読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

決断の本質 プロセス志向の意思決定マネジメント

2018年12月08日 | ビジネス本

決断の本質 プロセス志向の意思決定マネジメント

 

マイケル・A・ロベルト

英治出版

 

「失敗の本質」以来、「〇〇の本質」というタイトルのビジネス本が次々と出て、本書もその一環のように見えるが、原書のタイトルは「WHY GREAT LEADERS DON'T TAKE YES FOR AN ANSWER」。「なぜ優れたリーダーは正解を言わないのか?」といったところか。

 

本書はそれなりに厚みのある本だが、主旨はけっこうシンプルである。チームが正しい決断を得るには、リーダーは「正解」を言うのではなく、「正解が出るプロセス」を整えることである、というものだ。

つまり、チームが間違った意思決定をした場合、間違いの原因は、それを導き出したチームの意思決定プロセスにあるというものである。したがって、そのプロセスが改善されない限り、同じ間違いを繰り返す。アメリカのスペースシャトル「コロンビア号」の事故は、その17年前に起こった「チャレンジャー号」の事故と、表面上の現象は違う技術的事故だが、その事故を許してしまったのはNASAという組織の意思決定プロセスにあり、それは両事故とも同じものであった。

「失敗の本質」も、言うならば日本軍特有の意思決定プロセスに失敗の因果が潜んでいたことを看破した本である。

 

僕の勤めている会社で、お得意先に採用されなかったりライバル会社に競り負けてしまったプレゼンの企画書を集めて、失敗分析をしようというプロジェクトチームが発足した。僕も採用されなかったプレゼンの企画書を提出させられた。しかし、はっきりいって企画書を集めて眺めたところで失敗の真の原因はわからないだろうとひがみ半分で思ったりする。焦点をあてるべきは、なぜそんな企画書に至ってしまったのかのチームの意思決定プロセスで、そこを検証しないことには、また同じような提案をして失敗を繰り返すだろう。

で、組織の意思決定プロセスというのはかなりその会社の社風というか、組織文化に左右される。フラットな雰囲気の組織と、ピラミッド的な官僚型の組織と、体育会的な組織ではモノゴトの決まり方はだいぶ違うだろう。その文化は時によってプラスにもマイナスにも作用するはずだ。

簡単に言ってしまう、「それって間違っているんじゃないかなあ」とチームの誰かが思っても、それを言わせない雰囲気のある組織は、けっきょく間違った意思決定を出し続けるリスクがある、ということだ。こういう組織は多かれ少なかれあるだろう。

とくに日本の場合は、年功序列的なものがなんだかんだいってあるから、先輩の間違いを指摘しにくい。これだけ変化の激しい今日の世の中では、先輩のほうが後輩より正しい答えを導く確率というのは必ずしも高いものではないし、むしろ過去の成功体験が今となってはミスリードになることもしばしばであるが、それでも先輩に異を問いにくいという組織は多いだろう。上を通して許可をもらわないと行動に持っていけない、というところは多いはずだが、このとき「上」が基本的に間違っていたりすると悲劇が繰り返されることになる。(新橋のサラリーマンのぼやきみたいになってきたぞ)

 

 

本書では、意思決定「プロセス」をコントロールすることこそが有能なリーダーであるとする。そして、非建設的な対立に陥るチーム議論の原因や、それを回避するためのファシリテーション方法などがいろいろ挙げられているが、その要諦は、誰もが畏れも警戒もなく自由に意見が言えること、意見を言われた相手が機嫌を損なわせないようにすることということなのである。簡単そうで難しい。そこには面子や立場といったなかなか厄介なものがあるし、「立場」というものがかなり言動を制限することはスタンフォード監獄実験などの心理学実験でもよく指摘されている。

まずはリーダーそのものが、リーダーという「立場」なのだけれど、その「立場」が醸し出すネガティブ効果を抑えるように配慮する必要がある。配慮しながら、しかしファシリテーションを繰り広げなければならない。感情的になりすぎるところを先回りして制し、なあなあで妥協しそうになるところをもうひと踏ん張りさせる。チームがあたかも自発的にそれを意思決定したかのように、実はリーダーの差配でその結論にもっていくようなコントロールを行う。まさに離れ業である。

 

