いえ、今回の前文はめっちゃくだらない内容となっております(^^;)
まあ、自作のパロディ☆と言いますか、何かそんな感じで、寛容な心でお読みくださいませm(_ _)m
~脳神経外科医、桐生奏汰のセブンルール~
その1.「朝、靴を履く時、右足からはくか、左足からはくかなど、気にしない」
奏汰先生:「何故なのかって?そんなの決まってるじゃないですか。一度、右足から靴を履いていいことがあったら、その日からそのルールに縛られることになる。それで、左足から靴を履いた日に悪いことがあったらどうします?だから俺は靴を履く時、何も考えない。まったくの<無>です。言ってみれば、仏陀の悟りの境地にも似てるかな。ハハッ!!」
テレビスタッフのみなさん:「…………………」
脳外科医、桐生奏汰のセブンルール、その2
「看護師のことは決して叱らない」
奏汰先生:「そりゃそうですよ。病院全体で見た場合、人口比率的にも圧倒的に向こうのほうが数が多いですからね。内心、もし「桐生先生ってステキっ!!」なんて思ってる、可愛くて若い子がいた場合――あ、これ以上のことは言わないほうがいいかな。ハハッ!!」
テレビスタッフのみなさん:「…………………」
脳外科医、桐生奏汰のセブンルール、その3
「外来診察や病棟回診前には、必ずアメをしゃぶる」
奏汰先生:「ほら、前に俳優の西島秀俊さんや境雅人さんが医師を演じた、『るるるん☆ルージュの凱旋』っていう医療ドラマがあったじゃないですか。俺の愛人がこのふたりのファンでね……以来、意識してチュッパチャップスをなめることにしてるんですよ。そしたら、俳優の彼らに似てるっていうんじゃなく、『デスノートのLみたいで素敵っ!惚れ直しちゃう!!』なんて言われちゃいましたよ。ハハッ!!」
テレビスタッフのみなさん:「…………………(あんた、あんな美人の奥さんがいるのに、何言ってんスか☆と思っている)」」
脳外科医、桐生奏汰のセブンルール、その4
「手術室ではロックに振るまえ!!」
奏汰先生:「手術室ではいつも洋楽のロックをかけることにしてるんですよ。時々、あんまりノリすぎて、不必要な血管や脳細胞まで電気メスでさくっと焼却しちゃったりなんかしてね。アハハハッ!!」
ディレクター:「その、先生……それはようするに手術ミスということなのでは……」
奏汰先生:「アハッ。そんなわけないだろう。もちろん今のは冗談だよ、じ・ょ・う・だ・ん♪」
テレビスタッフのみなさん:「…………………(コイツにだけは絶対手術とか受けたくないな☆と思っている)」
脳外科医、桐生奏汰のセブンルール、その5
「手術ミスをしても、患者やその家族に悟らせるな!!」
ディレクター:「そのう、ようするに桐生先生はヤブ医者っていうことなのでは……」
奏汰先生:「チミィ、何を言っとるのかね!俺ほどの名医は実際のとこ、そうはいないんだよーん。その証拠に、手がけた手術は全部成功!!なんでかわからんのだが、「あ、ちょっとミスしちゃった。てへっ☆」なんて時も、何故か患者のほうではどこもなんともなかったりするんだねえ。いやはや、これもまた人体の不思議というやつさ。終わり良ければすべてよし!チミも、そうは思わないかね?」
テレビスタッフのみなさん:「……………………(なんでもいいから、早くこの取材終わんないかな、と思いはじめている)」
脳外科医、桐生奏汰のセブンルール、その6
「患者がお礼を持ってきたら、なんでもすべて受けとろう!!」
奏汰先生:「いや、俺はフルーツの盛り合わせセットや美味しいスイーツの詰まった菓子折りなど、これっぽっちも欲しいとは思っていない。が、患者のほうでやたら何かお礼の品というのを受けとらせたがるんだねえ。何分、俺も名医として何かと忙しい身なもんだから、「いやいや、そのようなものは……」なんてやってるだけ、時間の無駄というものなのさ」
ディレクター:「そのう、ようするにそれは、時々袖の下を受けとっている、といったように我々には聞こえるんですが……」
奏汰先生:「馬鹿言っちゃいかんよ、チミィ!!俺がもらうのはあくまで、何か善意による贈り物の物だけさ。お金などはビタ一円たりとも受けとったことはないよ。まったく、チミたちときたら、さっきから失敬だな!そんな不快な態度ばかり取り続けるなら、セブンルールの最後の七番目を教えてあげないぞっ!!」
ディレクター:「ちなみにその、桐生先生の七番目のルールとは……?」
奏汰先生:「『医薬品会社や医療機器メーカーとは、是非とも積極的に癒着しよう!!』というものさ。どうだい?素晴らしいだろう?」
ディレクター:「いえ、もう大体のとこわかりましたんで、我々はそろそろ引き上げようと思います。あざっしたー!!」
奏汰先生:「え?もうかい。それで、今回の収録は一体いつ放映に……あれ?もういない。最後に特別サービスで、トシちゃんの物真似しながらの脳手術を見せたげようと思ったのに。まったく、あいつらときたら撮れ高とか番組の尺のことなんかしか頭にないんだろうな。ま、これできっと最低でも視聴率30%はとれることだろう。『イケメン脳外科医、桐生奏汰』なんてって、医療ドラマのモデルにもされちゃったりなんかしてー。いやいや、参ったね、こりゃ」
