佐藤史生先生の、『死せる王女の孔雀舞(パヴァーヌ)』と『金星樹』を読みました
購入動機は、『死せる王女の孔雀舞』の巻末に増山法恵さんの解説として「〃ドサト〃と大泉サロンの思い出」とあったこと、また『金星樹』のほうは巻末に萩尾先生の「ド・サト奇談」という解説……というかエッセイ風の文章が掲載されていると気づいたことでした
とはいえ、二冊とも漫画作品としてとても質が高く面白く、一作品として「これはあんまし面白くなかったな」と感じた漫画はなかったほどだったと思います。
自分的に、竹宮先生がスランプになったのと対照的に、佐藤史生先生の場合は、「これを伝えたい!」という物語の核が間違いなくはっきりしているにも関わらず、たぶん絵のほうで苦労される部分が大きかったのかな……という印象だったかもしれません。逆に、竹宮先生の場合はズバ抜けて絵が上手すぎたゆえに、スランプ時に「これをこそ伝えたい!」という物語の核の部分の描き方について悩まれ、増山さんに相談するようになった――のかなと、ちょっとだけ思ったりしました(というか、「これをこそ漫画家のすべてを賭けて描きたい!」という『風と木の詩』を受け入れてくれる出版社がすぐ見つかっていたとしたら、また状況も違ったと思ったり)
その~、なんというか漫画家さんの凄さ・偉大さって、「このふたつが揃っている」ということなのかなってあらためて思ったりしました。佐藤史生先生の絵って(わたしは好きなんですけど)、「少女漫画としては一般受けしない絵柄かもしれない」とか、一コマ一コマ丁寧に描かれていて好感を持つし素晴らしいのだけれども、「作者様は伝えたい物語のために絵の表現部分では苦労されてる気がする」といった雰囲気を、どうしても読者に伝えてしまう部分があるというか。。。
いえ、なんにしてもわたし自身としては、佐藤史生先生の漫画のファンになりましたし、『一度きりの大泉の話』きっかけで、読んでよかった漫画及び漫画家さんがさらに増えたといったところです
で、肝心の増山さんのエッセイ風解説ですが、自分的に読んだポイントとして重要だったのが、1.『一度きりの大泉の話』にもあるとおり、佐藤史生先生は自分が生きてきた中で大泉時代が人生で一番幸福だった……といったように幾度か口にしたのに対し、増山さんのほうでは「ふう~ん」と聞き流していた、とあること。2.おふたりが、生涯に渡ってとても仲がよく、特に何もなくてもとにかく毎日電話をして話すくらい親しい間柄であったと書いてあること。――という、この二点だったでしょうか。
>>〃大泉サロン〃は、仲間であれば誰がいつ来るのも帰るのも自由。毎日居てもよい、という状況であったが、常に五人~十人の女の子達がワサワサと集まっていて、当時何を食べていたのか、狭い部屋でどうやって寝ていたものか、細かいことはまったく記憶がない。夢と情熱と活気に満ちていたあの日々を、ドサトがずっと愛してくれていたのかと思うと、嬉しさと懐かしさで胸が熱くなる。
「おばあさんになったら一緒に暮らそうね」とドサトと約束していたのに、ついに実現できなかった。将来設計が狂ってしまって、私は今途方に暮れている。互いに家は遠くなかったのだが、ふたりとも出不精なので、毎日飽きずに電話していた。これといった話題はないのだが、とにかく一日の何時間かは一緒にいる感覚を共有したかった。
そのほか、ショッピング、食事、映画、美術展……何でも一緒に行動していたから、今はまだ「ひとりで映画に行く」ことなど想像もできないし実行もできない。
(『死せる王女の孔雀舞』巻末解説より)
『一度きりの大泉の話』で、萩尾先生は人は多面体だと書いておられるわけですが、この<大泉時代>のことというのは、万華鏡のように見た人、経験した人によって、「思い出」のほうの記憶のされ方というのが違うのかもしれません(もちろん萩尾先生は>>「私の中で大泉のことは、下井草のあの夜と、いただいたお手紙とセットになっています。大泉だけでしたら良かった」……と書いておられるわけですけれども^^;)
それで、その後ふと、自分的にこう思ったんですよね。『一度きりの大泉の話』を最初に読んだ時のわたしの印象というのは、竹宮先生と増山さんがふたりがかりで萩尾先生に盗作疑惑をかけ、そんなことは思ってもみない萩尾先生は深く傷ついた……この時点でわたしが持った第一印象というのは、『少年の名はジルベール』をまだ読んでなかったので、心証としては「竹宮先生と、そちらに味方した増山法恵さんという人は、なんというひどい人たちだろう」というのに近い感情を持っていました。それで、盗作の問題点となっている『風と木の詩』、『ポーの一族』を順に読んでみて――ますます確信したわけです。萩尾先生は100%に近い被害者であるのみならず、そうした理不尽なこと全般について、「何故なのか」ということもわからないまま、受け入れざるをえなかったのだろうと……「よくある人間関係の<その程度のこと>で萩尾望都が深く傷ついたのは、それだけ萩尾望都が感受性の強い人間だったから。竹宮惠子側に立った場合、彼女には彼女の事情があり、ギリギリまで萩尾望都に譲歩している。ゆえに竹宮は萩尾信者に総攻撃されねばならぬほど悪いわけでもなく、むしろ竹宮側の事情を鑑みれば当然すぎるくらい当然の行動をとったに過ぎない」――まとめて言うと、これに似た意見というのをいくつか見た記憶があるのですが、まあ人が3人いて、最初は三人とも仲が良かったのに、それが2:1になった……というのみならず、よくわからない理由を押しつけられて突然関係を断ち切られた――という、これに似た経験のある人ならわかると思います。しかも、そちら側の情報が何やら間接的(?)に入ってくるという状態が長く続いたとしたら、その「なんとも言えない感じ」というのは、もう本当に「なんとも言えない」感じのものだということが……。