第2次世界大戦時に最高司令官となり、戦後に第34代アメリカ大統領になったアイゼンハワーはこれの名人だったそうだ。

アメリカの大統領というのは、キューバ危機のケネディにしろ、剛腕ニクソンにしろ、冷戦終結のレーガンにしろ、9.11後に最高支持率を獲ったブッシュにしろ、Yes We canで全世界を感動させたオバマにしろ、そのリーダーシップのありかたはそれぞれで賛否もあるけれどなんだかんだで人をよく惹きつけるものだ。出てくる政策や最終的な成果だけみれば疑問も多い歴代アメリカ大統領だが、それこそ「プロセス」のコントロールに関しては相当に鍛えられているように感じる。ほぼ1年にわたる大統領選を勝ち抜くことがそれのスクリーニングになっているのかもしれない。トンデモなのか実は凄いのかよくわからないトランプ大統領も、なんだかんだで国民の支持は下がっていないし、人をいかにまとめあげるかというDNAが移民と開拓の歴史の中で培われたのであろうか。このへんは日本の歴代首相にはなかなか見られないものである。

 


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1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣

2018年11月09日 | ビジネス本

1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣

ケビン・クルーズ 訳:木村千里
パンローリング


 人生は100年時代なのに、1440分(24時間)を合理的に生産的に使わなくてはならないとはなんとも難儀な時代になったものである。情報テクノロジーの生産性はムーアの法則として累積的に加速していくが、人間自身もまた、ムーアの法則のように生産性を加速度的に高めていかなければならないのである。つまり10年前は1週間かけてやってよいこどが、いまや数時間で完成させないと人材として認められなくなってしまった。とほほ。

 したがって、「仕事ができる人」=「時間使いの名人」ということである。熟慮に熟慮を重ね、みっちり時間をとってこつこつしあげる職人肌の人は「仕事ができない人」なのである。これがここ数年にあったパラダイムシフトだ。24時間かけて100の完成度を誇るより、12時間で60の完成度を仕上げてしまい、それを1日間で2つ作れてしまう人のほうが「仕事ができる」のである。

 本書にはテクニカルなことがいくつもかかれている。スケジュールは15分単位でいれろとか、ToDoリストではなくスケジュール表にしろとか、朝起きたらたくさん水を飲めとか、運動しろとか、何も予定がない時間をあえて確保してスケジュール帳でブロックしておけとか、手書きでメモれとか、常にメモ帳を携帯しろとか、後回ししたいものこそ先に片付けろとか。

 まあそういうことなのかもしれないが本書で目玉のは「80対20の法則」の敷衍だろう。実際に僕の周囲などをみても「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、この法則を自覚的経験的にかかわらずわかっているように思う。
 「80対20の法則」とは、その仕事の価値の8割を占める重要ポイントは、実は全体の2割に満たない、という逆説的な法則のことである。つまり残りの8割は価値としては2割ほどでしかない。
 これが何を意味するかというと、その仕事のコアバリューを決める大事なところは、仕事全体にかける時間の2割で済むということだ。残りの時間8割はそのコアバリューをフォローするための資料集めなどに費やす時間に過ぎない。
 たとえば企画書をまとめるとしたとき。100ページの企画書があるとして、大事なところは20ページ程度である。残りの80ページは演出や規定演技であるに過ぎない。

 そうすると「時間使いのうまい人」は、その大事なコアバリューの「8割」のところだけをさっと見抜き、先に「2割」の時間でやってしまうのである。残りの8割時間のほうは誰かに任せたり、隙間時間でちまちまとうめたり、あるいは未完成のまま押し通してしまう。一番大事なところが抑えられているからなんとかなるのだ。
 反対に「時間使いの下手な人」は、時間がかかる8割ーー実際にその価値は「2割」しかないのにーーから着手してそこに延々に時間をかけてしまい、いつまでたっても一番大事なところに行き着かないので「あいつは仕事が遅い」「何が大事かわかってない」となって、「仕事ができない人」になってしまう。

 この「80対20」の法則はいろいろ応用がある。たとえば会議。だらだら続くもいっぱいあるが、本当に大事な意思決定や討論は会議全体時間の中の2割程度だったりする。「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、その2割のところだけ積極的に参加して、あとは退出したり手元のノートパソコンで他の仕事をしている(隙間時間でちまちまうめたい「8割」のほうの仕事をしていたりする)。