~病院の外へ出た、テレビスタッフのみなさん~
ディレクター:「まったく、なんだあのヤブ医者は。あの桐生聡一先生が、弟も脳外科医をしていて、腕のほうもなかなかいいなんて言うから取材にきてみたっていうのに……」
スタッフA:「ほんとですね。兄弟でもあんなに違うものなのかと……撮れ高はゼロだし、それ以前にあんなひどい医者、見たことありませんよ」
スタッフB:「俺、家帰ったら早速、ネットで桐生聡一の脳外科医の弟は間違いなくヤブだって書き込んでおこうと思います。なんでって、あんなひどい医者の犠牲にこれからなる患者さんが可哀想ですからね」
スタッフC:「まったくだ」
――こうして、奏汰先生は奥さんと別れて愛人の元へ走ったものの……脳外科医としてたくさんの人から訴えられるようになり、長い裁判の果てに医師免許は剥奪、最後には愛人からも見捨てられ、ホームレスとして公園から公園へとさまようことになったとか、ならなかったとか……
(『不倫小説』お・わ・り)
まあ、なんて言いますか、世の人々の不倫した人に対する処罰感情(?)っていうのはこのくらいのものがあるんだろうな……と、なんとなく、一連のゲス不倫騒動を見ていて思ったというか(^^;)
↓のお話のほうは、前回で奥さんの小百合さんと大喧嘩になったことから――ひとつ大きな山を越えたような気はするものの、お話のほうはまだもう少し続いていくっていうことで、よろしくお願いしますm(_ _)m
それではまた~!!
不倫小説。-【12】-
『四十にして惑わず』と孔子は言ったというが、奏汰は明日香と恋愛関係になる前までは、その言葉についてある程度のところ同意していたものである。ところが、一度若い愛人の心と体に溺れるようになると――彼には家庭を持ちつつ愛人と逢瀬を重ねる体力も十分あったし、心のほうはといえば、もう一度二十代の若いころに戻ったかのようだった。
奏汰は、明日香と自分は体の相性もよければ、心の波長のほうもぴったり合っていると感じていたし、もちろん、一緒に暮らすようになれば、時に喧嘩したりすることもあるだろう。けれど、そうしたことについても、明日香と奏汰はよく似ていたといえる。ようするに、生まれ持っての優しい性格から、そう人とストレスのかかるような関係を長く続けたりは出来ないのだ。きっと何があってもふたりなら乗り越えていけると奏汰は信じていた。
(これはもう、妻と離婚するのは容易でないな)と、奏汰が悟って以来、彼は自然、明日香のマンションからは暫くの間遠ざかった。奏汰の計画としては、妻に離婚のことを告げ、「あとのことはお互い、弁護士を通して話そう」といったことを話したあとは、小百合と別居するつもりでいた。そして、そのまま明日香の部屋へ行き、「たった今、妻に離婚のことを話したよ」と言って彼女と堅く抱きあうといった予定でいたのに――小百合のほうで一方的に<和解した>つもりになっている以上、これを奏汰のほうで覆すというのは非常に難しいことだった。しかも、金曜か土曜の夜には、まるで自分が夜の勤めを怠ったからあなたは浮気に走ったのね、とばかり、妻のほうで体を激しく求めてくるようにもなっている……正直なところをいって、奏汰はもうどうしていいかわからなかった。
こうして、明日香とは月に三度か四度会えればいいといった関係が、その後半年以上もの間続いた。離婚が正式に成立するまでは、明日香の元に身を寄せるのでないにしても、ひとりでどこか別の場所で暮らすのはどうだろうと彼は考えもした。だが、奏汰自身とても忙しく、とりあえず一旦はホテル暮らしをするだの、そのあと自分ひとりで暮らすための部屋を見つけて――といったようなことは面倒だったのである。それに、妻が浮気のことを怒っていて家に帰りたくない、気が重い……といったわけでもない。事実、家の居心地のほうは以前よりもずっと良くなったといっても過言でなく、おかしな話、小百合がゴルフクラブを振り回したあの夜以来、性格的にも妻とはしっくりきているようなところさえあった。
(自分はなんという恐ろしい本性を隠し持った女と結婚していたのか)と思うでもなく、奏汰はああした妻の怒りの爆発のさせ方は、実は嫌いでないと思っていた。というのも、長期間に渡ってちくちくと針のむしろに座らされる……といった陰湿な感じだったとしたら、奏汰もすぐさま妻のいる場所から逃げだしていたことだろう。
何より、奏汰には長年暮らした夫婦として、小百合が怒り狂っている最中にも、あるひとつのことを確信していた。彼女は怒りに任せて物は壊しても、外科医である自分の夫の体のどこかを損なうということだけは絶対ないと……とはいえ、もちろん五番アイアンをまるで金属バットのように振り回す妻のことは、追いかけ回される間、この上もなく恐ろしくはあったのであるが。
