宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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短 信(三十九)

2011-03-05 08:52:36 | 祈り
己れをむなしくするということをいいかえますと、光ばかりになる─と
いうことであります。
 余分なもの、とらわれやこだわりや、背のびや、無理強いといった
ものからとき放たれた真実の自分があらわれてくるということで
あります。

 人は誰しも、真実の自分というものを求めて旅をしております。
 はせお(※)は、月日は百代の過客にしてゆきかう歳もまた旅人なり
と申しました。このはせおの言葉は、実に私の心に沁み渡るものが
ありますが、全く、我々人間は、百代をとしても、真実の自分を
見極めたいと思うものでありましょう。
 人生は、我々のこうしたおもい、願い、祈りをこめた旅路であり、
我々は旅人であります。そうして、真実を申しますなら、我々は、
百代、二百代をかけて、光そのものの真実の自分に出会う旅を、
一人のこらずしているのであります。
 これは、事実であり、また真実なのであります。

 光ばかりになる、そういう自分になるには、先ず、神様の、
我々に対する愛をおもってみることであります。
 神様の、私どもに対する愛は、何の計らいもありはしない。ちっぽけな
おもわくなどというものをはなれた無限の愛であります。
 愛して愛して愛し抜いている、そういう愛であります。この愛の
なかには、やさしさと、真(まこと)がみちているのであります。

 やさしさというものは、あくまでも、自分を、人を活かしてゆく
ものであります。丁度塩が、ものの味をひきしめて、しかもやわらぎを
与えるように、やさしさというものは、我々すべてを活かすのであります。
 そして、このすべてを目守り、すべてを活かすというのが、神の
やさしさであり、愛であって、この愛とやさしさは、私どものなかにも
流れこんでいるのであります。

 気持ちがやさしくなっている時、私どもは、ただ、そのやさしさの
なかに溶け込んで、余分なことを考えたりは致しません。この瞬間、
私どもは光になっているのであります。
 一分釈迦、一分キリストと、かって申しましたように、そういう瞬間が
つづけばつづく程、私どもは、光である自分自身に出合うのであります。
 そうして、この光をいっぱいにあびるのが、世界人類が平和で
ありますようにという世界平和の祈り言なのです。
 この祈りを唱える時、すべてのとらわれ、こだわりが消えて、私どもは
光そのものとなるのであります。
 なぜならば、この祈りは、神の愛そのものをあらわした神の祈り言
だからであります。

 これまで地上に降りて下さった聖者方と、聖者方を守護なさった守護の
神霊たち、その聖者方を送られた大神の、宇宙神の、人類に対する
絶えざる愛の祈りであり、また、この宇宙神、神から分けられた私どもの
本心本体─光身の祈りであります。
 ですから、
 世界人類が平和でありますように
 と唱えます時、宇宙神(大生命)と、私ども(分生命)とは一体に
なるのであります。
 かたちとしては、この地球世界に適応するために、肉体となって
おりますが、いつも申しますように、この世のあらわれは、すべて
おもいが源になっておりますのでこのおもいを澄ませ、大元である愛へと
回帰到します時、私どもは、光そのものの自分に出会うのであります。

 世界平和の祈りは、その自分、真実の自分に出会うための道しるべ
であり、神の杖なのであります。
 この祈りをつづけて参ります時、私どもはいつ知らず、愛とやさしさに
満たされて参るのであります。

 すべてを神にささげ、神にまかせて、愛とやさしさにこの身をとかして
ゆくために、光そのものの自分となるために、ほがらかなやさしい
生命(いのち)を生きるために、日々、世界平和の祈りを唱えて
参りましょう。

 世界人類が平和でありますように            
                      合 掌
                        昌 久

            (※)・・・(919年)紀長谷雄(きのはせお)