(※萩尾望都先生の文庫本『アメリカン・パイ』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
それでは、萩尾望都先生の漫画『アメリカン・パイ』の文庫版に収録された他の物語について感想を、と思いますm(_ _)m
・『アロイス』
実をいうとわたし、収録されてる9編のお話のうち、一番面白いと思ったのが、この『アロイス』でした
簡単にいうと、ルカスとアロイスという少年の二重人格のお話で、たぶん今まったく同じお話を描いたとしたら……もしかしたら、「よくある話☆」といったように片付けられてしまうかもしれません。
でも、萩尾先生がこのお話を描いたのは1975年のことで、他の萩尾先生のお話もそうだと思うのですが――やっぱり、そうした物語に注目するのがすごく早いのではないか、と思うのです
わたし自身が「二重人格」というか、「多重人格」ということに一番驚いたのが、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』とか、『ビリー・ミリガンと23の棺』とか、『5番目のサリー』といった作品を読んでだったと思います。この時以降、「二重人格や多重人格といったことが起きるのは、幼い頃に虐待を受けたショックによる」ということが、割と一般に認識されるようになったと思うんですよね。
ルカスがもうひとりの自分……双子の兄弟のアロイスに話しかけてるのは、ほんの赤ん坊の頃にアロイスが死んでしまったという話を母親から聞き、そのことを悲しむ母の心を繊細で敏感な心によって感じ取ったからではないか――と、そのように思われるわけですが、読者的にはやっぱり、病気で死にゆかんとするミケールに、アロイスが取り憑いて体を乗っ取ろうとする描写などから、「確かに、ルカスの体の中にもうひとつの人格としてアロイスがいるというよりも、アロイスはもうひとつの魂を持つ存在なのだ」といったように感じられるわけです。
わたし、『マージナル』を読んでから『アロイス』を読んでるせいか、『アロイス』の中でも語られている、「人の誕生の不思議」といったことの描写にも、すごく引き込まれるものを感じたんですよね。作中に元はお医者さんで、今は作家をしているハーゲン・ハインツ先生という方が出てくるのですが、この先生が一卵性と二卵性の双子の違いについて説明しているところとか。
>>「ルカスとアロイスの場合は?」
「もちろん、もともと一つの受精卵だったんだから、生まれてくるのはたいそうよく似てるし、かならず同性だね」
――もともと一つの受精卵だったものがわかれて……魂は?魂はどこから入ってくるのだろう。
そんな小さな単細胞にも、魂なんてあったんだろうか。
太古の海で分裂したアメーバにも魂はあったんだろうか。
一つの受精卵に一つの魂がきたのだろうか。
そしてそれも分裂の時にわかれたのだろうか。
ぼくとアロイスに、もともとぼくたちが一つのものだったように、魂も一つだったのだろうか。
ルカスとアロイスの場合は一卵性の双子で、ルカスはこのアロイスというもうひとりの自分と話したりしているわけですが――やっぱり、同じ顔をしているとはいえ別の人間ですから、「ルカスのほうでして欲しくない行動」、「言って欲しくないこと」をアロイスがルカスの体を使って行なったり言ったりすることがある……そこでルカスはアロイスに対して怒ったりするわけですが、こうした場面に人がもし出会ったとすれば、確かに「ルカスは頭がおかしいのではないか」と見えるに違いありません。