そして、その後一週間、奏汰は右頬の上のほうに絆創膏を張って仕事をすることになったのだが、その絆創膏を見る人見る人が、「先生、そのほっぺ、どうしたんですか?」、「せっかくのいいお顔に傷がついちゃったんですか?」、「ちょっと猫に引っかかれまして」、「ほうほう。そりゃ随分元気のいい猫ちゃんですなあ」、「あ、先生。その猫っていうのは絶対女のことですな?ムフフ」……といった話を、職場の上司、同僚、看護師、患者のすべてからしつこく繰り返されるのには、奏汰もほとほとうんざりしたものである。
だが唯一良かったといえば、その傷のせいで、奏汰は明日香に嘘をつかずに済んだということだったかもしれない。不倫関係にある男女の関係には珍しく、奏汰は明日香にあまり嘘をついたことがなかった。また、ついたにしても、家庭内の事情を誤魔化すのに別の言い方をしたといったような、奏汰が明日香についたのは誠実で優しい嘘がその大半だったと言えただろう(その逆に奏汰は、妻の小百合にはとても不自然で、彼女が不審の念を持たざるを得ない嘘を、大した良心の呵責なしにたくさんついたのであるが)。
「そうだったんですか……あの、わたしも先生に御連絡していたら良かったですね。先週の土曜日、『あれ?もしかして先生の奥さまじゃないかしら』っていう雰囲気の女性を実は見かけていたんです。でも、サングラスをしてらしたし、わたしも先生の娘さんの写真を見た時に、ちらと見たというだけでしたから、はっきりした確信を持てなくて」
ちなみに、つきあいはじめた極初期の頃に、奏汰の娘の七海の写真を見たいと言ったのは明日香のほうであり、この時奏汰は妻の小百合が映っておらず、娘と自分だけの写真を探そうとして――彼が急いでスマホをタップするのを、明日香は横から少しだけ見ていたのである。
「そっか。まあ、はっきり口にしなかったとしても、小百合は俺に他に女がいるっていうことは、かなり前から気づいてたはずなんだ。それで、なんていうか、離婚のことを口にした途端、突然態度が豹変しちゃってね。あんな妻のことを見るのは、結婚して以来初めてのことだった。それで、次の日になったら前の日の夜のことが恥かしかったのかどうか、俺が口にした離婚のことは何故か立ち消えになっていてね。なんていうか、妻の中ではどうも「そんなことは聞かなかった」ということになってるらしいんだ」
「そうだったんですか。あの、先生……なんていうか、ご無理なさらないでくださいね。今のわたしにとっては、いくら時間がかかっても先生のことは待てますけど、先生がもうわたしの元に来てくれないっていうことが一番つらくて――先生がわたしにこれからも会ってくださるなら、先生が結婚されたままでも、わたしは構いませんから」
「あ、ああ……」
明日香は、奏汰が自分の部屋へ来れない週末には、必ず彼の部長室のほうへやって来る。そしてこの時も、奏汰と以前抱きあったソファベッドに座り、お腹のすいた彼とふたり、カップラーメンをすすり、そのあと煙草まで一本ずつ吸っていた。
もちろん、院内は禁煙であり、それは医局内やここの部長室も同様であった。煙草を吸いたいなら職員用の喫煙室で吸えということである。だが、実は奏汰と明日香がこうして遊びで煙草を軽く吸うようになったのには、ある理由があった。
ふとしたある時、奏汰は明日香の部屋に煙草があるのを発見して、驚いたのである。女友達が忘れていったもの、という可能性ももちろんあったが、男友達、という可能性もあると思い、そのセブンスターを疑いの目でもって見た。
「ああ、それですか?わたし、たまーに吸うことあるんですよ。まあ、十代のやさぐれ期にちょっと吸ってて、それで、看護師さんもストレスからか、吸う人結構いますよね。で、いつ禁煙してもよかったんですけど、なんていうか、そのほうが人間関係的にうまくいくようなところがあって」
「人間関係的にうまく?」
と、その時奏汰は聞き返していた。明日香が煙草を吸うのは意外だったが、それでも、友達でも誰でも、男が来たのでなければ奏汰にはそれで良かったのである。
「ええ。ほら、煙草吸わない人よりも、吸う人同士の連帯ってちょっと独特っていうか、そんなところがありますよね。なんていうか、『あたしたち、仲間よねー』的な。だから、夜勤の休憩中に煙草吸ってると『あら、意外ね。あんたみたいな子が吸うなんて』っていう感じで、不思議とそれまで冷たかった看護師さんが仲良くしてくれたり。ちなみに、近藤さんとも遠藤さんとも、それでちょっと親しくなったところがあって。あと、介護士の休憩室っていうのが七階に別個にあって、そこ、すごく広いんですよ。それで、そこには一階から十階までの介護士さんとか看護助手さんとか、お昼になると色々集まるんですけど……ちょっと休憩するのに、理学療法士さんが来ることもあれば、臨床工学士さんがいたり、あとは看護師さんでも少し休むのにちょうどいいって知ってる人も来ることがありますね」
「なるほどなあ。で、そういうところでも色んな科の噂話が飛びかってるってわけなんだな」