 人間関係や人脈もそうで、フェイスブックに登録されている友達などソーシャルネットワークのなかで本当に大事なのはその中の2割である。あとの8割はたいして作用していない。(クレジットカードなんかでも、アクティブなのは2割でのこり8割は幽霊会員というのはよく聞く話である)


 つまりこういうことが言える。1440分のうち、本当に大事なのは2割にあたる288分つまり4時間48分だ。ざっくりいうと5時間である。
 5時間を上手にねん出して、ベストのコンディションをつくり、自己裁量を確保して価値あることに使えると「時間使いのうまい人」すなわち「仕事ができる人」になる。
 5時間のうち、1時間を読書などのインプットに費やし、1時間をジョギングなどの健康増進に費やし、1時間を「大事な人(ソーシャルネットワークの2割!)」と話すのに費やし、そして2時間を仕事の本当の大事なところのアウトプットに費やす、でもよい。それを毎日続ければあなたは1440分の使い方の名人、「超・仕事ができる人」になる。
 秘訣はこうだ。朝起きてから通勤時間中などの時間もふくめて午前中いっぱい、ランチタイムが終わるまでをその「大事な5時間」にしてしまうのである。まずは早起きから始めてみることだ。




 ・・・・うーん。みごとに自己啓発書的なストーリーの完成である。そうはうまくいかないのが世の常だ。
 8割のムダの中に実は破壊的イノベーションのアイデアがあるという説もある。本当に本当に大事なのは、8割のムダの中に「よくわからないけれどこれはなにか後々使えるかもしれない」という直観的なアンテナを働かす能力なのではないかとも思う。これが鍛えられないと、しょせんは本物のAIのムーアの法則の前には叶わないのではないかと思うのである。


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戦略的に出世する技術

2018年06月06日 | ビジネス本
戦略的に出世する技術
 
加谷珪一
かんき出版
 
 
 すげえタイトルの本だが、要は自分自身をひとつの商品とみなし、会社を市場とみなしたうえで経営学の手法を使って出世しようという内容である。
 平社員時代は成長戦略を、係長時代はマイケル・ポーターの競争戦略を、課長時代は組織論を、部長時代はマーケティング理論を、そして役員時代はロジカルシンキングを用いる、という具合じ、出世の階段ごとに経営学の様々な分野をあてはめていく。タイトル通りに出世ノウハウ本ともいえるが、わかりやすい経営学の教科書みたいな側面もある。
 
 経済学と経営学は何が違うのかという素朴かつ深淵な質問がある。いろんな人がいろんな答え方をしているが、むかし読んだ本で「経済学は最終的には全員が富を分配される方法を見つけ出すのに対し、経営学は最終的には富を独占する方法を見つけ探す学問である」という主旨のことが書いてあって膝をうった。
 
 そこから連想すれば、すなわち「出世」というのは「会社が成果とみなすもの」をいかに独占するかということになる。最近は360度評価みたいな人事評価もはじまっているし、従来型のピラミッド型組織構造ではない組織体も増えてきたから、効果的な独占と戦略的な分配にはますます頭を使うことになるだろう(本書に出てくる、会社のボスがピラミッド構造をやめて社員のフラット化をはかろうとしているとしたらそれはボスが独裁をねらっている、という話は目ウロコだった)。こうなってくるとマキャベリの君主論みたいな世界になってきそうだが、一方でこういうことに汲々していると、結局は「世界一孤独」と揶揄される、会社の外ではまるで居場所のない典型的な日本のおじさんになっていくようにも思う。成果の独占と引き換えにその人が排他したものはなんだったのか、という問いかけは悪魔の取引のようだ。
 要はなんであれ、自分の幸福につながっているかを気にしたいものである。
 

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“社風”の正体

2018年05月28日 | ビジネス本
“社風”の正体
 
植村修一
日本経済新聞出版社
 
 
 日本人論として展開していくあたりが面白い。日本人は諸外国にくらべて“低リスク志向”なのだそうである。で、低リスクはこの場合どういう形になってあらわれるかというと、変化を嫌う、前例を踏襲する、ということだそうだ。そうすると、当初は、ある目的を達するためにとってきた「手段」が、自己目的化してくる。組織構造としてのありようや意思決定の手続き、顧客獲得の在り方、商品開発の優先順位などが、当初は事業目的に即したものとして採択されてきたが、いつのまにかそういった諸々のメソッドが初期目的を達成した後もなお温存されていく。これが社風となるのである。
 つまり、「社風」とは成功体験の残滓と言える。
 