普段、同じ寄宿学校で過ごしている友達などは、ルカスのこの〃一人遊び〃については、そう深刻なものとは受けとめておらず、優しい性格のルカスは友人たちにも概ね好かれている様子です。けれど、ルカスとアロイスが今14歳であることを思うと――今後はお互い自己主張が激しくなっていき、難しい局面を迎えるだろうことは容易に想像できます。
ルカスは、同じ寄宿学校の仲のいい生徒、ベンやライダーと夏休みを過ごすのに家のほうへ帰ってきたわけですが、そこには従姉妹のリースベルトと、彼女の弟のミケールが夏休みを過ごしに来ていました。このリースベルトのことがルカスもアロイスも好きだったことから……ベンやライダーがリースベルトと仲良くしているのに嫉妬したり、どちらが彼女に告白するか、キスするか等々――肉体を持たない、心・精神・魂だけの存在のアロイスは、鏡の中でルカスに対して不満をぶちまけます。
>>「そうとも。ぼくはきみとはちがうよ。ぼくがたとえリースベルトを好きでも、指一本ふれることはできないのだからね」
「アロイス!」
「結局、ぼくはきみの影でしかないんだ。ただの影!うすっぺらの。ぼくはきみをとおして、きみが接する世界を知り、ぼくの知識をふやし、意識を育む。ぼくはきみよりもの知りで、頭がいい。十四年間――きみの中で考えることばかりしてきたんだからね。だが、だれがぼくの存在を知る?フェローネ夫人か?すてきなリースベルトか?きみか?きみだってぼくが邪魔になればいつだって閉じこめられる。意識の下に!」
「アロイス!」
この、おそらく科学的な説明としては二重人格ということなのだろうルカスの中のアロイスは――とにかく、自分のための「身体」、ボディを欲しがっています(同じ意味やがな☆笑)。
そこで、もともと病弱なミケールが死にかかりそうになった時、アロイスはミケールの精神体というのか、魂を押しのけて、彼の体を乗っ取ろうとします。この乗っ取りはミケールの霊魂(?)の抵抗に合いうまくいきませんでしたが、この日の夜、結局ミケールは死んでしまいます。
ルカスはアロイスがミケールを殺そうとしたと察し、このことに強いショックを受けます。そして、鏡の中のアロイスに銃口を向けて彼を――もうひとりの自分を殺そうとします。けれどもその瞬間、心臓麻痺によって死んだのは、他ならぬルカスだったのでした。
ルカスは死んだものと見なされ、彼の葬儀が執り行われますが、なんと!彼の体はその最中に教会で復活を果たします。もともと繊細で優しい性格だったルカスは死に、そのルカスの体をアロイスが乗っ取ったと思われるわけですが……もしかしたらルカスはアロイスの意識の下で眠っているという、ただそれだけなのかもしれません。
お話の最初から、ルカスとアロイスの育ったドイツの田舎には、ねむの木の森があると描写されているわけですが、もしかしたらルカスはこのねむの森の中、精神の体を胎児のように折り曲げて眠っているのかも――なんていうことが、作中にそうした描写はなくとも、なんとなく連想されてきたり。
教会で自身の葬儀中目を覚まし、息を吹き返したルカスですが、読者にははっきり彼がアロイスであるとわかっており、ハインツ先生などは、アロイスはルカスに銃で撃たれて死んだと思っているようですが、彼の性格は表面上はともかく、明らかに変わってしまっています。
夏休みの間、お互いを好きあっていると確認しあったルカスとリースベルトですが、彼女が好きなのは優しくて繊細なほうのルカスでしょう。頭脳明晰ではあるけれど、性格にどこか冷たさを感じさせるアロイスを、リースは果たして今後も愛してゆけるのでしょうか。