「そうです」と、明日香は笑って言った。「で、そこにも小さな喫煙ルームがあるんですけど、わたしが煙草やめたら、「なんで最近来ないのよ」って、昼休みにそこでたまに会ってた理学療法士さんから言われて。だから、その時揃った面子によって、喫煙室に入ったり、煙草吸わないで他の介護士さんたちとしゃべったり……まあ、なんていうか、喫煙室で聞く話のほうが結構面白いことが多くて。先生、医局にも喫煙室ってあるでしょう?行ってみると、きっと面白いですよ。いるのはたぶん他科のよく知らない先生でしょうけど、他科のよく知らない先生とほんの十分か十五分話すだけでも……結構気晴らしになる気がするっていうか。まあ、先生たちはみんな忙しいから、食後にちょっと一本吸って、またすぐ持ち場に戻るって感じかもしれませんけど」
――実際、明日香にこの話を聞いてから、奏汰はたまに医局の喫煙室でずっとやめていた煙草を一本程度吸うようになった。そこには分煙機が一応設置されているのだが、もはや煙草の煙を吸いすぎて、半ば機能していないように見える代物であり、煙草を吸ってなくても肺ガンになりそうに感じられるその場所で、たまによく知らない他科の先生と話をするようになったのである。
何分、耳鼻科や皮膚科の医師などは脳外科とは接触などないし、そのせいかどうか、どうでもいい話をちょっとするだけでもいい気分転換になった。もっとも、奏汰自身忙しく、特に手術日などは急いで食事をかきこんですぐにオペ室へ向かうといったことも多い。だが、そういう時でも、奏汰が手術後にちょっと一服していると、他の科の手術の終わった先生と趣味の話で盛り上がったことがあり、(なるほど。明日香が言っていたのはこのことか)と、彼は思ったりしたのである。
こういったことがあってから、奏汰と明日香は時々、ほんの一本か二本、煙草を吸うことがあった。そしてお互いに「俺たち、悪い人間だな」、「そうですね。先生は昭和風に言うなら札つきのワルってやつです」、「やれやれ。平成世代はそうやって昭和世代を馬鹿にするんだよな」、「誰も馬鹿になんかしてませんてばっ!」などという話をしては笑いあっていた。
こうした明日香との関係が、奏汰には心地好いものだったし、何があっても彼女とならきっとうまくやっていけるという自信もあった。その日も、明日香は「勤務後にカップラーメン&煙草って、医者の不養生っていうのはまさにこのことですよね、先生」、「今は腹へってるから、何食ってもうまいよ。それに俺は、明日香がいなくて栄養満点のものを食うより、明日香がいれば、食事の内容なんかどうだっていいんだ」……といった話をしたあと、頬に絆創膏を貼ることになった経緯や、妻に離婚のことを切り出した途端、彼女が豹変したといったことを説明していたわけである。
奏汰は確かに、小百合がゴルフクラブを振り回した夜以降、明日香のマンションへ行くことが以前よりも減った。けれど、ふたりの間の絆は変わらず健在だったし、自分が彼女の部屋へ行かなかったら行かなかったで、明日香には他の友人らとのつきあいなどがあり、そのことで一人寂しく部屋で過ごす……といったようなことだけはないようだった。
そして、そのような形で奏汰と明日香の関係はその後も続き、奏汰がある行動を起こすきっかけになったのは、明日香が手術室の中央材料室にいる御堂崇人と休日に時々会うことがあるらしいと知ったせいかもしれない。
もちろん、彼とふたりきりでカラオケやボーリングに行ったということではない。同僚の介護士の飛鳥司や鶴見悟、他に病院内で仲のいい看護師や看護助手なども取り混ぜて、ということではあったのだが。
「へ、へえ。でも、あれだよな。そうやって院内の持ち場が違う同士で集まったりするうちに、どこかで恋の花が咲くなんていうことが……」
自分でも親父くさい言い方とは思ったが、本当に親父なのだから仕方ないと思いつつ、奏汰はそんなふうに軽く探りを入れた。
「どうですかね。この間、白石さんや紺野さんとも一緒になりましたよ。そしたら噂の通り、白石さん、紺野さんの横にべったりで。御堂さんがわたしに『ほらね』みたいに目配せしてくるもんで、わたしもちょっと笑っちゃいました。もしかしたら、意外にいいカップルなのかなーなんて」
「そ、そっか……」
このあと奏汰は、カラオケで誰がどんな歌を歌ったとか、ボーリングのスコアがどうこうといった話を聞く間も、明日香の口から御堂の名前が出た時だけ、「御堂さん」という名前だけが太字で強調されて聞こえたものだった。
たとえば、「御堂さん、ボーリングうまいんですよ。たぶん、院内でボーリング大会なんていうのがあったら、優勝しちゃいそうなくらい」とか、「御堂さん、ミスチルとグレイの物真似うまいんですよ。その割にどっちも嫌いなんですって。矛盾してますよねー」などなど……もちろん、明日香にとっては何気なくした話ではあったろう。けれど、自分がこのまま離婚できなければ、明日香は自分の元を去っていく可能性も十分ありうるのだ……そう思うと、奏汰は今の膠着した状態に焦りを覚えた。明日香はともかく、自分は彼女より十八も年上で、離婚を遅らせれば遅らせるほど、自分は魅力のない中年に成り下がっていくのではないかと、そんな気がして。
それに、明日香がこうした話をするたび――もちろんそうじゃないとはわかっているのだが――奏汰は明日香に「わたし、先生がいなくても休日は結構楽しくやってます」と言われている気がして、彼はそのことが少し寂しくもあったのである。
