宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

神様ありがとうございますというこころで 生命をいただきなおす

2014-04-25 08:20:29 | 祈り
誰でも
つよさ
というものに憧れます
憧れて
勇士の物語なんかを読んだりする
そして
自分も物語のなかの主人公のように
ああいうつよさを持ちたいと思う
勇気を持ちたいとおもうんです

だけど
本当は
ただつよさに憧れるだけじゃなくて
その主人公なら主人公が
本当に生きているところ
そういう場面に
感動してるんです

その人の生命が
生き生きと
躍動しているところに
ぶつかると
我々の心は
よろこぶように
出来てるんです
なぜか

それは
さながらのいのちを
生きているからです
その人に無理がなく
いのちがスッキリと流れているからです
なるほど
この人ならそう思うだろう
そう行動しただろう
とおもいながら
我々は
主人公の世界に
ひきこまれていくのであります

そうして
全体をよみおわったときに
印象にのこるのは
主人公のつよさとか 
勇気でありますけれども
我々は
本当は
その人をとおして
人間というものに感動するのであります

ところで
つよさとはどういうことかと
いうと
本当に自分自身と
いうものを
識っている
ということであります
あるいは
識ってゆく
識ろうとする
ということであります
そのために
我々は
自分というものを
神様に預けて
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけているのであります

先に申しましたように
本当の人間というものは
無限のなかに生かされている存在
ですけれども
私どもの真実のすがた
何物にもとらわれない光そのもの
自分自身というものは
ひたすらな祈りによってこそ
しらされてゆくのである

そして我々は
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
世界平和の祈りのもとに
参集しているのであります
祈りによらないでは
本当に自分を識っていく
ということはできないのであります

先程の物語の主人公に
ひかれてゆく
ということにしましても
無理のない
背のびのない
人間のすがたというものに
ひかれている
けれども
もう一歩すすめると
それは
そういう風に
人間は
どうしてなってゆくのか
その力というものは
どこから与えられているのか
という
私どもの
根元の根元にさかのぼっていく
ことになるのであります

たとえば
あの人は自分をよく知っていると
普通いう場合には
その人自身が
自分の立場をよくわきまえている
とか
さらにすすめても
自分の短気をよくおさえて
人とつき合っている
とかいうことになるわけです

自らの足らざるところをしって
しりつつ生きる
そしてそこに
生かされているんだという
思いなり祈りなりがあるときには
これはもう祈りながらの生活と
いってもよいかも知れませんが
さらに自分というものを
大生命のなかに投げ込み
神のなかにあずけてしまうと
そこから
本然の生命というものが
あらわれてくるわけであります

そしてそのなかに
つよさというもの、神からながれてくる光
をうけて
今、自分がここに存在するのだ
神様ありがとうございます
というこころで
自分の生命をいただきなおしますときに
本当の自分をしるよろこびのなかでの
つよさ
というものを
受けとることができるのであります
          平成2年2月11日 記

つよさとやさしさ 序

2014-04-24 06:18:22 | 祈り
    序にかえて 
             五井 昌久
つよさを極めてゆけば
やさしさになり
やさしさを極めてゆけば
つよさになります
どちらも
本当のつよさとやさしさは
神の愛からわかれてきた
ものだからです
愛があって
つよさもやさしさも
みがきがかかります
本当のつよさとやさしさを
自分のものにするために
私達は
日々世界平和の祈りを行じて
参りましょう
      平成2年2月11日  識

短 信(42)

2014-04-23 07:38:56 | 祈り
 君が迷ったり悩んだりしている時、君には
(肉眼で)見えないだろうけれど、私は君の
ところに行って声をかけ、柏手を打ち、印を
切っているんだよ、決して君を一人にして
いるわけではない。

 私は、君の、今の、そしてこれからの生活
と心に責任を持ち、そして、天命に責任を
持っている。君が光明体そのものとなる迄、
世界平和の祈りのなかで、常に私は君を
守っている。

 すべてのことは神のみ心にしたがって
行われる。そう信じる時、迷いも業も
消えて、光そのものの自分が現れる。

 すべての真剣な祈りは、その光をのり出す
為の階段だ。五井先生と世界平和の祈りは、
いつも君のなかにとけ込んでいる。自分の
いのちに喰い込む迄に私を呼びなさい、祈り
なさい。その時、必ず道は開かれるだろう。

 もう一度言う。

 私は君を裏切らない。私は君を愛し、
信じている。
           昌 久

短 信(41)

2014-04-22 08:54:14 | 祈り
 ところで、色々大変そうだが、あまり
頑張ると自分が疲れるよ。
 私が会った頃の精かんさを、もう一度
君には取り戻して欲しいが、それには先ず、
何もかも忘れて、身も心も休めることだよ。
 必要なことはみんな備えられてるんだから。

 今、君が無理に動かなくてもいいんだ。
 君が今、一生懸命やってくれていることは、
実は、代わりの人でもいいんだよ。君には、
もっと大事な、本質的なところをしっかり
踏まえて、それだけを持って歩いて欲しい。
 マリヤのなくてかなわぬもの一つだ。

 大事なものを踏んまえるということは、
体力も気力も充実していないと出来ること
ではないんだよ。だから、本質を見失わない
というのは観念論じゃない。大変な実際論だ。
 日々の生活そのものなんだよ。判るかな。