物語は最後、夏休みが終わって寄宿学校へ戻ったアロイスが、級友に「ルカって呼ぶのやめて、アローって呼んでくんない?そっちの名のほうが好きなんだ」、「べつにいいよ!どっちでもすぐ気をかえたりしなけりゃ。集合のチャイムだ。いこうぜ!アロー!」、「…ん!」――というところで終わります。
読者的には内容の面白さに十分満足して次のページをめくる形となりますが、昔、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』が日本でも非常に話題となった頃……特集番組をテレビで見たことがありました。そしたら、こうした多重人格者の方の人格の中には――「外から入ってきて、彼/彼女の中に住みついた」みたいに主張する人格もいるということなんですよね。
いえ、そうしたことがほんとか嘘か、そうしたことはもちろんわかりませんし、科学的証明というのも困難を極めるでしょう。ただ、萩尾先生が作中、ハインツ先生の心の声として、
>>意識下においては、存在は多様となります。深層をさぐるうち、これは他人かと思えるほどの自己を発見して、ぎょっとなります。
しかし、それも本人であることにかわりません。
人は実に多様な個こを自分の中に持っております。
しばしそれは夢にあらわれます。
と語っているように……「わたし」を「わたし」たらしめるこの意識なるものが一体何か、それは何故発生して存在するのか、その不思議の一旦を語る物語として、『アロイス』というお話は本当に秀逸な物語と思うのです
・『ビアンカ』
描かれたのは、1970年のことで、萩尾先生の漫画家のキャリアとしては、このお話も極初期に描かれたものと思います
でも自分的には、このお話もとても完成度の高い作品と思いました♪
わたし的な漫画の分類としては、文庫の『10月の少女たち』に収録された『みつくにの娘』にも、テーマ性として似通ったものを感じます。
『みつくにの娘』は、山の神の花嫁になった少女のお話と思うのですが、それでいくと『ビアンカ』は死んで森の精の花嫁になったということではないでしょうか。
あらすじその他、色々書いても全然いいのですが、残り4編お話が残ってますので、少し急いだほうがいいやもしれませぬ(^^;)
・『ジェニファの恋のお相手は』
この物語に出てくる死神さんは、文庫の『11月のギムナジウム』に収録された、『もうひとつの恋』に出てくる死神さんと同一人物ですね(笑)。
『もうひとつの恋』のほうは、双子の姉弟で意識が入れ替わる様子がコミカルに描かれていましたが、こちらは真面目・勉強一本やりのジェニファと、一緒に暮らしてるおばあちゃんの意識が入れ替わってしまうというお話(このおばあちゃんのアリス・バンクルさんはオールドミスで「恋人のひとりもいなかった」と語っていることから、ジェニファとは祖母・孫という関係ではなく、親戚ということなのだろうと思われます)。
よく考えてみると、『君の名は』に通じるようなテーマ、あるいは『ハウルの動く城』にも一部通じるような設定であるような気がして、ここでも萩尾先生の物語作りの斬新な先取り性を読みとることが出来ると思います♪
頭はいいけれど、眼鏡をかけていて地味な容貌のジェニファをおばあちゃんは心配しています。そこへ、「本当は来年死ぬはずが、手ちがいで死期が早まった」ことの特典(?)を差し上げましょうと、死神がやって来ます。
アリス・バンクルおばあちゃんが死ぬのは13日後。死神は「世界一周旅行などいかがです?」と勧めますが、おばあちゃんの望みは若い17歳のジェニファと13日間体が入れ替わることでした
突然おばあちゃんになってしまったジェニファは気の毒かもしれませんが、若い娘に戻れたおばあちゃんは意気軒昂(笑)。おばあちゃんは眼鏡も外し、可愛らしいワンピースに身を包み、いざ学校へと出発!!