それで、わたしこの問題に取り憑かれるあまり、萩尾先生と竹宮先生の漫画をそれぞれ読むことになったわけですが(※全部ではありません)、ある程度この問題について考えて、そろそろ一周しつつあるような今……今度は関係者のひとりである佐藤史生さんの漫画を読み、彼女の大親友・増山法恵さんのドサトさまへのエッセイを読んでいて――萩尾先生の『銀の三角』という漫画について考えてしまったというか。
いえ、『銀の三角』はわたしのようなSF知らずの凡人が語っていい漫画ですらありませんし、この素晴らしい大傑作漫画を構想する間及び実際に描かれている間、竹宮先生や増山さんのことなどは、萩尾先生の頭にはなかったものと想像します。ただ、どの過去のモザイクを変えたとしたら、『十年目の鞠絵』のラストのような、三人が無限の輪を築く関係性のままでいられたのか……ということを、一読者であるわたしは連想せずにいられなかったわけです。
そして、最終的に出た答えというのが――この問題に関して色々考える極初期にあった、『少年の名はジルベール』を読んだあとに生まれた、他の誰もが思う極シンプルなものでした(^^;)
『少年の名はジルベール』のクロッキーブックを見て、引き受けてくれる出版社さえあれば……おそらくは何かが違っただろうということ。竹宮先生と萩尾先生が一緒に暮らさなければ……というのは、やっぱりちょっと選択肢として除外されてしまうんですよね。何故かというと、佐藤史生さんは萩尾先生にファンとして手紙を書いたのが大泉に出入りするようになるきっかけだったわけですし、となると、佐藤史生先生の「人生で一番幸福だった記憶」もなくなってしまう可能性があるというか。それに、萩尾先生も「大泉だけでしたら良かった」とおっしゃっておられるわけですし、盗作疑惑という例の事件が起きたのは、大泉解散後の話でもある。また、増山さんのことを竹宮先生に紹介したのは萩尾先生であり、もし増山さんがいなかったとしたら、萩尾先生と竹宮先生はふたりとも――描いた漫画の作品の内容がそれぞれ違ったかもしれない可能性すらあると思うんですよね。また、竹宮先生が萩尾先生に恩師となる編集者、山本順也さんを紹介したというのも、萩尾先生が漫画家として大成する大きな足がかりとなっているように感じることから……過去のモザイク・パーツのここを外すと「これが起こらない」、いや、だがそれは起こってもらわないと困る事柄だ――ということを検証していくと、やっぱり単純に「『風と木の詩』を連載してもいいという出版社が早い段階であったとしたら」何かが違ったのではないかと、その可能性しかないように思ったわけです。。。
もしそうなっていたとしたら……『風と木の詩』の連載が決まった竹宮先生は、例のヨーロッパ旅行でも他の三人以上にはしゃいでいるくらいであり、萩尾先生にも積極的に話しかけて、その記憶はその後も増山さんや山岸涼子先生も含めた四人の間で、たびたび話題に上るくらい、生涯最良の経験のひとつだった――といったようなものになっていた可能性すらあるように思った、というか(いえ、萩尾先生も竹宮先生も、この初めてのヨーロッパ旅行について「素晴らしかった」、「楽しかった」というように思っておられるとは、『一度きりの大泉の話』、『少年の名はジルベール』、両方を読んでいて読者にもわかることではあります^^;)
もっともこの場合、『ファラオの墓』が生まれないという可能性もあるわけですし、そこで積んだ修行(?)がさらに『風と木の詩』にも繋がったように思うと、判断が難しいですが、「過去のモザイクのどの部分を修復すればよかったのか」という可能性について検討した場合……自分的に一周して、やっぱりそれしかないと思ったわけです
そして、わたしがなんでそんなふうに考えているかというと……『死せる王女のための孔雀舞』の増山さんの文章を読んで、佐藤史生さんと「そんなにまでも仲が良かった」ことが初めてわかったからなんですよね。もちろん、『一度きりの大泉の話』にも、おふたりはとても仲が良かったとは書いてあります。ただ、老後は一緒に暮らそうと約束していたり、特に用などなくても毎日当たり前のように電話で話す仲だった――みたいに、増山さんが書いているのを読んで、自分的にすごく複雑な気持ちになったというか。。。