こういった経緯を経て、奏汰はその年の九月頃……明日香が今年の病院主催の観楓会がどうこうといった話をしていた時、前からずっと考えていて行動に移せなかったことを彼女に話すことにしていたのである。
「御堂さん、病院側も毎年同じところで観楓会なんか開いてないで、たまに別のところにしろってんだよなって言うんですけど、でも結局行くんですよ。カラオケで氷川きよしのズンドコ節を歌うためだけに……」
この時、奏汰はまたしても御堂さんと呼ぶ明日香の言葉が太字の上、二重線まで下に引いてある気がして――思わず発作的にこう言ってしまっていた。
「あ、明日香っ。あのさ……俺、ずっと考えてたんだけど、今度、マンション見に行かないか?」
「えっと、先生……」
栗ごはんに天ぷらの盛り合わせという夕食を取っていた時、明日香はしその葉の天ぷらを口にくわえかけて、それをクッキングシートを敷いた竹籠の中へ戻した。その時ふたりは、明日香の部屋でいつものように食事をしているところだったのである。
「流石に一緒に不動産屋さんへ行くとかいうのは無理ですよ。結構前のことですけど、街中で放射線技師の斉藤さんが家族で歩いてるところを見たことがあって。もっとも、こっちからみんなで手を振っても、向こうは気づかなかったんですけど……やっぱり、そういう偶然ってありますもの。だから……」
「ああ。もちろん、俺も明日香の言いたいことはわかってる。それじゃあ、まずはネットでいい部屋がないかどうか、検索しよう。それで、ふたりでそこで暮らすんだ。とにかく、俺は妻とはまだ離婚できなくても、そのことを機に家を出る」
「先生……」
おそらく、奏汰が切羽詰った顔をしていたせいだろう、明日香は夕食のあと、ノートパソコンをテーブルに置くと、ふたりはベッドの上で隣りあったまま、大手不動産会社の運営するサイトで、条件に合った部屋を時間をかけて探した。
「でも先生、実はわたしこの部屋に結構愛着があって……そりゃ狭いでしょうけど、ここでふたりで――って、やっぱり駄目か。こんなところから先生が出勤してたら、いずれどういうことかっていうの、わかっちゃいますもんね」
「ああ。というか俺、論文を書くのにどうしても書斎が欲しいっていう変人だからね。間取りとして最低、2LDKは欲しい。明日香のほうで何か条件はある?ほら、たとえばメゾネットがいいとか、そういうの」
ここで明日香は、奏汰の外科医らしい綺麗な手が、パソコンのキィを叩くのに目を落とし、それから隣の恋人の横顔をじっと見つめた。
「わたしは、条件なんてないですよ。先生と一緒なら、安くてボロくて狭いアパートでも全然平気。でも先生、本当に大丈夫なんですか?だって、奥さま……」
「だからだよ。ずっと俺は、例の一件があって以来、妻に離婚のことは言いにくくて仕方なかったからね。でも、次にこのことを切り出すとしたら、その時は家を出る時だと思ってたから……やっぱり、仕事があんまり忙しくて、なかなか思いきりがつかなくてね。でも、今回は絶対大丈夫だ。夫が妻に置き手紙をして出ていくだなんて――確かに男らしくないかもしれないが、とにかくそうとでもするしかないと思ってる」
「…………………」
(奥さま、本当に大丈夫ですか?)と言いかけて、明日香は下を向いた。いけない恋だ、自分は先生に相応しくない、それに、一体自分はいつまで先生の興味を惹ける存在であり続けられるだろうか……など、彼女にも不安なことはたくさんある。それに、奏汰の妻が自分を尾行までしたことから見ても、彼女のほうでもそこまで精神的に追いつめられていたのだ、そして追いつめたのは自分なのだ、との思いが明日香にはあった。だから、(もしかしたらもうこれで、先生とは終わりかも……)と思いもした。そして、もしそうなるなら、それが妻子ある人を愛した罰なのかもしれないとも――明日香は半ば覚悟していたのである。
けれど、奏汰がこの上もなお自分を選んでくれて、明日香は嬉しかった。そして、今までずっとそう思ってきたように……この時も(最後まで先生を信じてみよう。信じてついていってみよう)と、すぐそばに愛しい人の体温を感じながら思っていたのである。
* * * * * * *
結局、ネットで見つけた物件については、明日香と奏汰はそれぞれ別々に見にいくということになった。明日香のほうでは先生が気に入りさえすれば自分はどこでもいい……くらいの気持ちだったのだが、奏汰曰く、「ネットなんてアテにならないよ」とのことだった。
「ほら、こういう写真とかもさ、天気のいい日にいいアングルで撮ったみたいな写真だと、実際に見に行った時と絶対印象違うからな。あと、写真の撮り方によっては広そうに見えるけど、実際見に行ったら狭いとかさ。とにかく、一度は実際に現物を見たほうがいいって。俺もあとから明日香に『なんで先生はこんな部屋を選んだんだろう』なんて言われたくないし」