今まで勉強一本やりの真面目なガリ勉として知られたジェニファに、周囲は驚くとともに、当然男子たちからはモッテモテの茂手もて子(茂手もて夫という、@ドラえもんに出てくるジャイ子ちゃんのボーイフレンドがいるのです・笑)。
こうして13日間、17歳のジェニファの体を借り、若さと青春を満喫するアリス・バンクルおばあちゃん。60年間もてなかったの嘘のように、3ダースばかりものボーイフレンドにもてにもて、プレイボーイとして知られるロンリーくんとのデートも十分楽しみ……それだけでなく、勉強ばかりのジェニファに恋の楽しさ、青春の素晴らしさについても教え、こうしてミス・アリスバンクルは旅立っていったのでした。。。
ガリ勉時代のジェニファには思いも寄らないことでしたが、アリスおばあちゃんがデートしていたプレイボーイのロンリーくんは、本当はとても頭のいい、素敵な男の子だったのです
ジェニファに涙とともに見送られたアリスおばあちゃんでしたが、彼女にしてみれば人生の悔いを解消することが出来、ジェニファにも素敵なボーイフレンドを残せて一石二鳥な出来ごとだった……という、そうしたことだったのでしょうか(^^;)
・『ベルとマイクのお話』
こちらも、1971年のお話なので、たぶん大泉時代の作品でしょうか
掲載誌のほうが『なかよし』で、お互いに好きあっている女の子と男の子の、ちょっとした心のゆき違いを描いた恋物語といったところです
舞台は冬、スケート場……というよりたぶん、自然に凍った湖とかっぽい気もしますが、それはさておき、そこで出会うベルとマイク。
スケートで滑る時の躍動感が表現として素晴らしいと思います♪
スケートを滑るのがうまいベルのことを、>>「まるで金色のカナリアだ」(ベルはブロンド☆)と思い、マイクは彼女にアピールするのでしたが、ベルのほうでは「男の子なんてよくわかんない」と、周囲の女の子たちに洩らします。
ちなみにベルはもう次期13になる12歳の女の子。
この次の日、再び話しかけてくれたマイクと、ベルは親しくなります。一緒に楽しくスケートを滑ったりして、やがて距離の縮まってゆくふたり。。。
学校から帰ってきては、毎日すぐスケート場へ向かうベル。こうしてベルとマイクはさらに心の距離も縮まって、身体の距離も縮まって……マイクはベルにキスしようとしますが、びっくりして走り去ってしまうベル。
調子に乗ってベルを怒らせたと後悔するマイクでしたが、実はマイクがキスしようとしてくれたことが嬉しいベル……でも、厳しいベルのお母さんは>>「相手なんかだれでもいいのよ。からかわれてるのよ!」と、娘にお説教します。
「からかわれているだけ?」と、戸惑うベルですが、こののち、仲直りさせようとする友達の作戦が空回りして、ますます誤解されてしまうマイク(笑)。
ここに、ベルのお隣のジョー兄さんまで絡んで、マイクは落ち込みますが……でもまた再び、スケート片手に出かけてゆくマイク。「スケートを滑りたいだけ」と、自分に言い聞かせながら。
でも、ベルもこの時、スケート靴を片手に、すでに心に決めていたのでした。マイクに自分から話しかけて、すなおに好きだって言おう、と……。
まあ、簡単にいえばようするに、ハッピーエンドということですね
・『雪の子』
文庫本『アメリカン・パイ』は、『アロイス』の他にわたし的に大きな収穫だったのが、この『雪の子』です
理由は言うまでもありませんよね??
『雪の子』は、『一度きりの大泉の話』に言及があって――お母さんと喧嘩してガラスまで割ったらしい増山さんを慰めようと思い、萩尾先生が描いたお話だということだからです
でも結局、最後主人公のエミールが少年ではなく少女とわかることから……増山さんから「違う!(少年愛じゃない)」と判子を押されて終わってしまったらしく
以降、萩尾先生は「少年愛ってわからない~!!」と、増山さんの好みにあうものを描くのは自分には無理と、諦めてしまわれたとか。
ええと、でも自分的には物語として普通(?)にすごく面白かったです!!
まず、物語の表紙に、『彼自身の世界に生きたエミール・ブルクハルトの変身した少年時代……その死まで』とあるだけでも、「どんなお話なんだろう?」と読者として興味を惹かれます。
少年、ブロージー・セールマンは、親戚のブルクハルト家へ向かう途中、可愛らしい女の子と出会います。でも、辿り着いたブルクハルト家では、「女の子なんていないよ」との返事……でも、そう答えたのが他でもない、この女の子と瓜二つの男の子だったのです!!