そこまで仲が良かったということは、竹宮先生と増山さんの関係性、また増山さんと萩尾先生が疎遠になった理由の本当のところを知っているのは、やっぱり佐藤史生さんだけだったのではないかと推測されるからなんですよね。『一度きりの大泉の話』には、萩尾先生と竹宮先生の不仲(?)について、察した誰かしらが「仲直りするよう」言ったりされたと書いてありますが、佐藤史生さんはそのように萩尾先生と竹宮先生の橋渡しをしたりはされなかったのではないか……といったように感じられます(というか、もしそうであったとすれば、そのことも書いてあると思う^^;)
わたし的に、最後までよくわからないのは、増山さんが「本当はどう思っていたか」ということだったりします。結構前に、萩尾先生と大森望先生の公開対談みたいな記事で、萩尾先生が花郁悠紀子さん、城章子さん、佐藤史生さん、伊東愛子さんといったメンバーでワールドコン(世界SF大会)へ出かけられておられると知った時から……萩尾先生と竹宮先生の間に交流がなくなってからも、佐藤史生先生は萩尾先生とその後もずっと仲良くしておられたんだな……と思ったりしたわけです。また、これはあくまでわたしの推測なので、「間違いなく絶対そう」という確信まではないのですが、確か『永遠の少年』にオリエント急行で旅をした――みたいなことがどこかに書いてあって、この時のメンバーの中に、増山さんと佐藤史生先生は入っていそうな気がする、と思ったわけです。
その~、こう考えていった場合、増山さんはそんなにSFに傾倒されてなかったように思われることから、ワールドコンと聞いてもそんなに魅力を感じなかった可能性はあると思うものの……仕事その他の都合さえついたとしたら、萩尾先生もオリエント急行で一緒に旅をした可能性があったのではないかと想像しました(そして、エドガーとアランがオリエント急行の旅先案内人をするというエッセイが誕生していたかも……と思ったりして鼻血がでそうになった・笑)。
ええとですね、過去のそのモザイクパーツによって未来が変わっていたら――本当に、色々なことが変わっていたのではないかと思い、自分的にあらためてとても複雑な気持ちになったわけです。もちろん、「起きてしまったことは起きてしまったこと」として、あれがああで、これがこうだったら……と、ある程度人生を生きてきて一度も後悔しない方のほうが少ないわけですから、なんとも言えない問題ではあります。
そして、増山さんの「〃ドサト〃と大泉サロンの思い出」は、増山さんの>>「佐藤史生について過去形で語る日が来るとは思いもしなかった」という文章ではじまるわけですが、その増山法恵さんも昨年お亡くなりになってしまいました。そして竹宮先生もまた、ブログの中で>>「全く亡くなったという実感がなく、【中略】いないという気がしないのだ」といったように書いておられて……ここにも時の力のようなものを感じます
おそらく、萩尾先生にとっては例の地雷さえなかったとすれば、佐藤史生さんと同じように、一点の曇りもなく大泉時代を振り返れたのかもしれない。でもその後、50年してみると、「一時期あんなにそのことで悩んだ」、「苦しんだ」ということも越えて、もうモザイク・パーツのひとつを変更すれは、未来はこうであったかもしれない――といったことすら考えなくなる。というか、誰でも何かの人間関係で傷ついたことに関して、50年とは言わずとも、その半分の25年かそれ以下の年月の経過によって……「変えられない過去とその記憶パーツ」について、特に何も感じなくなるという段階に至ることがあると思うんですよね。
傷が癒えない最初の頃は、その部分を軽く指でなぞっただけでも、傷ついたその瞬間と同じくらいズキズキ痛むとしても、その後、時間をかけて思い出さない間隔が徐々に長くなり……それでも、時々そこに何かが触れれば痛みがぶり返したり、再びくよくよ悩んだり……といったことを繰り返しつつ、最終的に「イヤな記憶には違いないけれど、起きてしまったこと自体は受け容れられる」というくらいには、時の経過とともにある程度なれるとは思うわけです。
ただ、こっちがそのくらい苦労して立ち直ったということを……相手が知らないということはあり、逆に、当時そのくらい竹宮先生のほうで苦しんでいた、悩んでいたということを、50年も経ってから萩尾先生のほうでわかり、「双方とも傷ついた」という真実を、初めて知ったということなわけですよね(=それまではそんなにも苦しみ悩んだのは自分の側だけだとお互いに思っていた)。
そして、読者的にはこう思うわけです。「50年も経ってから、こじれた人間関係の真実がわかる」……本当にそんなことがあったりするものなのだという意味で、『一度きりの大泉の話』と『少年の名はジルベール』を優れたノンフィクション作品として捉えた場合、実はその部分が一番驚くべきことではないかといったようにも思う、というか(^^;)
いえ、わたし的に、このことは少女漫画の歴史を語る上でとても大きなことと思うし、今後本当に大学などでこのあたりのことで優れた卒論を書いたりする方が出てきたとしてもまったく不思議でない――と、そのように信じて疑わないくらいです。。。
それではまた~!!
