー・ココ・ミミの二手に分かれるということになる。
この翌日、去年と同じようにディズニーランドに近いサウスルイスにある高級ホテルへ泊まり、さらにその翌日、みんなは旅の目的地であるディズニーランドへ流れこんだというわけだった。
マリーはこれで二度目だが、ネイサンは初めてやって来る場所にきのうから興奮してなかなか眠れなかったと告白していた。普段、少し大人びたところのある子供なだけに、イーサンもマリーも彼が年相応の子のように顔を明るく輝かせるのを見て――彼のことを連れてきて本当によかったと、そう思った。
去年は、イーサンもまた「子供たちに嫌々ながらつきあわされている」というポーズを取りつつ、その内心楽しんでいたりしたわけだが、今年の彼は少し違った。ミミが行きたがる方々につきあわされるマリーのそばにいて、ミミを間に挟み、まるで本当の夫婦のようにしているのが楽しかった。
何分、ネイサンはしっかりした子なので、ランディとロンとココだけでは心許ないが、マクフィールド家の兄妹にあちらこちらと引っ張りまわされながらも――実際は彼がうまいこと、三人の間を取り仕切ってくれるとわかっているため、イーサンとしても安心なのだった。
子供たちは携帯の情報を巧みに駆使して、あっちのアトラクション、こっちのアトラクションとどんどん進みゆき、マリーは去年同様ミミとゆっくりのんびり子供向けのショーを見たりして回った。最初はずっとイーサンがついて来るので落ち着かなかったし、彼がランディやロンやココ、ネイサンを引率するとばかり思っていたため、子供たちのことが心配でもあったが――「ガキはガキ同士、むしろ俺よりネイサンに引率されたほうがうまくやれるだろう」と彼が言うのを聞いて、「子供たちの自主性を重んじる」ということなのだろうかと、マリーも納得したのだった。
夜も遅くなり、携帯で「おい、おまえら今一体どこにいるんだ?」とイーサンが連絡してみると、「今、スペース・マウンテンのところにいるよう!!」とロンが浮かれた声で言うのを聞いて、イーサンは笑った。彼らは今回、トゥモローランドから攻めていたから、ぐるっとアトラクションを一巡し、再びまた自分たちの好きな場所へ行くことにしたに違いない。
「なんにしても、そろそろ引き上げるぞ。どこか適当なところで待ち合わせて帰ろう」
「うん。わかったー!!」
このあと、園内の入口近くで待ち合わせたものの、彼らがそう簡単には戻ってこないとわかっているため、イーサンは少しずつ時間を置いては電話をかけ、「今どこらへんにいるんだ?」と、現在位置を確認した。お土産を買ったり、やり残したことを最後にちょっとしてみたりと……実際、彼らが全員揃ってディズニーランドを出たのは、閉園間際のことだったといっていい。
ミミはその間、ベンチに座ったまま、今日自分が買ってもらった戦利品をひとつずつ取りだしては嬉しそうにニコニコ眺め、マリーにもこの日何度目になるかしれない報告をした。
「今ミミね、とってもしゃーわせなの!!おねえさんがいるでしょ、そしてイーサン兄たんもいるでしょ、それにうさしゃんもいるでしょ。だからね、もうなーんにもいらないの!!」
カチューシャをし、シンデレラのドレスを着たミミは、なんとも可愛らしかった。そしてそんなミミにイーサンもまた何度も「この世界でミミが一番可愛いぞ。そのことはお兄ちゃんが保証してやる」などと言っていたのだった。
そして、魔法使いのマントやら、海賊の格好やらをしたランディたち一行と合流すると、彼らはそのまま楽しげにしゃべりながらホテルへの道をゆき――そのおしゃべりはホテルの部屋に戻ってからも、実際に眠りにつくまで続いたのだった。
マリーもまた、ココからみんなとどの順番でどのアトラクションを楽しんだかを細々と説明され、何度も相槌を打ちながらその話を聞いた。時々、ランディとロンとココの間で意見が別れたような時も、どうやらイーサンが思っていたとおり、ネイサンがうまく仲裁してくれたらしい。
「そういえばネイサンって、夏休みが終わったらうちに帰るの?」