 いつか君に、気の流れをみて、君らしく
やり給えと私は言ったが、まだどうも
緊張がとれていないねえ。肩の力を脱き給え、
というより、想いを放つことだ。

 余計なものを神様は与えない。神は愛
なのだから、君や、我々人間一人一人に
必要なものしか与えないんだよ。実によく、
神様は人間を見ている。人間の一人一人の
くせをよくのみ込んで、その時々に必要な
ものを与えられるんだ。

 少し海でも見て来なさい。

 聖ヶ丘や富士に遊びにくるつもりで、
ちょくちょく私を呼び給え。

 神は愛だよ。心を煩わさぬこと、人に
煩わされぬこと。自分のおもいに
把われずに、一歩一歩を進み給え。
              昌 久

短 信(40)

2014-04-21 05:56:52 | 祈り
 生命を生き生きと生きること、これが人間の
本来の姿であります。

 ところが、この世の中にくらしておりますと、
中々いつも生き生きというわけには参りません。

 腹の立つことも、かなしいことも起こって
参ります。

 普段、何もない時は、神様、世界人類が平和で
ありますようにと祈れるけれども、辛い悲しい
ことが起こってくると、なかなか祈れない。
 そして、良心の鋭い人であればある程、自分を
責め抜いて、自分の光を弱めてしまう
ということになるのであります。

 わたくしは、この感情と申しますか、心の、
気持ちの起伏ということを認めた上で、しかし、
人間の本来は生き生きとしたさながらの生命、
光そのものなのだと申し上げているのであります。
 人間の本体というものは、何があろうと
動かされることなく、光っている、光明体、
白光そのものなのだと申しているのであります。

 これは、誰かれの区別なく、人間は、一人のこらず
そうなのである。なぜなら、私どもは、神から
分かれてきた生命、神の光の一筋だからであります。

 世の中を生きてゆく上で、さまざまに悩んだり、
苦しんだりするのは、それは、教義にも説いて
おりますように、過去世の業が、時を得てあらわれ、
そして、消えてゆく姿であって、思い悩む自分が、
真実のあなた自身ではないのであります。

 けれども、私は、人間の心というものを否定
致しません。私もまた、人間に生まれて、種々の
よろこびとともに、かなしみや寂しさを
味わい尽くしてきた一人であるからであります。
 人間の心というものは、自然を感応出来るように
つくられております。もろもろのいのちの呼び声に
対して、感動し、また対話を重ねてゆくことができる
微妙さをそなえております。

 なぜ、私どもの心に、かなしみやさびしさが
たくわえられているのかといえば、この自然の、
もろもろの生命の呼び声に対して、心耳を澄まし、
とけ合い、それらの生死と一体となって、ついに
神をたたえるそのゆたかさのためにたくわえられて
いるのであります。

 まことに、我々は自然の一部であります。が、
この種々の感情は、人をはなれたものでは
ありません。
 我々は、幾人幾十人の人と心の機微を
かよわせてこそ、生きているということがいえる
のであります。かなしみや寂しみは、この心の
通い合いのなかで、やさしさと愛をはぐくむ源
となってゆくものであります。

 誰一人として辛いこと、悲しいことを歓迎する
人間はおりません。しかしながら、人の痛み、
負った傷、また負わされた傷の深さをはかって、
真実に、人間本来が持っております愛と、そして、
やさしさを発揮するためには、時に耐えがたい
かなしみや、寂しみ、また怒りすらも
味あわされる。
 これは、業ではなくて、あなたの守護霊、
守護神が、その魂の成長のためにおいた
つまづきの石であるのであります。

 業とは、すべてのことにとらわれ、こだわり
つづけることであります。
 よいことであれ、わるいことであれ、とらわれ
つづける時、我々は、我の世界におちこむ
のであります。わがままと申しますが、これは、
我のままに動かされる人間のすがたを申したもの
だといってもよいでありましょう。

 かわいらしいわがままもありますが、自らの
いのちのすがたに気付かず、それを歪めてゆく
というのは、これは最大のわがままであります。

 いのちのすがたというものは、先にも
申しましたように、何物にもとらわれず、
動かされず、あるがままのすなおな光そのもの
であるのです。

 私どもは、この生命を持って生きている。この生命
によって生かされているのであります。このいのちが
なければ、私どもの肉の身は、とっくの昔にほろんで
おりましょう。

 そして、このいのちとは、神の愛と智恵とやさしさに
ほかなりません。私どもは神からながれてくる
この三つのものによって、瞬々刻々、この生命を
生きているのであります。神の愛という神の息吹きの
ながれを受けなければ、私どもの生命は、全くその
流れをとめてしまうのであります。

 このように、神の愛によって生きている私ども、
生かされている私どもの生命が歪められてそのまま、
不幸の唯中につきおとされるということはあり得ない
のであります。私どももこの愛のなかに生きている、
私どもは光の住者なのであります。

 神の愛というものは無限に深いものでありまして、
その働きは人智を越えております。

 神様は、守護霊は、守護神は、我々一人一人の
いのちをすこやかにみちびくために、ひとときも、
あなたのそばをはなれることがありません。

 どうぞ、世界平和の祈りによって、かなしみの
唯中にあるあなたのこころを、私に、神に頒け、
おまかせのいのちとなって祈り一念におすすみ
下さいますように。

 世界人類が平和でありますように       
                 合 掌
                   昌 久