惑星パルミラ。-【27】-
この翌日、ゼンディラはESP機関の子供たちから託されていた手紙やプレゼントを、パルミラ滞在中の少年・少女たちに渡していた。彼らは全員で七名おり、ラティエルやティファナに告ぐ年長者であるのが、二十五歳のアンドレ・ローゼン、次が二十四歳のセリーナ・ムーティ、二十三歳のジャクリーン・ティティ、同じく二十三歳のテリオス・ライゼン、二十二歳のロック・ケネディ、二十一歳のパオロ・リオス、二十歳のローレン・コディ……といったところであった。ジャクリーンとテリオスは姓のほうが異なるが、実は生き別れの双子であり……互いに互いのことを、それぞれが持つテレパシー能力によって捜し求め、ついに出会ったということであった。このふたりは十四歳の時に再会すると、その後念動力といった他の超能力にも目覚めることになり、十五の時辺境惑星からエフェメラへスカウトされて来たわけだった。
アンドレとセリーナもまた、十六歳の時に下位惑星系を超能力者のスカウトのため、あちこち動き回っていた諜報庁の職員に見出されたのであったが、彼らふたりはその後約十年働き、自分の死期をそれぞれ悟ってパルミラへやって来ることになったわけである。とはいえ、ゼンディラの目にはふたりとも健康そのものにしか見えず、それが惑星パルミラへやって来たことにより、延命効果があってのことなのかどうか……彼には最後までわからなかったと言える。
ロックとパオロとローレンは、まだ寿命が来ていると感じたわけではないが、それぞれ大きな任務を終えたところであり、ボーナスとしての休暇を暫し楽しみにパルミラへの滞在を許されていたわけであった。
ゼンディラはティファナからこうした子供たちのことを紹介されると、一時的に<闇石>のことはすっかり忘れてしまった。もちろん、朝起きた時にはその輝く黒石を見て(特段何も起きなかったようだ)と思ったし、その後二日しても三日しても特にこれという出来事は何もなかった。その間、ゼンディラは新しく紹介されたESP能力者たちとスキーや橇遊びをして楽しく過ごし……明日、彼らと一緒に第一研究所へ向かうという時には、(この<闇石>はあくまでグルーシン博士のものであって、それゆえにわたしにはなんの効果も及ぼさないのかもしれない)――何かそのように思って眠りに就いたわけであった。
だが、一週間に渡る<ナイト・フェスティバル>が終わるという日のこと……ゼンディラが祈りののち静かな寝息を立て、二時間半ほどした頃のことである。彼はハッと目を覚ますと、寝台に上体を起こしていた。何か、夢を見ていた気がするのに、その内容は思いだせない――そんな感覚を覚えていたが、ゼンディラは軽く首を傾げると再び枕に頭をつけようとした。この時、ゼンディラの頭の中には<闇石>のことなどまるでなかったわけだが、次の瞬間彼は一度点けたナイトスタンドの灯りを消そうとして、心臓が凍りつくほどの思いをすることになる。
ベッドの足許の暗闇に、間違いなく人の気配があった。だが、彼(闇の中に半ば沈んでいても、体の大きな人物が身を丸めているということだけはわかった)はまるで見られるのを恥じてでもいるように、そこに蹲ったままでいる。
「どうか、なさったのですか……?」
半ば寝ぼけていたせいもあってか、(どうやって部屋のロックを解除したのだろうか)といった疑問は、ゼンディラの頭には浮かばなかった。むしろ、ESP能力者のうちの誰か――と、最初は閃きつつ、そのうちの誰にも彼が似ていないことに思い至ったわけである。
けれど、彼が顔を上げた途端、ゼンディラはその場からすぐさま逃げ出したくなった。顔を上げたその当人とは……彼がかつて出身惑星を出る原因を作った、ダリオスティン=アースティルナーダ・メセスシュトゥックその人だったからである!
だが、半ば金縛りにあったようになりながらも、ゼンディラはダリオスティンが泣いているのに気づくと、不思議な話、彼に深い同情を覚えていたわけである。
「一体、どうなさったのですか、ダリオスティンさま……?」
「すまなかった、許してくれ……」
次の瞬間、ゼンディラは弾かれたように寝台を下り、ダリオスティンの前に跪いていた。
「何故、ダリオスティンさまほどの方が、わたしなどに許しを乞おうとされるのです?むしろ、許しを乞わなければならないのは、わたしのほうなのに……」
そしてこの瞬間、ゼンディラはまたしても魂の奥底からの震えを覚えはじめた。今目の前の人物のことを、自分はかつて――もっとも凄惨とも言える方法で殺した、その遺骸と成り果てた姿を脳裏にまざまざと思いだしたからである!
「いや、違う」
幽霊ではない、ということを証明しようとでもするように、ダリオスティンはゼンディラの夜着の袖をぎゅっと掴んだ。
「悪かったのは私なのだ。どうか、この通りだから許してくれ。あなたのように清らかな僧に邪な思いを抱き、実に恥かしい振るまいをしたと、今は心から後悔している。そして、そなたがそのような罪深い、淫欲のバスラ=ギリヤークに負けた私のために日々祈ってくれればこそ……私は地獄へ落ちるでもなく、アスラ神のおられる天上の国へ行けることになったのだ。だが、最後にゼンディラ、そなたのお陰で我が身が清められた魂となれたことを、あなたに知っておいてもらいたかった。本当に、ありがとう」
「ダリオスティンさま、決してそのような……ダリオスティンさまがその生涯において、素晴らしい人徳をお積みになっておられればこそ、天上の国の扉も開いたのでございましょう。わたしの祈りなど、本当に微々たるものでしかありません……」
ゼンディラは戸惑いつつも、目の前の彼に実在の重みのようなものを感じればこそ――生きている人間に対するように、そのように語っていた。だが、次の瞬間、彼はあることに気づいたのである。ナイトテーブルの上の<闇石>が『存在していない』という、そのことに……!!
そして、ゼンディラがそのことを悟り、ナイトテーブルの上に置いたはずの黒い石の塊を探し求め、それからもう一度ダリオスティンのほうに視線を戻した時のことである。石に足がないであろうことは間違いないが、先ほどまでダリオスティンがいたはずの場所に……<闇石>はただ、静かに輝き続けていたのであった。
一気に脱力したように、ゼンディラはその場にへなへなと腰を下ろした。ただの夢幻(ゆめまぼろし)――だが、なんと極めて現実味のある幻だったことだろう!