ホテルへ戻ってくるまでの道すがら、また部屋のほうに戻ってきてからも、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ舌を動かし通しだったココは、十二時近くになってからようやくあくびをし、ベッドの中に入っていた。
「そうね。お父さんがうちにいてもいいのは夏休みの間だけって、そうおっしゃったみたいだから……」
「へえ……そうなんだ。家に帰るのが嫌なら、このままうちの子になっちゃえばいいのにね。わたし、ランディやロンなんてべつにどうでもいいから、イーサンの次にネイサンみたいなお兄さんが欲しかったわ」
そのあと、「じゃ、おやすみなさい!!」と言ってココは、枕に頭をつけて布団をかぶった。それでマリーも「おやすみなさい」と言って、部屋のナイトスタンドを消す。ちなみにミミはもうとっくに、夢の国の住人になっている。
そしてマリーもまた、この夜はなんだか変な感じだった。最初、マリーは去年と同じくミミと二人であちこちのショーを見たり、アトラクションを楽しんだりする予定だった。けれど、イーサンがずっと一緒にいるとわかってからは、なんだか落ち着かなかった。もちろんミミにとっては、自分だけでなく「大好きなイーサン兄たん」も一緒にいてくれるほうが嬉しいとわかっている。
けれど、彼がどこに行くにしても自分に対して協力的で、マリーの意見もしっかり聞き、何かとレディファーストに親切かつ優しくしてくれたため――変な話、すっかり調子が狂ってしまったのだ。ミミにしても一度、「にいたーん。今日のイーサンにいたんはなんだかとってもやさしいね~」と言っていたように……確かに何かがおかしいと、マリーにしてもそう感じたものである。
何より、何かの拍子に彼がじっと自分のほうを見てくる目つき……そこに潜んでいる曰く言いがたい気配のことが、マリーにはよくわからないのだった。もっとも、マリーのほうではもっぱらミミを中心にして彼女が楽しめるようにと考えていたため、イーサンのことは次第にそれほど気にしなくなっていたとはいえ……。
それでも、何かの拍子にちょっと助けてくれたり、人がぶつかってきた時に、相手のことを居丈高に睨みつけたり――マリーはこの日、イーサンが見せた態度に戸惑いながらも、(いつも彼が意地悪じゃなく、あんなふうならいいのに)と、そう思ったかもしれない。そして、彼とミミを間に挟んでコーヒーカップの乗り物に乗ったり、空飛ぶダンボに一緒に乗ったりしたことを思いだしながら……マリーもまた、ミミやココと同じく、いつしか夢の国の住人になっていたのである。
翌日は家路に向かうということになってはいたが、子供たちはきのうのことで興奮しきっていたため、車の中での話題はディズニーランドのことばかりだった。また、ココも助手席できのうマリーにしたのと同じく、事細かくどんな順番でどのアトラクションを楽しんだかといったことを話したため、イーサンはその場にいなかったにも関わらず、そこにいたのと同じくらい何がどうだったかを知ることが出来たといえる。
帰りは去年と同じくキャンプして帰る予定となっており、車の最後部からは例のテントやバーベキューセットが降ろされ、イーサン指揮の下、まずは男の子だけでテントを張るということになった。その後、火を起こしてマリーが下ごしらえしておいたバーベキューが焼かれ、子供たちはこの屋外生活を満喫したというわけだった。
夜は最後に花火をして、明日も早く出発することから、みんなはもう夜の九時には就寝するということにしていたかもしれない。
マリーは三人用のテントのほうで眠っていたわけだが、夜中に人の話し声で目を覚ましていた。隣をみると、ミミもココもぐっすり眠っており、彼女は「何も心配ない」と思い、再びバスタオルを重ねた枕に頭をつけたのだが……その外の話し声が、やがてイーサンとネイサンのものであることに気づいた。
「ふうん。で、おまえ……医者ってのは、本当におまえ自身がなりたいものなのか」
