宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(三十八)

2011-03-04 10:32:25 | 祈り
 何よりも大事なことは愛するということ
であります。自分を愛し人を愛するという
ことであります。
 この愛のなかに神のすがたがあり、
神の本質があるのであります。私どもは、
神から分けられてきたいのちでありまして、
神の光、ながれ(いのちのながれ)を受けて
生きているのでありますが、そのながれの
大元は、この愛であり、愛するという
行為であります。
 ところで、愛と申しますと、先ず、
うかびますのは、父母の子どもに対する
愛でありましょう。
 私なども、母の深い愛念のなか、こうして
生きて参ることができたのであります。全く
父母の子に対する愛というものは理くつでは
ありません。それは、見守り、育て、抱く
無償の愛であります。
 ところが、近頃の世の中をみておりますと、
しばしば、この父母の愛というものが伝わり
にくくなっている。それだけ、せち辛く
なっているということもありましょう。
 けれども、実は、父親なり母親である
人達が、子どもにそそぐ愛の、そのそそぎ方
といったものを勘ちがいしていることが
多いのであります。しばしば、盲目の愛に
なってしまっている。
 盲目の愛と、自然、無償の愛というものを
とりちがえているのであります。勿論、
親の愛というものは、りくつではありません。
 りくつといったものを超えた愛である。
 流露されてくる愛であります。
 けれども、申しましたように、親の愛
というものは、そういう自然に流露されて
くる愛ばかりでは親の愛になって参りません。
 子どもを、見守り、育て、抱くという
この三つの相(すがた)が、自然な愛情の
なかにあってこそ、親の愛なのであります。
 子どもの何をみるのか、育てるのか、抱く
のか、それは、その子が、どんな性質の子
であるのか、ようくみて、叱るべき時には
叱り、ほめるべき時にはほめてやる、
そうして、助走してやるということなので
あります。そうして、私はお前のことを
愛している、だから心配するなという心
でもって、いつも子どもをみてやるという
ことなのであります。これが抱くということ
なのであります。
 抱き放しの親がいたり、育てること
ばかりに夢中になっている親がいたりして、
私のところになんかにも、守護霊守護神が、
五井先生お手上げですと、相談にきたり
しますけれども、ここのバランスが、とれて
いないことが多いんです。
 愛するということは、盲目ではありません。
 盲目ではつとまってまいりません。
 見守り、育て、抱く、この三つの
相(すがた)が、溶け合った愛こそ、神様の
愛なのであります。私どもは、この神様の愛
によってはぐくまれてきた子どもなので
あります。
 私は神様じゃない。だからそんな上等な
愛を、子どもにもまわりにも抱けない、
なんていう人があったら、それは、つねに
私の申します卑下高慢なのであります。
 なぜなら、私どもは、神から分れてきた
いのちなのですから、この神の愛は、ずっと
ずっと、天命を果たしおえるまで、私どもの
なかにふりそそがれているものなので
ありますから。私どもが愛するのではない。
 先ず、神が、私どもを愛して下さっている
のであります。この身の何もかもを、一度、
神にお返しして、任せて、そうして祈りつつ、
わが子への、また、まわりの人々への愛と
やさしさを、たくわえてゆくべきなので
あります。
 もう一度申します。私どもは無一物
なのです。凡夫なのです。その凡夫(肉体我)
である私たちは、大元の神の愛へと回帰
してゆく時、いのちあらたに生きてゆくことが
できるのであります。
 世界人類が平和でありますように
                   合 掌
                     昌 久