その後、ゼンディラはあたりを闇に包まれた状態にするのが恐ろしくてならず、部屋の照明をつけたまま、寝台に腰かけた。もし彼が本星のホログラムといった、現実の人物が今目の前にいるとしか思えぬ映像技術に接しておらず、さらには前情報として惑星パルミラの石がどのような幻を人に見せるかを知らなかったとしたら……今目の前で起きたことをすっかり真に受け、涙すら流していたに違いない。
(だが、断じてあれはダリオスティンさまなどではないのだ。あくまであれはこの<闇石>が見せた幻にしか過ぎぬ……だからもう自分は罪のくびきから解放されていいのだなどとは、断じて考えてはならない……)
それでいて、それと同時にゼンディラは、何故か不思議とこの<闇石>に対して感謝の念を持った。ダリオスティン=アースティルナーダ・メセスシュトゥックが口にした言葉こそは、ゼンディラが(もしそのことの確認が取れたとしたら、どんなにいいか……)と、心の奥底で願い続けてきたことだったからである。
また、それでいながら――カミル・グルーシンやマイケル・クローリーやシド所長といった人々が、石に対して『そのような素晴らしい幻を見せてくれてありがとう』と感謝するだけでなく、そのことに対し、若干ひねくれた解釈を加えずにいられないのが何故か、彼は初めてわかるような気がしていた。
何よりそれは、人の深層心理に触れる、(それだけは人目にさらしたくない)と感じたり、(そのような望みを持っているとは誰にも悟られたくない)と感じる心の情報なのだ。ゼンディラにしても<闇石>の見せてくれた幻に、それが幻とわかっていてさえなお感謝の念を持った。だが、それと同時にこの石に対して非常に恐れの気持ちを抱いたというのも事実であった。グルーシンにしても、アガサ・クリオールのことでは<闇石>に心から感謝しているであろう。それでいて、この彼の記憶から分析したのだろう幻が、あまりにも繊細な情報まで有しており、そのような形で奇妙な話、惑星パルミラの石本体としての<彼女>に、心の秘密と弱味をすっかり握られているような、時に複雑な思いを味わうこともあったという、これはそうしたことであったに違いない。
(なるほど……確かにわたしにしたところで、心のもっとも深いところに横たわるあまりにつらい記憶を、彼(彼女)はすでに、あるいは最初から知っていたのだと思っただけで――結果としてこの石に最大限の敬意を払うといった態度でしか、今後彼と接することは出来ないだろう……)
もっとも、ゼンディラはシド=ローエンのように『たかが石如きのくせに人間様の弱味を握りやがって』といったような苦々しい思いを味わっていたのではなく――石が何故すぐに話しかけて来なかったかの理由についても、彼なりに理解し、感謝の気持ちを持っていた。おそらく、彼(彼女)は彼なりにというのか、石なりにと言うべきかどうか、それはゼンディラにもわからなかったが、『気を遣った』ということなのだろうと思われたからである。
惑星パルミラの、そこに住む生物に対する気遣いは、ゼンディラには完璧としか思えぬほどのものであり、同時に彼はこの惑星へやって来た地球発祥型人類に対しても、同じような優しさと気遣いによって接したということなのではないだろうか……というのが、今のところの彼の仮説である。その人物のことを心の底から、あるいは魂の底からとも言えるくらい癒したいと望んだとすれば、そうした人に知られたくない事柄についても触れざるを得ないのは間違いのないところだろう。パルミラにしてみれば、おそらく善意でなしていることなのであろうが、まるでそこに彼が神でもあるかの如き全能性を感じ、何やら弱味を握られてでもいるような――今後、この石には生きている限り一生頭が上がらないだろうという、この部分に苦々しい葛藤を感じる人がいたとしても不思議でないというのは、ゼンディラにしても十分理解できることだったのである。
(おそらく、彼のような存在が下位惑星系の星のどこかに現れたとすれば、一夜のうちに<神>として崇められ、すぐにもその石信仰の宗教体系が整えられるのは、まずもって間違いないところではないだろうか……)
もし仮に、ゼンディラがあのまま惑星メトシェラに居続け、ダリオスティン=アースティルナーダ・メセスシュトゥック殺害の角で逮捕され、裁判によって有罪となり、極刑によりハゲワシたちに両目を抉られたが、その後もかろうじて生きていたところを助けられたとしよう。ゼンディラは素性を隠しつつ、野山に隠れてこっそり暮らし、そんな時、最初は<山の声>と感じたものを聴く。ところがそれはメトシェラの魂とも言うべき<岩石>であり、その時に先ほどのような夢幻を見せられていたとしたらどうだったろう。
(わたしはきっと、その幻を信じたいがあまり、ダリオスティンさまは今天上の国にいるのだと、そう信じて疑いもせず、神から罪許されたのだと思い、熱く信仰の涙を流していたことだろう……だが、ここパルミラの石は、遥か五千光年も離れたメトシェラのことなど、そもそも知ってすらいないのだ。だからあくまでそのことは、今後とも分けて考えなくてはならない……)