 だから、事業目的を維持するのにその社風が未だ有効であればまだそれはいいのだが、世の中が変化しているのに、顧客のニーズはとっくにかわっているのに、自己目的化した社風だけがずっと残っているといたら、その企業は大問題である。
 「社風」というのは、社員のアイデンティティや自信の根拠に直結しやすいし、免罪符にもなりやすい。だから「社風」というのは世の中の変化に対し、抵抗勢力として機能しやすいとも言える。「大企業病」なんてのはその端的な例だろう。「社風」を誇る企業ほど、実は危ないのかもしれない。
  逆に、世の中の変化につねに呼応し、世の中に価値を提供し続けることができる「社風」というのは、そもそもその企業が「変化する社風」をもっているという逆説的なことにならざるを得ない。日本人のメンタリティとしてはこれはそうとう難しいぞ、ということになる。
 
 
 ただ、一方でこういう概念、つまり「生存し続けるために変化していく」、文学的に表現するならば「変わらないために変わっていく」というのも組織戦略論としてはポピュラーである。「失敗の本質」で日本軍の体質をここにみた野中郁次郎は、その対極としてアメリカ海兵隊を「変わらないために変わっていく」自己学習組織と看破した。また、生物学としては動的平衡という言葉が福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」以降ポピュラーな用語となり、生物学にととどまらない広く敷衍できる概念としてあちこちで使われている。
 
 つまり「変わらないために変わる」は生き延びていく上での真理なんだろうと思う。問題は、そうはいっても「変わりたくないなあ」というおっくうな精神もまた生命が持つバイアスであることだ。
 「変わる」もリスク、「変わらない」もリスク。どちらもリスクだが、より破壊力が強いのは「変わらない」ことによるリスクということで、人生とはままならぬものよ。
 

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残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その習慣」を科学する

2017年12月25日 | ビジネス本
残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その習慣」を科学する
 
著:エリック・パーカー 訳:竹中てる実
飛鳥新社
 
市場が成熟して経済成長しないせいか、年功序列が崩壊してきているからか、格差が拡大しているからか、社会保障制度が望み薄な感じがするからか、成功論失敗論がさいきん多いように思う。啓発本でも「やりぬく力」とか「ダークサイドスキル」とか「ライフシフト」とか、サバイバルに近いようなタイトルがハバを利かせている。
 
そんな中、おりこうさんが必ずしも成功者になるとは限らず、かといってずるい人が成功するとも限らない、というのが本書である。外向的な人と内向的な人はどちらが成功しやすいか。ゼネラリストタイプとスペシャリストタイプはどちらが成功しやすいか。本書によればどっちも成功もあるし、失敗もあるのだ。
 
じゃあ、成功するにはどうしたらいいんだ、といいたくなるが、このことについて本書ではそれこそ「科学的」に、いろいろな観点で語っているものの、実は究極のところ「成功」は自分で定義するしかない、というのが本書の結論なのではないか。なぜなら自分の評価と他人の評価が一致するとは限らないし、時系列のどの時点をもって「成功」とするかも議論の余地があるし、ひとつの成功はなにかの失敗との引き換えかもしれないわけである(仕事に成功したけど家族を失ったとか)。
 
したがって「成功」は自分で定義しなければならないのだ。自分の得意領域、苦手領域、限界領域、いくらでも没入できる領域を知ること。仕事、金銭、趣味、人間関係、家族、感謝されることなど、なんでもいいが自分が大事にしたい優先順位を決めること。で、その組み合わせで自分が納得できる生き方が「成功」なのである。つまり「成功」とは「正解」ではなく、「納得解」だと言える。金銭的報酬だけを物差しに成功失敗を判断することこそ、幸福感から離れる第一歩だ。幸福に至る唯一の答えは「あるがままを受け入れる(セルフ・コンパッション)」というのは、古典から言われていることである。
 
ここらへん、例によって自己肯定感とか承認欲求とかもからんできそうである。サピエンス全史では、原初の人間と現代人では、モノゴトの達成による幸福感はそう変わらなかったんではないか、と指摘しているが、要は万事が相対的なのだ。「成功」だって相対的に判断するものなのである。宇宙物理学の東大教授である須藤靖氏は「人生相対性理論」を唱えている
 