なるべく簡単に物語のほうをまとめるとすると、ブルクハルト家は物凄いお金持ちなのですねそこで、その跡取りとされるエミールの元には、ブロージーのみならず、彼の相手をするため親戚の男の子たちが何人も集められておりました。
ところが、彼らから「気取り屋のやなやつ」と評されているエミールは、おじいさんがせっかく彼の遊び相手にと集めた親戚の少年たちとは一切遊びません。エミールは心臓が悪いらしく、>>「心臓発作でも起こして死んじまえばいい」とまで言われている始末。
タイトルの『雪の子』の由来は、エミールが「雪の降る日に生まれてきた子」であるということで、彼は言います。>>「ねえ、ブロージー、ぼくは雪の日に地上へ生まれてきたんだ」、「だから雪が好きさ。雪はぼくにとって神聖な死の使者だ。死ぬためには雪がいるね。つもって降ってなけりゃならない」、「ぼくは自分が一番美しい時に死ぬつもりだ。来年じゃ遅すぎる。きっと病気がぼくをおそってやつれてみにくくなるだろう。そんなのは好きじゃない」、「そう、たぶん早朝だね。雪が降って世界が真冬の死におおわれて白い……ナイフで動脈を切るんだ。雪に散ってきっときれいだろう」と。
このあと、エミールは他の親戚の男の子たちと言い合いになり、興奮のあまり気を失ってしまいますが、その後、ブロージーは彼のある秘密を知ります。エミールが女の子の格好をしているのを見、ブルクハルト家へやって来た最初の日、霧の中で出会った少女はやはり実在していたのだと知るのです。
本家の財産を継げるのはおじいさんと血の繋がりのある男の子だけ……そこで、エミール・ブルクハルトは彼の両親が死んだ時、「男の子なら引き取る」といったおじいさんの言葉によって、男の子であるよう教育を受けてきた。このことは、医師と執事、クラリサというメイドしか知らないと言います(おそらく、エミールが財産を受け継いだあと、なんらかの分配に与る予定なのではないでしょうか。たぶん)。
けれど、エミールは今13歳でお年ごろ……流石に今後はなかなかおじいさんを騙し続けることは難しいでしょう。気難しいじじいが死ぬのが先か、それとも心臓が悪く体の弱いエミールが発作を起こして死ぬのが先か――でも彼/彼女はすでに自分がどんなふうに死ぬかを心の中で決めているのでした。
最後のコマは雪の降りしきる森(林)の情景ですが、エミールが死んだかどうかまでは特定できません。けれど、>>「雪の日がいい。降りつづいてつもっている。たぶん早朝で世界が白い」、「ぼくの選んだ日」、「ぼく自身のために、ぼくが一番美しい時に、病気がむしばむまえに」……エミールの言っていた条件をすべて満たしているように思われる早朝、ブロージーは慌てて外へ、彼を探しにでます。
最初の表紙に『その死まで』と書かれているわけですから、エミールはおそらく死んだのではないかと思われるのですが――自分的には実は彼は死んでおらず、むしろ探しにでたブロージーこそが雪の中で死にそうになり……「ぼくのかわりに死ぬところだった君に免じて、もう少し生きてみるよ」ということにでもなってくれてたらな、なんて思います(いえ、お話の展開として無理がありすぎなのは承知の上です^^;)。
それで、財産家のおじいさんがとうとうおっ死んでしまい、エミールは莫大な財産を受け継ぐことになり、エミールはその後転地療養して健康な体を手に入れ――ブロージーと結ばれ、幸せになりましたとさ、という
これもまた、なんとも増山さんの気に入らなそうなお話の展開ですが、なんでも増山さんは>>「彼女の好みは1950年代から60年代の古きヨーロッパの名作映画の数々に秘められた、耽美と退廃と甘美に彩られたストーリーと構図。これに少年愛が加わることで切なく崇高なまでの厚みが加わる」(『少年の名はジルベール』より)……といった傾向にあり、萩尾先生もおそらく当時、そうした増山さんの「好み」といったものを考慮に入れて、この『雪の子』というお話をお描きになったのではないでしょうか。