この翌日、ゼンディラは第一研究所へと向かう中型飛空艇に乗った時も、下船後も、ここパルミラへやって来て以来、初めて心が重く沈んでいた。彼には今、お気に入りの石を失ったラッコの気持ちがわかる気さえしたものである。おそらく、ここ惑星パルミラを満たす、例の多幸成分を吸っているうちに――時の経過とともに心は軽く、前向きになっていくに違いない。だが、ゼンディラは今、出来ることなら自分の体中からそのパルミラ的成分のすべてを排除し、暗く落ち込んだままでいたかった。無論、ダリオスティン=アースティルナーダ・メセスシュトゥックを殺害した直後と今とで、感じ続けている罪悪感がまったく同じかといえば、ゼンディラの中でそれは違った。ヨセフォスは『あんな奴、死んで当然だった』、『僕が君の立場でも、まったく同じことをしただろう』と言い、殺人の罪に打ちのめされている彼のことを慰めてくれたし、オーレリアは『この惑星を出たら、そのことはすっかり忘れてしまうのよ。ただ、悪い夢を見たのだと、そうお思いなさい』と言って、許しのキスさえ与えてくれた……ゼンディラは自分の犯した罪は別として、そのような罪人である自分に対し、そうと知っていてさえ優しい声をかけてくれる人間がいるということに――何より心を癒されたのだ。
裁判惑星コートⅡにおいても、ただ一度きり面会しただけとはいえ、ルキオス=ル・ドルーという弁護士が、殺人者である自分の罪を、まるで『大したことない罪だね。まあ、よくあるこった』という態度で、自分を助けようとしてくれたこと、ゼンディラはそのことを今も忘れるつもりはない。それから、ダニエル・フォスティンバーグ博士も、ゼンディラの罪について彼の殺人の告白を一から十まで聞いていながら、まったく態度の変わらなかった人物であり、さらには友人でもある……他に、本星エフェメラへ移動するため、アルテミスβという大型宇宙船に乗った時にも、そこの軍人たちはゼンディラが見る限り、みな人間として立派で善良な人々であるように見えた。エフェメラ到着後、アレクサンドラ=ハイデンやメイフィールド=アップルといった人物に対しても、ゼンディラは好感を持つのみならず、彼女たちの職業意識の高さに感服してもいた。それに、ESP機関の、自分の仲間といって差し支えないだろう子供たち!そうだ、とゼンディラは思う。子供こそはおそらく、この全宇宙において等しく愛され大切にされるべき存在であり、それは高位惑星と呼ばれる場所であろうと中位惑星でも下位惑星系のもっとも辺鄙な田舎惑星であろうとも、まったく同じなことであるはずだった。
ゼンディラは第一研究所へ移動中、つらつらとそんなことを考えていた。そして、ふとあることに思い至ったのである。ここ惑星パルミラのように、生息する生物たちがみな悪を犯すことのない――というより、悪というものが存在せず、もし仮にあったとしてもパルミラの魂である<石>が、すぐ排除してしまうような世界では……確かに、文明なるものは発達しないというより、発達する必要自体ないことであろう。だが、より磨き抜かれた人間としての善良性といったものは、さらなる高い次元の魂へと精錬されるために、苦悩や悲しみや痛みや……そうした、ただ楽しいだけでなく、喜ばしいだけでなく、美しいだけでもない感情や経験といったものが、どうしても必要不可欠になってくるのではないだろうか?
何よりこの瞬間、ゼンディラは初めて、惑星パルミラの空気を満たす多幸成分に対し、(ある意味で忌々しい)と気づけた自分に対し、驚いていたのである。<ナイト・フェスティバル>の間中、他の研究員たちは第一研究所から第五研究所のすべての人に至るまで――この普段吸っている多幸成分だけでは物足りないとばかり、パルミラ産の果実や魚介類を調理したものを貪り食べていたものである。その時の人々の浮かれ騒ぎようと来たら、理性を失った酔っ払い以上に始末に終えないところがあったろう。そして、今年も『一年でもっとも楽しい時期が通りすぎていった』ことを嘆き、激しく落胆しつつも、やはりきのう食べた食事の成分がまだ体内に残っているためだろう。人々は互いに喜びの抱擁やキスを交わしつつ、『愛しき<ナイト・フェスティバル>よ、また来年!』と合言葉のように言いあい、それぞれの飛空艇のタラップを上がっていったのである。
だが、ゼンディラは第一研究所からラティエルやティファナといった超能力者たちが到着して以来、そうした食事のほうはやめにしておいた。何より、超能力の目覚めにも関係するということであったし、初日や次の日だけでも、研究員のご乱心ぶりにはゼンディラ自身心乱されるものがあったが、それは三日目以降、日を追うごとに理性を失った動物的振るまいを伴っているようにも見え――彼は自分も同じようになっていくのが恐ろしかったというのがある。
ESP能力者である子供たちは、力に強弱の違いこそあったにせよ、その全員がテレパシストでもあったため、飛空艇で移動中、ゼンディラにはあまり話しかけてこなかった。何より、この時ゼンディラは心の底から落ち込んだままでいたい気分であり、人間には時として、ただ嬉しいとか喜ばしいとか楽しいという以上に、人間という存在の尊厳を支えるものとして、今のような自分の暗い精神状態も必要なのだと、彼はそのように認識し始めていたのである。