「あ、そーですよね。先生、今まで三回くらい転勤してるんでしたっけ。わたしはここに来てからずっとこの部屋に住んでるもんだから……一人で住む分にはここより狭いくらいでも十分だけど、先生は生まれも育ちもリッチな人だから、最低でもこういうラインになるんですねー。明日香的には了解でっす!」
「なんだ、その、了解でっすっていうのは」
明日香は本当に、最愛の人と一緒にいられるなら、部屋の間取り云々といったことはどうでもよかった。そこで、大体のところ部屋選びは奏汰に任せておいて、条件を絞り込んだそのあとは、検索に夢中になっている恋人の横で、ただなんとなく画面を見ていたのである。
そして、「ここなんかどうだ?」と奏汰が言うたび、「そーですねー。なんかいい感じー」とか「バッチのグーっぽいです、先生」と答えたりしていた。
「なんだ、そのバッチのグーっていうのは?」
「看護師の駒田さんの口癖です。「駒田さん、こんな感じでどうですか?」、「ああ、バッチリバッチリ、きーちゃん、バッチのグーよ」ってよく言われるもんですから」
奏汰は脳外科病棟の駒田看護師のことを脳裏に思い浮かべ、(そういうキャラの人なんだな)とぼんやり思う。確かに、看護師のほうで医師に向かって「バッチのグー」などと言うことは普段滅多にないだろう。
こうして、最終的に物件が三件ほどに絞り込まれ、奏汰と明日香はそれぞれ別々に不動産会社を訪ねて、この三件の物件を見てまわるということになった。奏汰も病院業務が忙しいため、普段ならこうした無駄な雑事がひとつ増えるのには苛立ちを覚えることが多い。
けれど、この時だけは病院を八時に出たあと、奏汰は懸念の手術が無事成功した喜びも相俟って、意気揚々とS市の駅前通りにある不動産会社の前に車を駐車した。不動産会社のほうは七時閉店とのことだったが、「忙しくて、早くても午後七時に病院を出られればいいほうだ」といった旨を話すと、こちらの都合に合わせてくれるということで、おそらく前もって職業の欄に病院勤務・医師といったように書いてあったせいだろう。案内の「店長代理」と名刺に肩書きのある三十代半ばくらいの男性は、車で順に物件を回る間、実に丁寧な物腰で感じよく室内の説明等をしてくれたものだった。
こうして、明日香のほうも明日香のほうで、休日に奏汰と同じように物件の案内をしてもらい――彼女がそれぞれの物件に順位をつけたのとまったく同じ結果を奏汰も出していたのだった。
「えーっと、ただね、やっぱりこの家賃っていうのは、わたし的には絶対的に高いなーとは思うんですけどね。だって、わたしの給料のほとんどが消えるような家賃なんですもの」
「べつに、金なんか俺が出すんだからいいだろ?本当はさ、物凄く眺めがよくて広い部屋を借りて、明日香をそこへ連れていってプレゼントなんていうサプライズをしたかったけど……まあ、これから全財産のほうはあえなく没収といった身の上になるもんだからね」
「ううん、わたしには十分これでも贅沢ですってば。っていうより、敷金とか色々含めてこれ、結構になりますよねえ……なんかわたし、そう思ったら先生に悪くて」
その日、ふたりは例によって部長室で話しこんでいた。食事のほうは、奏汰が前もって用意してくれていた牛たん弁当だった。
「そうか?というより、お互い、住みたいと思う部屋が一緒で良かったよ。じゃあ、これから契約済ませて、明日香のほうは準備が出来たら引っ越してきたらいい。俺はひとりで家を出て、まずは適当に身の回りのものなんかを買って、そこに住むことにするから」
――こうして、奏汰と明日香はお互いが勤める総合病院から少し遠い場所にあるマンションの十階に住みはじめた。奏汰は車で通勤するのでともかく、明日香のほうは朝早く出なくてはいけないため、大変だったわけだが……「これも不倫の代償と思って、潔く早起きしますよ」と、明日香は笑って答えていたものだった。
もちろん、このことで一番心の傷ついたのが、奏汰の妻の小百合である。彼女はもう離婚は立ち消えになり、夫は愛人と別れるものとばかり信じていたのだから……。
>>小百合へ。
こんな手紙ひとつを残して出ていくことを許してほしい。
だが、あの夜にわかった。俺とおまえは顔を突き合わせてこのことでは話をすることも出来ないと。だからあとのことは弁護士を通して話しあおう。
小百合のお陰で、うちには今結構な貯金があるはずだ。それは君がすべて七海と一緒に使ってくれて構わない。
最後に、小百合。君には本当に心から感謝している。この十年以上もの間、家庭のことでは何も心配なく俺が仕事にだけ集中できたのは小百合のお陰だ。それに、七海という可愛い娘を生んでくれたことも……。
仕事で忙しくなければ、俺ももう少しは頭を働かせてまともな手紙を書けたと思う。けれど、結局のところ何を言ってもおまえを裏切ることに変わりはない。
俺のことを一生許さず、恨んだままでいてくれても構わない。ただ、七海のことだけはよろしく頼む。俺のほうでも父親として、出来るだけのことは七海にしたいと思っているから……。
離婚届けを同封しておくが、こんなもの、おそらくおまえは破って捨ててしまうだろう。だが、家庭裁判所で争っても虚しいだけだと思って、なるべく早く判を押して市役所に提出してほしい。