しかしそこらへんはわかっているのに、なんで我々は不足感、飢餓感、劣等感に苛まされるのだろう。それは自分の得意苦手領域や限界没入領域を知らないまま、あるいは無視したまま、仕事などのモノゴトにかかわらざるを得ないのがこの世知辛い世の中だからである。社会の些事雑事を放棄してしまっても現実的には食い詰めてしまう。そこらへんの処世術というか、マインドフルネスというか、なんとかならんもんかなあというのが多くの市井人の本音ではあるまいか。
 
僕は、案外にも「成功する人はなぜモチベーションにこだわらないのか」という本の指摘がけっこういいところをついているのではないか、と思ってもいる。
 

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世界のエリートは大事にしないが、普通の人にはそこそこ役立つビジネス書

2017年12月01日 | ビジネス本
世界のエリートは大事にしないが、普通の人にはそこそこ役立つビジネス書
林雄司
扶桑社
 
 作者はニフティの人気コンテンツ「デイリーポータルZ」の編集長。
 ペリーがパワーポイントの提案書を携えて日本にやってきたら。その名も「開国のご提案」。
 これを面白いと思うかどうかである。
 本書は、これを面白いと思う人のための本である。これのツボにはまらない人は、本書はなんの役にも立たないだろう。そもそもこれビジネス書なのか?
 
 僕は、これを読んで「タモリ」に似ているなと思った。タモリの芸や観察眼に通じるところが3つある。
 まず、ここにあるのは、予定調和の破壊だ。妙に定型化されたカルチャー(パワポの提案書もそのひとつ)をあえて用いることで、その予定調和のおかしみを出すといったところか。つまり、パロディとかパステューユのたぐいだ。タモリの牧師さんネタやフォークソングネタと同類である。
 二つ目としてとりあげるネタが、へんに日常的でかつマニアックだ。興味ない人には心底どうでもいいことを、真剣に追求する。スマートスピーカーの名前を自分の母の名前で登録して呼び掛けてみるとか。また、その追求する姿がなんだかおもしろおかしい。これもタモリっぽい。そもそも「デイリーポータルZ」そのものが、タモリ倶楽部っぽいとも言える。この絶妙な生活との距離の近さが、成功のための確信犯であることは本書でも触れている。
 三つ目に、この著者の「力まない」という一貫した態度。これもタモリである。タモリには「やる気のあるものは去れ」という名言がある。
 この「力まない感じ」が、実はこの本で紹介されているティップスにも表れていて、それが相手にも好感や信頼をよび、事態をうまい方向に転がしていく。たとえば、企画書に出てくる図表をあえてここだけ手書きにしてみる、とか、メールでの仕事のやりとりの文言にあえて「!」とか「ですー」とかすこしヌキをいれてみるとか(このテクニックは「伝える技術」でも紹介されていたな)。
 
 以上、ゆるーい感じの本書だが、それらの中で「つねに上機嫌でいる」という指摘はかなり確信をついていると思う。優秀な人は怒らないと喝破したのは「思考の整理学」でおなじみの外山慈比古だが、実はアドラーも宮沢賢治も人生の秘訣として言っている。タモリも滅多に怒らないことでは定評がある。
 つねに上機嫌でありたいものである。

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仕事ができる人はなぜモチベーションにこだわらないのか

2017年08月02日 | ビジネス本

仕事ができる人はなぜモチベーションにこだわらないのか

相原孝夫

幻冬舎

 

タイトルの勝利であろう。本文中の論旨はけっこう強引というか矛盾しているなあと思われるところもあるし、Amazonの評価をみると賛否真っ二つだが、著者が指摘する「ハイパフォーマンスを上げる人が必ずしも仕事に対してのモチベーションが高いわけでもない」という話はわからなくもない。

 

ぼくの勤務先の同じ部署に、ものすごく優秀な部員がひとりいる。仮にA君とする。A君は業務ジャンルを問わず、クライアント仕事から社内プロジェクトから雑務総務までなんでもこなす。それも同じ顔色で卒なくこなす。仕事はかなり速い。出てくるアウトプットはつねに水準以上だ。家庭の都合で遅くまで残業ができないという事情もあるが、それにしても速い。