何より、ゼンディラは自分が心の奥底で(何か重要なことに気づきはじめている)気配のようものを感じ、その心の声に耳を澄ませたくもあったのだ。そう――彼は僧侶として、今までずっと『何故人間の人生には苦しみや悲しみやつらさ、痛みといったものがあるのだろうか』と、物心ついた時から考え続けてきた。アストラス連山の山の麓にある村々は、貧しい家庭ばかりが軒を連ねていたし、彼らの考える幸福とは、その段階では非常に単純なものであった。すなわち、衣食住に関して、家族の全員が何ひとつとして不自由しないこと……彼らがアスラ神に毎夜願うことといえば、そんなところであったろう。そのためにはまず、家族の全員が健康であり、天候に恵まれてその年の収穫物を無事確保でき、冬を乗り越えられるということ――ゼンディラは故郷のメトシェラにいた頃は、メトシェラ中の人々がそのような幸福を得られているようにと、そのことばかり願っていた気がする。だが、故郷の星を出てみると、そこにもまた多種多様な民族が各惑星に大勢住んでおり、ゼンディラの祈りの意識は一気に拡大された。惑星メトシェラに住む人々だけでなく、この全宇宙中の生きとし生ける者が幸福であるようにと……だが、それはメトシェラ産のせんべいのように薄っぺらな祈りに過ぎないように、時として彼にも感じられることではあった。あるいは、具の入ってない菓子を食べて、人ががっかりするような祈りを自分は神に捧げているに過ぎないのではないか――そのように思われ、ゼンディラは悩んだこともある。だが、そんな時にもゼンディラを支えたのは、人々の善良さであった。もちろん彼にしても、人々が僧である自分に対し、ある一面、言ってみれば良いほうの側面だけを見せていることはある程度わかっていた(そして自分にせよ、そんなことは同じなのである)。だが、そうした善良性、人が悪に染まったり墜ちたりするよりも、善良でありたいと指向する願いこそ……ゼンディラにとっては、どんな人間のことをも愛の眼差しによって理解したいと感じる根拠となることだったのである。
本星エフェメラの人々などはまさしく、メトシェラのような辺境惑星とは対極にある住民であり、幸福になるのにより複雑で難しい問題を抱えている人々であったろう。だが、ゼンディラにとっては、本星の人々が彼の母星の住民が考え及びもしないほど科学的にもっとも進んだ段階にあるにも関わらず――幸福度のほうがさして大きいように見えないことに、むしろ驚きを禁じえなかったものだ。指先ひとつで色々なことが済んでしまう、最先端のテクノロジーに囲まれていながら、そのテクノロジーを自由自在に操っているというよりも、テクノロジーに操られた気の毒な人々……ゼンディラの目にはそのように映ってもいたわけである。そして、衣食住についてはすでに十分満たされているこれらの人々の幸福のためにも、ゼンディラは祈りを捧げていた。
ある意味、惑星パルミラは、ゼンディラの祈りを必要としていない惑星であったに違いない。何故なら、彼が全宇宙の神になど祈らなくても、惑星神とも言える、この星に固有の神にも等しい力を持つ存在が、この惑星に足の裏をつけている存在すべての心身状態を読み取り、癒してくれるのだからである。
(だが、何故だ?この状態をこそ、すべての宗教が天国やなんの苦しみも悩みもないという死後の世界に求める安楽状態であるはずなのに、何故わたしはこの状態を『正しくない』、『間違っている』といったように感じたりするのだ?)
そして、ゼンディラが今感じている疑問を、カミル・グルーシン博士やシド所長、シャトナー博士といった人々がどう考えるだろうか……そう思っていた時、ふと隣にティファナが座り、話しかけてきたのであった。
「ゼンディラ、もしかして何かあったの?第一研究所から第五研究所の人に至るまで、普段は真面目で研究熱心な人たちがパルミラの禁断の果実に心奪われる姿を見て、その醜悪さに清らかなあなたが心を濁らされたというわけでもないんでしょう?」
「いえ、まさかそんな……それに、みなさんきっと毎日研究研究ばかりで疲れていて、<ナイト・フェスティバル>というのは一年に一度だけそうした鬱憤を晴らせる機会らしいと思えば――ガス抜きとして非常に大切なことだと思いますよ。それに、そんなふうに人に対してあれこれ言えるほど、わたしは心が清らかというわけでもありませんしね」
(いいえ、あなたは心清らかよ)とは、ティファナもあえて口にしなかった。ESP能力者の子供たちはみな、『今ゼンディラは話しかけられたくないらしい』と感じていたため、彼をひとりにしておいた。けれど彼女は少しくらいゼンディラが悩みを話してくれるかもしれないと、そのように期待したわけである。
「じゃあ、他に何があったの?あなた、きのうの夕食後くらいまでは……みんなとなんやかや話したりゲームしたりして、楽しそうだったじゃないの」
「ええ……その、この惑星へやって来て、みなさんから石に話しかけられたかどうかと聞かれるたび、わたしはそのことを自分で思っていた以上に楽しみにしていたようです。ところが、実際に初めてそのようなことが起きてみると、それはわたしが想像していたことではなかった――いえ、想像を超えることだったのです」
「でも彼は、いつでも人の心を癒してくれるような、そんな幻視を見せてくれるはずよ。あなたの場合、何が問題だったの?」
ティファナは普段、ここまで一気に踏み込むような聞き方をしたりはしない。けれど、彼女はゼンディラのすべてを知りたかった。何故ならティファナは、彼こそが自分にとっての永遠の伴侶であると信じていたからである。