「よく、わかりません」と、ネイサンの声。「俺、八歳で母さんのことを亡くしてるから、父さんの望むとおり医者になることが父さんが一番喜んでくれることだって、ずっとそう思ってた気がします。でも、あの人がうちにやって来てから……父さんもなんだか変わっちゃって。たぶん、結婚する前まではお義母さんがああいう性格だとはよく知らなかったんじゃないかなって思います。だって、あの人ときたら、うちの庭に毎日同じカラスがやって来るっていうだけでも、悪霊がカラスに取り憑いてて、それが自分たちを見張って不幸にしようとしているとか、そんな考えなんですからね。しかもそれがカラスのことだけじゃないんですよ。なんにでもそうやって不幸な側面ばっかり見ようとする人なもんで、しまいには周りの人がみんな嫌になってくるんです。父さんの頭にはきっと、自分のことだけじゃなくて、俺のこともあったとは思うんですよ。息子もまだ小さいし、まだまだ母親の力が必要だとかって思ったんだろうな。でも、俺にしてみたらあんな人が家に転がりこんでくるより、前と同じく家政婦さんでもいてくれたほうが、まだしもましだったっていうか」
ネイサンはここで、深々と溜息を着いた。楽しかった夏休みももうすぐ終わってしまう――ネイサンの場合、学校がはじまるのが憂鬱なのではなかった。実家に戻って義母と顔を合わせることを思うと憂鬱なのだった。それに、前とは違って心から笑うことの少なくなった父親と顔を合わせることも……。
「そうか。こう言っちゃなんだが、それももうあと一年の辛抱とでも思って我慢するしかないかもな。俺の場合は十一の時に母親が死んで、その一年後には寄宿学校に入ることになってた。実の父親ってのがまったく役に立たない軽蔑すべき男だったもんで、一応認知はしてくれたものの、それは学校の授業料を払ってくれるとか、とかく金の面に関することだけでな。実質、俺は孤児になったも同然だったといっていい。それに比べたらネイサン、おまえはまだ心から愛し尊敬できる父親がいるってだけでも、少しは救いかもしれないぞ」
「…………………」
ネイサンは黙りこんだが、それはイーサンの言った言葉を承服しかねたからではない。ケネス・マクフィールドの生前の評判については風の噂のようなものによってネイサンも知っている。そう考えた場合、確かに自分には心から尊敬し、愛する父がいてくれるだけでも幸せだと、心からそう思えたからだった。
「なんにしても、そろそろ寝ろ。さっき偶然捕獲したクワガタ虫についてはな、出来ればランディにもロンにも気づかれないでおくのが最善だが、まあ無理だろうから、あいつらが欲しがっても適当にあしらっておけ。これは弟のジミーに持って帰るんだとでも言ってな」
「……はい」
ネイサンがそう嬉しそうに答えると、イーサンは彼の頭を撫でた。そしてネイサンがテントに入っていったあとも、イーサンが焚き火の炎の前に座っているらしいのを見て――マリーは起き上がることにしたのだった。
「眠れないんですか?」
「ああ。なんとなくな……こうやって焚き火の炎をずっと見ていると、あんたは変な気になることはないか?俺はこういう時、自分の御先祖様のDNAの遠い記憶が脳のどっかにあるんだろうなって気がする。マンモスとか狩ってた遥か昔も、こんなふうに焚き火してたって記憶がどっかに残ってるんだろうよ。もっともあんたは、進化論なんて信じちゃいないんだろうが」
「…………………」
マリーはこの質問には答えなかった。ユトランドの国中を見渡してみた場合、比較的リベラルな傾向にある学校では進化論についても教えているが、たとえばミッションスクールなどでは進化論については教えていないどころか、否定している場合がほとんどだろう。
「クワガタ虫を捕ってきたんですか?」
「ああ。小便しにいこうとしたら、ネイサンも一緒に行くっていうもんでな、そしたらその途中にあった樹に何故か一匹だけ止まってたんだ。虫籠に入れておいたんだが、捕まえたのが実際は俺でも、あれはネイサンのものってことにして、ランディやロンがぶうぶう言ってもあんたも相手にするなよ」