人柄もよく、社内外から慕われている。ぜひ彼にお願いしたい、という仕事の指名も少なくない。

が、彼はあきらかに仕事へのモチベーションが高くない。低い、とは言わないが、熱意みたいなものはほとんど感じられない。どんな仕事がしたい、とか、どんなキャリアビジョンを描いているか、とかそういう話を何度かふってみたことあるのだが、いつもそういうものは特にない、とはぐらかされてしまう。目の前の仕事を、顔色も変えずに淡々と猛スピードでこなしている。

だから、会社の評価はほぼ常に高いところにあるようだ。社内政治とか自分からのアピールとかを一切しない人だから、トップをとるとか、表彰されるとかはないが、まわりの人がやきもきして他薦してくれたりして、A君は常に安定して上位10%圏内にいる。高値安定株みたいなものである。

 

そういう人物が近くにいるものだから、本書に出てくる「ハイパフォーマーはひょうひょうとしている」という指摘はまさにその通りなのだと思った。A君はモチベーションの高低というかムラがなく、どんな仕事に対しても同じような距離感で取り組んでいる。いたずらに自分の仕事や成果をアピールすることもない。よりごのみもない。なんか達観しているようである。

A君を観察するに、おそらく彼は自分の人生の中で、仕事ないし会社というもののマインドシェアが、ある一定を超えていないのである。サラリーマンだから、時間のシェアはどうしても仕事や会社に割かれるが、心のシェアはそうでもない。彼の心のシェアには家族のことや趣味のこともたくさん占めている。彼のモチベーションは人生そのものにあって、会社や仕事はその一部でしかない。だからといって仕事がいいかげんではなく、責務は全うする、というところだ。こういう人はビジネス外時間はクールで、飲み会などには出席しなそうだが、彼の場合、事情が許す限り出席している。社内の人間関係も円滑だ。人付き合いというのは、気がのらなければひどく疲れるもので、それこそモチベ―ションを下げそうなものだが、それさえ達観しているようだ(人嫌いなのでたいして友達はできません、ともさらっと言いのけてくる)。要するにいやいやでもしぶしぶでもないのである。

つまり、本書でいうところの、ハイパフォーマーは「道」と「つながり」を大事にし、結果的に生産性を挙げていて評価に結び付いている、という指摘をまさに地で行っちゃっているのである。まさか著者は、A君を取材したのではあるまいな。

 

A君や、本書に出てくる「ハイパフォーマーな人」をみていると、司馬遷の史記のくだりを思い出す。

ひとつは「桃李もの言わざれども下おのずからみちを成す」という漢句で有名な、名君といわれた李将軍を讃えた話。この漢句が意味するところは、「桃の花は何も言わないけれど花がきれいなので、それを見に人がくるので自然にその下に道ができる」ということで、優れた人は声高なアピールがなくても、自然に人に慕われ、人がついてくるの意だ。李将軍は部下を大事にしておごり高ぶらず、その誠実さで人がついていった。アレオレ詐欺とかアピール合戦が横行する昨今だが、4000年の歴史を耐えた言葉だけに、この漢句は人間の生き方の叡智が詰まっていると思う。

もうひとつは管妟列伝に出てくる妟子の話。晏子は、朝廷で主君に使えていたとき、「ことばをかけられれば、まっすぐに言い、ことばをかけられなければ、自分のおこないをまっすぐにしていた」。この距離感で3代の主君に仕え、諸侯のあいだに名声があらわれていた。つまり、上司や上役から声をかけられたときは一生懸命その人のために働いたり相手をするが、自分から上司や上役に声をかけたり、御用を伺うことはまずしない。この距離感の取り方は、社内政治や派閥なども横行する会社の渡り歩き方の極意のひとつだと思う。

李将軍の話も、晏子の話も、ぼくが心にとどめ、大事にしようとしていることだ。僕よりA君のほうがそれができているのがなんともくやしいが、モチベーションという本書曰く「思考停止」の言葉に踊らされず、自分を信じて目の前のことを誠実にとりくむことの義はたしかに存在する、と信じたい。

 


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社内政治の教科書

2015年02月08日 | ビジネス本

社内政治の教科書   「課長」から始める 

高城幸司


 管理職というものになってまもなく2年なのだがいまだに慣れない。

 現場時代、出世というものに無欲で、名前を売り込む気もなく、上司に注目されたり干渉されたりするのも嫌だった。好きにやらせてくれて、適度な評価で、適度な給料で、とそれで十分だった。