で、ここからは例によってわたしの妄想ですが――増山法恵さんの書いた『永遠の少年』の最後って、雪の場面で終わるんですよ。それで、増山さんご自身にそうした意図があったとはまったく思わないとはいえ……物語とはまったく別のところでわたし自身はとても胸が痛くなりました
何故かというと、萩尾先生は竹宮先生の漫画を別離以後、一切読んでないということでしたから、これは本当にただの偶然なのですが、『風と木の詩』と『残酷な神が支配する』には、すごく似た感じの雪のシーンがあるのです(ただ、もう一回ちゃんと確認しなきゃなんないのに確認してないので、よく調べたら違った☆という可能性もありますm(_ _)m)。
なので、このシーンのことはよく覚えていて、『お互い、まったく関わらないようになってからも、作品中ではこうしたデ・ジャヴが起きるのだなあ』と、その時も悲しく思っておりました。
そして、増山法恵さんの『永遠の少年』――この、言ってみればある部分『風と木の詩』と『トーマの心臓』の合いの子(?)的要素がありつつ、物語としては高いオリジナリティーに溢れる小説が最後、雪のシーンで終わるのを読み、胸が痛くなったわけです。
どう言ったらいいのかわかりませんが、雪のように真っ白な善意に溢れた三人の若い女性がその昔大泉にいました。でも、この仲の良かった女性たちはその後、うまくいかなくなってしまいました。最初は雪のように真っ白な善意と友情だけがあったはずなのに、どうしてでしょう……という、人間心理と言いますか、まあそういうことですよね(^^;)
そもそも、十九、二十歳を過ぎて「雪のように真っ白な善意の人間なぞおらんがな☆」という問題はさておくとしても、人間関係というのはどうしてもそうした部分が避けがたいものだ……といったような意味です。。。
・『ヴィオリータ』
正直わたし、この短編好きですけど、どういう意味があるのかとか、そういうことがまったく全然わかりません。。。
ヨハンというおじいさんが椅子で眠っているシーンからはじまり、そして同じ椅子で眠っているところへ、ヴィオリータという孫らしき女の子がやってくるところで作品のほうは終わります(というか、永遠の少女性・永遠の女性なるものに導かれ、ヨハンおじいさんの魂は天へ昇っていったのではないでしょうか)。
そして、このヨハンというおじいさんは夢の中で、とにかくひたすら『ヴィオリータ』という女性を追い続けています。その『ヴィオリータ』という女性は、少女であることもあれば、十分成長した女性であることもあり……何人もの色々な『ヴィオリータ』を若い頃のヨハンは追いかけますが、結局のところ彼女たちを捕まえることが出来ません。
ようするに、永遠の少女性を描いた作品ということくらいはわかるのですが、ダンテにとってのベアトリーチェ、あるいは悪女という意味ではない運命の女(ファム・ファタール)、永遠に女性的なるもの(グレートヒェン)ということなのでしょう。
また、これははっきり言って余計なことではありますが、ナボコフの『ロリータ』の有名な冒頭、この「ロリータ」の部分をヴィオリータに変換した場合。。。
>>ヴィオリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ヴィ・オリー・タ。舌の先が口蓋で三度ステップを踏み、三ステップ目で歯をタンと叩く。ヴィ。オリー。タ。
となり、「ヨハン、ただのやべえじじいじゃねえか!」という読みがあってもいいのかな……と思わなくもなかったり(せっかくの素晴らしい短編を台無しにすな!という話です。すみませんww殴☆)
――ええとまあ、『アメリカン・パイ』に収録された作品は以上となります。自分的に内容モリもりだくさんで、お腹いっぱい♪といったくらい満足しました
さて、次はどの萩尾望都作品を読もうかなっと
それではまた~!!