「そうですね」
マリーはイーサンの隣、先ほどまでネイサンが座っていた折り畳み椅子に腰掛けた。それから、少しの間焚き火の炎に魅入られた者のようにぼうっとしてから、何かの暗示を解くように口を開く。
「その……お父さまのケネス・マクフィールドさんのことなんですけど……」
「ああ。あんた一体、どのあたりから俺たちの話を聞いてたんだ?」
盗み聞きとは趣味がいいな、などと言うつもりはイーサンには毛頭ない。寝ていたところを話し声で起こしたのかもしれないし、あとは聞きたくなくても会話が聞こえてきたのだろうとわかっていたからだ。
「あなたがネイサンに本当にお医者さんになりたいのかって聞いたあたりからだと思います。それで、お父さまのことなんですけど、ケネスさんはあなたのこと、父親として誇りに思うって言ってました。父親としてお金以外のことでは何もしてやらなかったのに、あんなに立派に育つとは思ってなかったって……ランディやロンやココちゃんたちのことも、金以外のことでは何もしてやれない駄目な父親だと言って、涙を零しておられたんです」
「まあ、あんたはお人好しだからな。それに、確かに死ぬ三十秒くらい前には心からそう思うくらいの良心が、あいつにもあったんだろうよ。だが、実質的に俺もあの子たちも、父親としてのケネス・マクフィールドには何もしてもらっちゃいないさ。だが俺はそのことを特に不満とも思ってないし、昔はともかく今じゃあ、あれだけの預金口座を五人のガキめらによく残してくれたと思って、その一事によってその他の細かいことなんかは許せるくらいかもしれないな」
「……本当に、そうなんですか?」
イーサンは心からそう思っていたので頷いた。いや、去年こうして焚き火を前にした時に同じようなことを言われていたら、イーサンはもしかしたらカッカするあまり、「話はこれでしまいだ!」といったような態度だったかもしれない。だが、今は去年とは違った。何故といって、マリーがその後弟妹たちの面倒を優しく見てくれたことで……イーサンもまた「もうこれでいい」と思い、あのひどい父親のことを許してやれる一歩手前くらいのところまでやって来ることが出来たのだ。
「ああ。といってもそれは何も、俺が人間として成長したとかなんとか、そんなことではないんだ。理由はあんたさ、マリー。あのろくでなしの父親が、遺産の他にあんたも残していってくれたから、そんなら許してやるかという、これはそういう話なんだ」
マリーはびっくりして言葉を失った。それというのも、今日ディズニーランドで何度か見たあの顔の表情――慈母が持つのにも似た、優しく慈しみ深い眼差しでまたも彼が自分のことを見つめてきたからだった。
「その、もしあなたが心の中でお父さまと和解できたとしたら、わたしもとても嬉しく思います」
「<和解>か。まあ、一種の宗教用語だな。ところでマリー、あんた父親は?」
これまで、イーサンは一貫して彼女に過去に関わることを聞くのは避けてきた。それは何か直感的に、マリー・ルイスには人に聞かれたくない過去があるに違いないと思っていたからだし、彼女自身、聞かれたことには素直に答える質なため、なんとなく悪いような気がしていたというのがある。また、そんなことを色々聞いてしまった翌日に、「お世話になりました」だのいう書き置きひとつ残して彼女は去っていった……などということになっては困ると思ったせいでもある。
「父親は、いません。とにかく、最初から存在していませんでした」
「よくわからんな。まあ、話したくないならいいんだ。人には色んな過去がある。だが、あんたがそれなりに俺にも気を許すようになったら、自分から家族のことだのなんだの話してくれるだろうと思ってたんだ。第一、ネイサンの家だって、ある観点から見ればひどく悲惨な気さえするからな。ああいう神経に障りのある女っていうのは、おそらく誰にもどうにも出来んだろう。ネイサンのおとっつぁんの医学博士にもどうにも出来まいよ。あの妻といると自分まで憂鬱症になると思ったところで、もはや離婚もできないだろうしな。まあ、ケネス・マクフィールド氏も、シャーロット・オブライエンと結婚したことで、大体のところ似たような災厄をしょいこんだといったところだ」
