神様の器になる、器をみがくということについて申し上げますと、人間
というものの生かされている本来の目的が、神様の光を、この肉の身の
ままに素直に受けてかがやかせるということなのであります。
それは、その人が意識するしないにかかわらず、またすべての
境遇によらず、この世の年齢によらず、すでに一人一人は、神様の愛を、
光を、地上に結ぶ役割を果たしているのであります。また、果たしつつ
あるのであります。
私達の肉体はそれを知らなくても、私達の霊身は、それを知っている
のであります。
そこで、神様の器になるということは、どういうことか
ということを、もう少しくわしく申しますと、それは、神様に素直になる
ということであります。
人間にはさまざまなおもいがある、このおもいを、想念を、やさしさで
いっぱいにする、光でいっぱいにするということであります。
何も、特別に、神様神様とおもわなくていい、ひたすらに求める
というのと、自然に求めるというのとはちがっている。
神様からきている生命、預けっ放しの、お任せのいのちなのですから、
ずーっと神様のところへ放っておいても心はむかってゆくものなので
あります。
イヤダといっても、守護霊さん守護神さんが連れてゆくものなので
あります。
さて、神様というのは、何かと申しますと、それは、無限絶対の愛
であります。ですから、神様から分かれてきた分生命(わけいのち)、
分霊(わけみたま)である人間は、愛を植えられてつくられている。
愛とやさしさ、そして、この二つのものを育ててゆくつよさ、
これこそが、人間のいのちを生かしている大元なのであります。
神様は、人間をやさしくつくった。ですから、何もその人が、
思い悩まなくても、やさしさを持って人に接する時、そこに、神の愛が、
光が、ともにあって、放射されてゆくのであります。
神様の器になるということは、ですから、本人が意識するしないに
かかわらず、自らのなかにやさしさを盛るということが第一歩なので
あります。
ところで、人間は、神様の愛によってつくられた存在でありますから、
心をしずめ、心をすませて参りますと、生きているということの不思議、
生命の不思議について思いをめぐらさずにはいられなくなるのである。
どんな人も、生命の親である神に眼をそそぎ、神様という
ふるさとへの旅をはじめて参るのであります。
それが人間の本来のすがたなのであります。
私達の世界平和の祈りは
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
という、誰にでもわかるやさしい祈り言葉によって、神の大愛のなかに、
すべての人を抱きとろうという大神様のみこころが結集した祈り
なのであります。これまで、地球界に降り立ったすべての聖者方の祈りが
あつめられた、結集した祈りなのであります。
特に
世界人類が平和でありますように
という第一句は、現在宗教信仰によっている人もそうでない人も、
すべての人の心のなかにある人類共通の祈り心を呼び覚ます祈り言
なのであります。
この祈り言を思い唱えることによって、一個の人間としてはそのまま、
世界人類という大河のなかにある自分を経験するのであります。
世界人類のなかにある自分を観じてゆくのであります。
それは、何かといえば、愛にほかなりません。愛と祈りに他ならない
のであります。
こうして、我々は、我々のなかにある何物にもしばられぬ自由な
祈り心を、静かな祈り心を見出し、神という絶対無限の大愛へと
連なって参るのであります。
信仰を持っている人は信仰を持ったままで、この祈りを唱えて
参りますとき、その人の持っている光は、よりつよくやさしくかがやいて
ゆくのであります。
すべての信仰、すべての祈りは、神へのみちしるべでなければ
なりませんが、生命の不思議に思いを到し、世界平和の祈りに触れた
人は、一人のこらず、神の愛にとらえられるのであります。
守護霊が、守護神が、ぐんぐんと神様の方に、一人一人を引っぱって
ゆく。ですから、神というものを抜きにしては、その人は、この生命を
考えられなくなるのであります。そうして、段々に祈りを深くし、
唱えて参りますと、何よりも、神に素直になることが大事なのだ
ということがわかって参ります。
いわゆる運命というものにも、宿命というものにも、動かされない
自分になって参ります。
我々がしたがうのは、運命ではなく、神なのだということ、神は、
善でも悪でもなく、限りない愛なのだということが理解されてくる
のであります。
どんなことがありましょうと、神は、我々のいのちのすこやかさを
奪う方ではないのであります。しかも、このいのちは、永遠永生
であって、神とともに、宇宙のけいりんをなしてゆく何百生にもわたる
我々への神のいつくしみであり、ゆるしであることをおもいますとき、
我々にのこされたものは、ただ神への感謝であり、愛であり、この神に
素直ないのちとなって生き徹すということなのであります。
しかも、我々のいのちは、神によって、守護の神霊によって、また、
この世にともに生き愛する人々のこころによって支えられ、守られて
いるのであります。いのちはじねんほうに。ただ、神に預け、神に任せ、
肉の身の生死を朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、
我々は、神の器となってゆくのであります。