「その……わたしの心の奥深くに眠る、一番見たくない過去に関することだったのです、それは。もちろん、石が化けた人物は、わたしがもっとも欲しいだろう言葉を言って、赦しを求めてさえくれました。けれどわたしは今――それが何か間違ったことであると、直感的にそう感じて悩んでいるのです」
「なるほどね。ここ、惑星パルミラ自体、ラティエルに言わせれば歪んだ惑星ということらしいわよ。すべてはここ惑星パルミラの魂の自己満足を越えた自己満足に過ぎないというのかしらね」
「自己満足を越えた自己満足……?」
「つまりね……これは、わたしの考えだした理論じゃないの。わたしの性根の歪んだところのある兄が言ってたことなんだけれど、あのパルミラの魂と目される岩石は、自分の惑星にいる者が苦しんだり悩んだりするのを見るのが嫌なのよ。だから、心でも体でも、傷んでいるものがいると即座に石として話しかけるなりなんなりして、相手にとって『これが最善の状態であろう』と思われるものを与えようとする。でも、ラティエルに言わせるとそれは石の余計なお節介であって、子供が転びそうなので、先に防御策やら予防策やらを張り巡らせていたら、その子は将来ろくな人間として育たないだろうという――そのあたりの悩みや苦しみや手間を石自身が経験したり、ただ黙って見守るのがつらいがゆえに、あいつは自分の心の満足と楽を求める心のゆえに、この惑星のすべてのものをそんな形で支配しようとしてるんだって……まあ、何かそうしたことになるらしいわよ」
「なるほど。あなたの双子のお兄さんは流石ですね」
(伊達に第一研究所の所長を長くやっているわけではないのですね)とまでは、ゼンディラも口に出して言いはしなかった。だが、自分の名前がでたことでこちらに興味を引かれたラティエル本人が、今度はゼンディラの左隣に座る。
「なんだって?誰が流石だって?」
「石野郎に対する兄さんの見解が流石だっていう話。ゼンディラはね、石に話しかけられたことでむしろ悩んでたのよ。あの石はこの惑星において神にも等しい存在でしょ?だけど、ラティエルはあの石のやり方については感心しないって言ってたじゃない」
「だって、そりゃそうじゃないか。あのビッグリスやジャンボうさぎの哀れな姿を見てみろよ。あいつらは図体だけでかくて、脳の知能指数は小さい奴らと大して変わりなんかありゃしないんだぞ。まあ、それがなんでかってのは、シドの奴とも話したことがあるけど……僕はね、ようするにあの石の奴は生物が進化しすぎると自分の手に負えなくなってくるとわかってやがるんだと思うな。僕は無神論者だけどさ、そうなるとどうなる?これは第一研究所の研究員の奴らが話してることだが、地球における我々人類のご先祖さまが、そもそもトガリネズミに似た小さな生き物だったみたいに……ここ惑星パルミラでだって、そんな小さなネズミみたいな奴が、最終的にサルにまでなって、人間にまで進化できる可能性ってのはちゃんとあるんだ。だが、そのためには生物が弱肉強食の世界で、生きるか死ぬかの強いストレスとサバイヴァルにさらされ続けなきゃならない。そうなると、石の奴の出番はぐっと少なくなって、あいつは本来の神がそうであるように沈黙を守って惑星の生物たちの進化と成長を見守らざるをえないという立場に追いやられるだろう。いや、待ってくれ。僕は何もね、あの石野郎のやり方や統治方法が間違ってるなんて言って非難してるわけじゃない。そんな進化の過程を辿った惑星なんざ、他に数え切れないほどたくさんあることを思えば――ま、あいつはあいつで、ここ惑星パルミラはパルミラでいいのさ。ただ、もしこの宇宙に神なんてものがいたと仮定した場合……その神の奴はきっと、色んなバリエーションの進化のひとつとして、あの石野郎に人間の意識にも等しいものを与えたんじゃないかって、そんな気がするんだ」
「それは面白い考え方ですね。なるほど……」
ゼンディラにしても一応、エフェメラのESP機関の子供たちが通う学校の授業にて、そのあたりの宇宙や地球の歴史、人類の進化の過程といったことは一通り学んではいた。だが、彼が最初に感じたのは、『人間がサルから進化した』ということに対する戸惑いであり、そもそもこの宇宙も今は亡き地球にしても――ビッグバン以降、すべては偶然の連続によって今に至っているという、いわゆる<標準理論>と呼ばれるものの教えについても、直感的に(そうは思えない)と感じていたわけである。
だが、この世界に何故苦しみや悩みや悲惨や悪が存在するのか……そのことを考えるのに、確かに惑星パルミラという存在は人間に深い洞察を与えるものだと、ゼンディラはこの時ラティエルの話を聞きながら思っていた。
このあと、結局のところ他の少年・少女たちもゼンディラのまわりに集まってきたため、ゼンディラは一旦このことは自分の心の中で棚上げすることにした。彼らが自分が元気のないのを見て心配していたらしいとわかり、この時は気分を切り替え、あとからこの課題についてはゆっくり取り組むことにしようと思ったわけである。
そして、ゼンディラはこの惑星中でもっとも規模として大きく、最先端の技術が駆使されているだろう第一研究所の科学研究施設の威容に驚きつつ、その居住区に案内された日のこと……昼間棚上げにした(もっともこの惑星にはいつでも昼しかないが)問題を、自分に与えられた部屋のほうで夜眠る前、じっくり考えることにしたのだった。
>>続く。