 だから、自分が管理職になって、2つの面で困ってしまったのである。

 まず一つ目は、どうも管理職というのは自分の会社に関心がないといけないのだが、僕はクライアントや成果物に関心がもてても、自分の会社への関心が非常に薄いということである。会社がどういう経営方針で、どういうことをしようとしているのか、そのためには組織としてどうあらねばならないかなどということは、現場時代からまったく無頓着で、役員の名前なんかもよくわかっていない。だから経営陣からの通達事項の解釈とか、上へのレポートとか、そういうもののツボがいまだにわからないでいる。

 もうひとつは、管理職になると当然部下を持つことになるのだが、部下の中には出世欲とか、自分は会社から正当な評価を得てないと不満を抱いている人とかいるわけなのだが、その人たちの気持ちを僕がいまいちシンクロできていないことである。そんなに出世ってしたいかなあ。そんなに評価ってされたいものかなあ。そんなに上司にかまってもらいたいかなあ。

 こうして書いてみると、僕みたいな上司がついてしまった部下が気の毒になってきた…

 

 というわけで、本書である。なかなか評判がよいらしいので手にとってみた。

 そしたら、「課長にとって「社内政治」は最重要の仕事である」と断言されてしまった。とほほ。やっぱりそうなのか。気が重いなあ。

 本書では、議論で勝とうとするな、社内横断的な人脈をつくれ、2つ上の上司に手短に報告しろ、相手に喋らせ、自分はコトバ数を少なくしろ、部下には自分は経営サイドであるという建前だけは崩すな、閉鎖的な縦の信頼関係に依存しすぎるとかえって危険などいろいろと指南があるが、横断的に指摘していることとして、「いかなる相手に対しても、だれか他人の批判や悪口に当たることを言わない」ということを繰り返し言っている。その批判の対象が上の人であろうと下の人であろうと。部下の経営批判に同調してもいけないし、かといって部下の経営批判を封じてもいけない。気に入らない上司の批判を他でつい口に出してもいけない。そういえば、ついつい軽口のつもりで言っちゃってるなあ。反省である。
 これは、何がどうめぐりめぐって、本人の耳に入ったり、第3者からの自分への評判に影響したりするかわからないからである。確かに、僕自身ほかの人の口から、あの人ほんとはこんなこと言ってるんだよ、なんて聞かされることがある。もちろん他愛ないようなことがほとんどだ。でも、たしかに僕は、ふーんあの人もあんがいたいしたことないんだな、なんて思ってしまうから、ということは自分の言動もまた誰か他人の口に上っているおそれはあるわけだ。

 もうひとつ大事なことは、部下に対しても上司に対しても「あなたはわたしにとって重要な人である」というメッセージを常に出し続ける、ということだそうだ。具体的には、あいさつをちゃんとする。相手の名前をちゃんと言う。相手に固有のことを仕事でもプライベートについてでもちゃんと把握する。あえて相談をもちかける。そのためには相手が何をしているか、何を期待しているかをちゃんと見ているということ。
 自分を顧みるについつい朝先に来ているヒトへのあいさつを省略して自分の席に座ったり、上司に相談の過程をとばして決定事項だけ伝えたりしてしまったり、部下につい汎用的なほめ言葉で済ませちゃったりしているなあ。これも反省である。
 人は、自分こそが必要とされている人のために、一生懸命働く。たしかにそうなのだ。で、それは毎日ちゃんと挨拶してくれたり、ふだんなかなか会わない人でも、会えば名前を読んでくれたり、こんなこと考えているんだけどどう思う?と相談してくれる人である。


 社内政治というと、権謀術数の気配を感じるが、つまりは社内でちゃんと尊重される立場になるということである。で、実は部下や若い人から信頼され、支持されている管理職が、長期的には社内政治に勝つ、というのが本書の指摘である。まあ、そうだろうな。上からのウケはよくても、下からのウケが悪い人は僕も何人も見てきたが、どこかでしっぺ返しをくらっている気がする。
 しかし、下からのウケというのはなかなか難しいものであって、単に経営や上司の悪口を、下と一緒に言っているだけでは、一瞬同調感ができているように見えてもそれは錯覚である。実際それで経営を変えることができれば別だが、そんなことできるわけがないので、ただの無力を露呈するだけである。たしかにかつてそんな上司が僕にもいた。