君と七海の幸せのことだけは、これからも本当に心から願っている。
駄目夫にして、駄目な父親より。
その置き手紙に小百合が気づいたのは、夜も随分遅くなってからのことだった。夫婦の寝室のナイトテーブルのところに、白い封筒が置いてあることにふと気づいたのだ。おそらく、今日出勤する前に置いていったものと思われるが、表には『小百合へ』とも『小百合と七海へ』との表書きもなかったため――白のナイトテーブルの色とも相俟って、それで昼間掃除した時には気づかなかったのだろう。
手紙の内容がどういったものかは、最初の一行目を読んだ時からすぐにわかった。それでも一応読みたくないながらも、最後まで読まなければならず、小百合はベッドの上に倒れ伏すと、そのまま体を起こす気力もないまま、泣きじゃくっていた。
(ひどい……ひどい。こんなのってあんまりだわ……!!)
最終的にこんなことになるのなら、何故もっと早くに夫は自分を切ってくれなかったのだろう。小百合は一瞬そう思いかけるが、その後、頬の涙をぬぐいながら身を起こし、(いや、やはりこれで良かったのだわ)と考えを変えた。
(だって、わたしは自分で出来る限りのことはしたんだもの。でも、それで駄目だったんだから、やっぱりこれはあの人の問題よ。全部あの人が悪いのよ……)
そう思いながらも、小百合は次から次へと涙がとめどもなくこぼれてくるのを止められなかった。この半年以上もの間の自分の涙ぐましい努力が報われなかったこともそうだし、経済的なことでは確かに暫くは困らないだろう。けれど、今彼女にとって現実に一番問題なのは、もう生きていく気力すら湧いてこないということと、それでも娘のために自分は母親としてしなくてはならないことが山ほどあるということだった。
また、七海が成人して大学を卒業するまで――夫が養育費を支払ってくれるにしても、その後はどうしたらいいのだろう?大学を卒業後、七海が一人立ちしたとしたら、自分は?何より、夫と過ごそうと思っていた理想の老後は……そのためにもずっと熱心に貯金してきたのに、その金は全部やるだなんて言われても、小百合はまったく何も納得なんて出来なかった。
小百合の現在の夢と幸福は、今の夫と娘のいる暮らしがこれからも続いていくということだった。そしていずれ娘が一人立ちしたら、夫の奏汰と一緒に温泉旅行したりして、夫婦でふたりきりの老後をのんびり過ごせたらと思ってきた。もちろん、夫が不意の病いに倒れたり、自分だっていつ何時病気になるかはわからない。けれど、そのためにも小百合は普段から栄養のバランスのとれた食事作りをしていたし、週に二度ヨガ教室に通ってもいる。
この時、小百合はこれまでの自分の幸福がガラガラと音を立てて崩れていく音を聞くと同時、思い描いていた未来の幸福像まで壊され、すっかり打ちのめされていた。そして、そうした悲しみを乗り越えるためかどうか、今度は心の奥底から沸々と怒りが湧き上がってきたのである。
(夫は今、あの女と一緒にいる。人のことをコケにしておいて、自分たちだけ幸せになろうとするだなんて絶対許せない……!!離婚なんて絶対しないわよ。もし仮にせざるをえないにしても、わたしに妻として落ち度なんて何もないんだから、最後の最後まであがいてあがいて、出来る限り長引かせて苦しめてやるんだからっ!!)
このあと小百合は、インターネットで離婚訴訟のことなどを調べ、仮に最終的に離婚に合意するにしても、かなりの長い期間夫と愛人を苦しめてやれるだろうことを思い、この暗い喜びに胸が震えたほどだった。けれど、ただひとつ、小百合にとって気がかりなのは……脳外科医である夫の医師としてのキャリアに、それでは傷がついてしまうだろうということだった。何より、医師として病院に勤めながら離婚訴訟の法廷の場にも出席するというのは、心身ともに相当重い負担になることだろう。
(わたしも、夫が医者じゃなく、普通のサラリーマンだとでもいうのなら、苦しめに苦しめてやることになんの良心の呵責も覚えないのだけど……夫の患者には多少申し訳なく思うのよね。でも、そんなことは実際に裁判になってから考えればいいことだわ。もしかしたらその前にあの人はこの家に帰ってくるかもしれないし)
それよりも、と、小百合はリビングの壁時計を見て溜息をついた。時計の針は午後二時を指している。小学四年生になった娘が、もうすぐ帰ってくるはずだった。
(あの子にはなんて説明しよう。「お父さんには、お母さんの他に、外に女の人がいてね……」だなんて、口が裂けても絶対言えない。それに、いつ帰ってくるかもわからないのに、「パパはいつか帰ってくるけど、今は仕事が忙しくて暫く病院のそばで暮らすことになったの」……だなんて、流石に見え透いてるんじゃないかしら……)
そして、小百合は娘の七海がこのことでどれほど傷つくかと思うと、目の前が暗くなる思いだった。パパが週末に家にいることを、あんなに楽しみにしている娘なのに。
(わたしが七海くらいの時は、お父さんが休日に家で昼寝してたら「このトドは他にすることはないのかしら?」なんて思ったものだけど、七海はまるで違うんだものねえ。あ……そうだわっ!!)