『父親がいないんなら、じゃあ母親は?』と聞こうかとも思ったが、もしや彼女は孤児なのだろうかという気もし、イーサンは聞くのがためらわれた。もちろん、彼のうちにも、好きな女のことについてはなんでも知っておきたいと感じる気持ちはある。だが、マリーのほうで服を脱ぐようになるまで待つ……と誓ったとおり、このことについても、彼女のほうから話す時がいずれやって来るだろうと、そう思うことにしたのだ。
「災厄っていうと、どういうことですか?」
「ほら、あんたも最初にうちの屋敷へやって来た時、びっくりしただろうが……あちこちとにかくイルカだらけでな。ランディたちのママは、とにかく占いに狂ってたんだ。何か重要なことを決定する時には、タロットカードを引いたりなんだりして決めたりとかな。あんた、俺がもしレストランを決める時に、『妻よ。今日の俺たちのラッキーな方角は南西だ。南西にあるレストランへ行こう』なんて言い出したらどうする?」
「そうですねえ」と、マリーも屈託なく笑った。「でもそれが、ケネス・マクフィールドさんがあまりご自宅へ寄りつかなくなった理由ということなんですか?」
「さてな。俺はこう思ってるよ。彼女と結婚した時、親父はだんだんに年を取ってきていた。だから、このあたりで三十も年の離れた女と結婚するのも悪くないかもしれない……くらいの気持ちだったんだろう。ところが、新妻に豪邸を建ててやったまではいいが、占いだけじゃなく、その筋の高名なお先生に来ていただいたりするのを見るにつけ、こんな女とわかっていれば結婚するんじゃなかったと思ったんじゃないかな。だが、何分ホロスコープで相性バッチリとか女のほうに言われてした結婚だけあって――確かにあっちのほうの相性は良かったんだろう。親父はどうにか離婚の口実を見つけようとして、ココの時にもミミの時にも本当に自分の子かどうかDNA鑑定させたらしい。だが、みんな親父の子さ。妻の機嫌取りに連れていった旅行先なんかで孕むってことになったんだろう。そんなわけで親父は自分の妻という存在にうんざりしながら、その後もまるで自分は結婚してないっていう具合で他の愛人たちともつきあってた。ようするに俺たちの親父ってのは、そんな男さ」
「…………………」
イーサンにしても、やはり今も少し不思議なのだ。ロンシュタットの老人福祉施設でのケネス・マクフィールドのふるまいというのは、彼が患者でもなく老人でもなく金持ちでもなかったら、介護員にサンドバッグにされていたことだろう……というくらい、行儀のいいものだったらしい。マリーがいかに善良といえども、辟易しなかったとはイーサンには思えない。しかも、その男の最後の願いを彼女が受け容れたからこそ、マリーは今ここにいるのだ。
「だから、あんたの父親ってのはどうだったのかなと思ったんだ。けど、父親がいなかったってことは、母親のほうはシングルマザーだったってことなのか?」
「そうです。わたしの母も変わっていましたから……ネイサンのお母さんやミミちゃんたちのお母さんが少し風変わりでも、あんまり驚きません。お母さんっていうのは、ただ自分と血の繋がったお母さんだっていうだけで、本当にそれだけでいいことだと思うんです。その……あなたが学生の仲間の方とお屋敷のほうでパーティした時……」
「ああ、あのパーティな」
マリーが少しばかり頬を赤らめるのを見ても、イーサンは誤解したりしない。自分とのことを思いだしたというのでなく、うさしゃんのパジャマのために彼女が被った恥辱のことを思うと、今はイーサンもラリーが怒り狂っていたのと同様、自分があの時どうにかしてやっていればと後悔していた。
