宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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短 信(39)

2014-04-20 05:51:24 | 祈り
 己れをむなしくするということを
いいかえますと、光ばかりになる─という
ことであります。

 余分なもの、とらわれやこだわりや、
背のびや、無理強いといったものから
とき放たれた真実の自分があらわれてくる
ということであります。

 人は誰しも、真実の自分というものを
求めて旅をしております。

 はせお(※)は、月日は百代の過客にして
ゆきかう歳もまた旅人なりと申しました。この
はせおの言葉は、実に私の心に沁み渡るものが
ありますが、全く、我々人間は、百代を
としても、真実の自分を見極めたいと思う
ものでありましょう。

 人生は、我々のこうしたおもい、願い、
祈りをこめた旅路であり、我々は旅人
であります。そうして、真実を申しますなら、
我々は、百代、二百代をかけて、光そのものの
真実の自分に出会う旅を、一人のこらず
しているのであります。

 これは、事実であり、また真実なので
あります。

 光ばかりになる、そういう自分になるには、
先ず、神様の、我々に対する愛をおもって
みることであります。
 神様の、私どもに対する愛は、何の
計らいもありはしない。ちっぽけなおもわく
などというものをはなれた無限の愛
であります。

 愛して愛して愛し抜いている、そういう
愛であります。この愛のなかには、
やさしさと、真(まこと)がみちて
いるのであります。

  やさしさというものは、あくまでも、
自分を、人を活かしてゆくものであります。
 丁度塩が、ものの味をひきしめて、しかも
やわらぎを与えるように、やさしさという
ものは、我々すべてを活かすのであります。
 そして、このすべてを目守り、すべてを
活かすというのが、神のやさしさであり、
愛であって、この愛とやさしさは、私どもの
なかにも流れこんでいるのであります。

 気持ちがやさしくなっている時、私どもは、
ただ、そのやさしさのなかに溶け込んで、
余分なことを考えたりは致しません。この瞬間、
私どもは光になっているのであります。
 一分釈迦、一分キリストと、かって申し
ましたように、そういう瞬間がつづけば
つづく程、私どもは、光である自分自身に
出会うのであります。

 そうして、この光をいっぱいにあびるのが、
世界人類が平和でありますようにという
世界平和の祈り言なのです。

 この祈りを唱える時、すべてのとらわれ、
こだわりが消えて、私どもは光そのものと
なるのであります。

 なぜならば、この祈りは、神の愛
そのものをあらわした神の祈り言だから
であります。

 これまで地上に降りて下さった聖者方と、
聖者方を守護なさった守護の神霊たち、その
聖者方を送られた大神の、宇宙神の、人類に
対する絶えざる愛の祈りであり、また、この
宇宙神、神から分けられた私どもの
本心本体─光身の祈りであります。

 ですから、
 世界人類が平和でありますように
 と唱えます時、宇宙神(大生命)と、
私ども(分生命)とは一体になる
のであります。

 かたちとしては、この地球世界に適応
するために、肉体となっておりますが、
いつも申しますように、この世のあらわれは、
すべておもいが源になっておりますので
このおもいを澄ませ、大元である愛へと回帰
到します時、私どもは、光そのものの自分に
出会うのであります。
 世界平和の祈りは、その自分、真実の
自分に出会うための道しるべであり、神の杖
なのであります。

 この祈りをつづけて参ります時、私どもは
いつ知らず、愛とやさしさに満たされて
参るのであります。

 すべてを神にささげ、神にまかせて、愛と
やさしさにこの身をとかしてゆくために、
光そのものの自分となるために、ほがらかな
やさしい生命を生きるために、日々、
世界平和の祈りを唱えて参りましょう。

 世界人類が平和でありますように            
              合 掌
                昌 久
  (※)・・・(919年)紀長谷雄(きのはせお)