合 掌
昌 久
というものの生かされている本来の目的が、神様の光を、この肉の身の
ままに素直に受けてかがやかせるということなのであります。
それは、その人が意識するしないにかかわらず、またすべての
境遇によらず、この世の年齢によらず、すでに一人一人は、神様の愛を、
光を、地上に結ぶ役割を果たしているのであります。また、果たしつつ
あるのであります。
私達の肉体はそれを知らなくても、私達の霊身は、それを知っている
のであります。
そこで、神様の器になるということは、どういうことか
ということを、もう少しくわしく申しますと、それは、神様に素直になる
ということであります。
人間にはさまざまなおもいがある、このおもいを、想念を、やさしさで
いっぱいにする、光でいっぱいにするということであります。
何も、特別に、神様神様とおもわなくていい、ひたすらに求める
というのと、自然に求めるというのとはちがっている。
神様からきている生命、預けっ放しの、お任せのいのちなのですから、
ずーっと神様のところへ放っておいても心はむかってゆくものなので
あります。
イヤダといっても、守護霊さん守護神さんが連れてゆくものなので
あります。
さて、神様というのは、何かと申しますと、それは、無限絶対の愛
であります。ですから、神様から分かれてきた分生命(わけいのち)、
分霊(わけみたま)である人間は、愛を植えられてつくられている。
愛とやさしさ、そして、この二つのものを育ててゆくつよさ、
これこそが、人間のいのちを生かしている大元なのであります。
神様は、人間をやさしくつくった。ですから、何もその人が、
思い悩まなくても、やさしさを持って人に接する時、そこに、神の愛が、
光が、ともにあって、放射されてゆくのであります。
神様の器になるということは、ですから、本人が意識するしないに
かかわらず、自らのなかにやさしさを盛るということが第一歩なので
あります。
ところで、人間は、神様の愛によってつくられた存在でありますから、
心をしずめ、心をすませて参りますと、生きているということの不思議、
生命の不思議について思いをめぐらさずにはいられなくなるのである。
どんな人も、生命の親である神に眼をそそぎ、神様という
ふるさとへの旅をはじめて参るのであります。
それが人間の本来のすがたなのであります。
私達の世界平和の祈りは
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
という、誰にでもわかるやさしい祈り言葉によって、神の大愛のなかに、
すべての人を抱きとろうという大神様のみこころが結集した祈り
なのであります。これまで、地球界に降り立ったすべての聖者方の祈りが
あつめられた、結集した祈りなのであります。
特に
世界人類が平和でありますように
という第一句は、現在宗教信仰によっている人もそうでない人も、
すべての人の心のなかにある人類共通の祈り心を呼び覚ます祈り言
なのであります。
この祈り言を思い唱えることによって、一個の人間としてはそのまま、
世界人類という大河のなかにある自分を経験するのであります。
世界人類のなかにある自分を観じてゆくのであります。
それは、何かといえば、愛にほかなりません。愛と祈りに他ならない
のであります。
こうして、我々は、我々のなかにある何物にもしばられぬ自由な
祈り心を、静かな祈り心を見出し、神という絶対無限の大愛へと
連なって参るのであります。
信仰を持っている人は信仰を持ったままで、この祈りを唱えて
参りますとき、その人の持っている光は、よりつよくやさしくかがやいて
ゆくのであります。
すべての信仰、すべての祈りは、神へのみちしるべでなければ
なりませんが、生命の不思議に思いを到し、世界平和の祈りに触れた
人は、一人のこらず、神の愛にとらえられるのであります。
守護霊が、守護神が、ぐんぐんと神様の方に、一人一人を引っぱって
ゆく。ですから、神というものを抜きにしては、その人は、この生命を
考えられなくなるのであります。そうして、段々に祈りを深くし、
唱えて参りますと、何よりも、神に素直になることが大事なのだ
ということがわかって参ります。
いわゆる運命というものにも、宿命というものにも、動かされない
自分になって参ります。
我々がしたがうのは、運命ではなく、神なのだということ、神は、
善でも悪でもなく、限りない愛なのだということが理解されてくる
のであります。
どんなことがありましょうと、神は、我々のいのちのすこやかさを
奪う方ではないのであります。しかも、このいのちは、永遠永生
であって、神とともに、宇宙のけいりんをなしてゆく何百生にもわたる
我々への神のいつくしみであり、ゆるしであることをおもいますとき、
我々にのこされたものは、ただ神への感謝であり、愛であり、この神に
素直ないのちとなって生き徹すということなのであります。
しかも、我々のいのちは、神によって、守護の神霊によって、また、
この世にともに生き愛する人々のこころによって支えられ、守られて
いるのであります。いのちはじねんほうに。ただ、神に預け、神に任せ、
肉の身の生死を朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、
我々は、神の器となってゆくのであります。
合 掌
昌 久