「ランディがまだ、ネイサンとの仲が気まずくなってた頃で、お兄ちゃんの元気がなかったものだから、ココちゃんも急に泣きだしたことがあって。あの時わたし、本当にハッとしました。普段、他の友達の家でパパとママが当たり前にいる家庭を目にしながら……ココちゃんも本当は羨ましかったんだなってわかったんです。でも、それはわたしにもどうにもしてあげられないことだから……」
「そりゃそうさ。俺だって十一の時に母親は癌で死んだ。誰が悪いんでもない。<死>っていうのはそういうものだ。ココだってママの代わりをあんたに求めてるってわけじゃないだろう。ミミはまだ小さいから別にしても――乗り越えらないことでも、乗り越えて生きていくしかない。俺が自分のこともランディたちのことも可哀想だって思うのは何よりその点さ。そんなこと、人生行路を歩むもっとあとになってから知るべきことなはずなのに、なんの準備もなしにわけもわからず、あの幼さでそういう現実と向きあっていかなくちゃならなかったってのは……子供には残酷なことだからな」
「イーサンはどうやって乗り越えたんですか?」
この時、イーサンはどう答えたらいいかわからなくて、組み合わせた両手に視線を落としたままでいた。
「……俺は、どうやって乗り越えたんだったか、あんまり昔なことなもんで、忘れちまったな。とにかく、野球でいうなら目の前にやって来た球をバットで次から次へと打ってくうちに少しずつ悲しみやつらさに慣れていったんだろう。アメフトでいうならな、自分が持ってる大切なボールを奪いにやってくる連中から必死に逃げたり、味方にパスして渡すっていう、ああいう感覚に似てる。そうやって、親がいなくても困難になんか負けてたまるかと思って生きてきたんだろうな。なんとも可哀想な奴さ、まったく」
「そんなことありません。イーサンは可哀想じゃないと思います」
「そうか?」
彼はクーラーの中からビールを取りだして、一口飲んだ。(やれやれ。まったく変な女だ)と思いながら。
「だって、あなたにはこんなに可愛い弟や妹がいて、心から慕われているんですもの。それに、友達もたくさんいて、あんなに綺麗で美人なガールフレンドだっているじゃありませんか」
「ああ、そういう意味な。だが俺はキャサリンとはいずれ別れることになると思ってる。まあ、クリスティンとマーティンの結婚式の時には、まだつきあってるっていう風を装うことになるだろうが……いずれ、そういうことになるだろうな」
「どうしてですか?」
イーサンがマリーの顔を見返すと、彼女があんまりきょとんとした顔をしているので、彼は例のイライラの虫が顔を出すのをこの時も感じた。
「どうしてって、まあ、あんたにはわからんだろうが、恋人同士なんて言っても、俺とキャシーの間には色々あるんだ。まあ、ろくに大した恋愛経験もないだろうあんたにはまずもって絶対わからんだろうがな」
「そうですね。それじゃあわたし、そろそろ寝ます。おやすみなさい」
(一体なんなんだ、本当にこのマリー・ルイスって女は)
イーサンはそう思いながら、ビールを一本飲み干したあと、火を消して眠りについた。都会のユトレイシアあたりではこんなにくっきりと美しく星空を眺められることはまずなかったが、イーサンは最後に流れ星が落ちていくのを見て、自分が今心に思い描く『星に願いたいこと』はなんだろうかと考えた。
流れ星が落ちていくまでの間にイーサンが瞬間的に感じたのは、マリー・ルイスと結ばれるということだった。だが、そうではなく、もし本当に願いが叶うのなら、彼はマリーのことは自分の力で獲得したかったため、それ以外のこととなると――まだ幼い弟たちや妹たちの幸福、それに心から大切に感じる友人たちの幸福、それから最後にマリー個人の、彼女がもっとも願っていることが叶うようにというところまで考えて……彼はテントの中で寝返りを打ちつつ、そのことがどうしてもわからなかった。
たとえば、恋人のキャサリンの願う幸福が自分との結婚であることは想像できるのに、マリー・ルイスの場合は……彼女が自分の幸福として一体どんなことを本当は望んでいるのか、イーサンにはまったくわかりかねたのである。
>>続く。