ここで小百合はある妙案を思いついた。確かに夫は自分のためであれば、この家へはもう帰って来まい。けれど、娘のためであれば、嫌々ながらでも必ず帰ってくるはずだと、小百合はそう踏んだのである。
(こうしたらどうかしら?「パパはお仕事が忙しくて、病院のそばに住むことになった」、「でもお休みの日には家に帰ってくるわ」、「ということにしておいたから、あなたも多少は罪の意識があるのなら、最低限このルールだけは守ってちょうだい」、「じゃないと、これ以上わたしも七海にどう説明していいかわからないわ」……ということにするのよ!!でもあの人、わたしからの電話にはそう簡単に出ないでしょうから……そうよっ!!病院に直接電話するのよ。そしたら、あの人も出ざるをえないわ。それに、仮にすぐ電話に出れなくても、あの人だってそう何度もしょっちゅうわたしから病院に電話されたんじゃ堪らないと思って、結局はこっちに電話をくれるでしょうよ)
小百合はこのナイスアイディアに賛嘆し、リビングのソファの上で、ほーっと深い溜息を着いた。彼女としても、週に一度か二度、夫が家に帰ってくるというのであれば、どうにかまだギリギリ我慢もできる。何故といって、その際に離婚を回避すべく話しあいの場を持つことが出来るからだ。
(でも、わたしひとりがこんなことを思ってて、肝心のあの人が実際には帰ってこないなんていうんじゃ困るものね。あ、そうだわ!あの人の携帯にメールしてみよう。そうよそうよ。メールなら流石にあの人も、わたしからのものでも見るでしょうからね)
>>良妻と可愛い娘を捨てようとしている、分別のない馬鹿な夫へ(ちなみにこれがタイトルである)。
例の手紙、腸を煮えくり返らせながら拝見しました。
ただし、わたしのことはともかくして、七海のことはどうするの?
パパが突然家から出ていなくなってしまった理由を、わたしにどう説しろというの?どう考えてもわたしには説明不能です。
だから、七海には次のように説明しようと思います。
パパはお仕事が忙しくて、病院のそばに住むことになった、でも休みの日には帰ってくるよ……あなたにも多少は罪の意識があるのなら、最低でもこのくらいの犠牲は払ってください。
また、ネットで調べましたが、あなたも泥沼の離婚訴訟なんて嫌でしょう?その機会にわたしとも話しあったほうが穏便に事を済ませられるかもしれないと思って、週に一度か二度は自宅に帰ってきてください。それが今のわたしに譲ることの出来る最低のラインです。
小百合より
小百合は、愚かな夫にメールを送信すると、壁のカレンダーを睨むようにしてじっと見た。もうすぐ、七海のバレエの発表会がある。いつも夫はあとからビデオカメラで撮影したものを見るのだが、この日は絶対一緒に来て欲しいとパパに頼んでみるといいわ、と七海に言おうと小百合は心に決めていた。
実際、発表会ともなると、自分の子供が舞台に上がるまでの間、親も結構大変なのだ。また、そのことは一度舞台を見に来たことのある奏汰のほうでもわかっているはずなのに。
(そうよ。わたしのことはともかく、七海のことはよく考えてもらわなくちゃ。わたしにしたって、夫という一家の大黒柱の支えがあればこそ、子育てで色々大変なことがあっても耐えていけるのですもの。あの人にはそうしたことも含めて、父親として責任があるってこと、もう一度よく思い出してもらわなくっちゃ……)
意外なことに、たまたま手が空いていたのかどうか、奏汰からは割合早く返事が来た。
>>今週は無理だが、来週の週末には帰る。
あまりに短いショートメールではあったが、なんにせよ、来週の金曜、あるいは土曜には夫は帰ってくるのだ。そう思うと、(まだ希望のすべてが潰え去ったわけではない)と思い……小百合はまず、来週のご馳走について考え、そのあともう一度時計を見てほっとした。
娘の七海はこれだけでもきっと相当がっかりすると、小百合にはわかっている。それでも、「お母さんはね、お父さんと離婚することになったの」などと突然伝えなくてはいけないよりは……このほうが遥かにましだった。小百合は奏汰からの手紙を読んだ次の瞬間、奈落の底に突き落とされるようなショックを受けたが、それと似た思いを娘に味わわせずに済んで、心からほっとしていたのである。
>>続く。