 まあ、これを読んだからといって僕の管理職業というものへの苦手意識はやっぱり消えず、あいかわらず経営への興味もないのだけれど、「いかなる他人の悪口も言わない」「相手を必要としていると思わせる」ことだけはまず心がけようと思う。
  


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誰も教えてくれない人を動かす文章術

2011年12月23日 | ビジネス本

誰も教えてくれない人を動かす文章術

齋藤孝

たしかに誰も教えてくれないだろう内容なので、読書感想文から大学のレポートから会社の報告書まで、文章書きに直面すると気重いっぱいになってしまう人にとってはアンチョコそのものといっていいほどの威力を発揮しそうな本である。もっともその文章術をここで書き写してしまうと営業妨害だからそれはできないのだけれど、しかもそれは本当にここにちゃちゃっと書き写せてしまうほどシンプルなものだったりするのだけれど。というわけでデスクに1冊置いておきたい本である。

ところで、僕はどこにむかうのかわからない即興で文章を書きすすめていくのがけっこう好きである。だから、このブログなんかほとんどいきあたりばったりである。うまく着地することもあれば、自分でも想像してなかったところまで到達してしまうこともあれば、なんだか支離滅裂で無茶苦茶な場合もある。

このブログは益も害もないからいいけれど、会社の業務レポートとか提案書はそうも言ってられない。取り掛かる前に「設計」がいる。始めはここから開始させて、それとこれを扱いながら、最後はあそこに着地させよう、という構想が必要となるのだが、僕はこの「設計」してから書くというのがあまり好きではない。もちろん、業務レポートに好き嫌いなんか言ってられないので、筋道をある程度組み立ててから取り掛かることも多いのだが、あんまり触手が動かない。許されるのならば行き当たりばったりいきたいのである。

だが、時間もなかったり、なんか気分が高ぶっていたり、あるいは逆にやる気がなかったりすると、もうそのままどうにでもなれと書きだしてしまう。企画書を書かなくてはいけなくなって、何の企画アイデアもないのだけれど、とにかく最初の1ページ、最初の一文を書いてしまったりもする。

情報は情報を呼ぶ。情報は常に新たな情報にくっつくことを求めている。これを言っているのは松岡正剛だけれど、情報は言いかえれば文章でもある。だから、何か書けば、次の何かの文章はアフォーダンスのようにひょいと出てきたりする。もちろん、袋小路にぶちあたって二進も三進もいかなくなり、大退却することもあるのだが、なんだか最後までいけてしまったりもする。

で、これを推敲、校正する。

するとなんとしたことか、けっこう読ませる、と自分で自画自賛してもしょうがないから、他のひとに読ませて、わりとウケがいいことも実は案外に少なくない。もちろんすべることだってあるのだが、あまり褒められた書きかたではなさそうにもかかわらず、前回の綿密な計画で書かれた企画書よりも評価されたりする。これはどうしたことか。

これが「設計」の罠なのであるる。とくにパワーポイントみたいなフォーマットはこの罠に陥りやすい。設計は要素を分解して配列するから、情報としてはつながっているように見えるけど、そこにあとから文章をあてはめていくから、どうも文をつないでいくという観点からすると細切れになりがちなのである。各パートの情報は完結するのだが、ぜんぶつながていくと、畳み掛けるような、あるいは早く次のページをめくってみたくなるような感興性をどうも発揮しにくい。各パートの独立性が際立ってしまって、全体の文脈が後退しやすいのである。つまり、リレー競走で、それぞれのランナーの足はとても速いのだけれど、どうもバトンの受け渡しがぎくしゃくするようなものである。

ところが、即興でつらつらと書きつなげていくと、そこはリニアに物語が流れる。だから、細切れにならずに、読み手からすると自然にその流れにのっていけて、いつのまにか結論までふっとカタルシスをもって共有できたりするのである。若干そこにはだまされた気分というものもつきまとうことは否定しないが、細切れ感はない。ただ一方で、冗長さが出るおそれがあるので、これはしっかり推敲しなければならない。

文章というのは、かならず流れがあって、読み手をこの流れに乗させることは実はすごく重要なのである。この流れに乗れない文章は、いくらそこに大事で慧眼な情報が入っていようと読み手の頭には入らない。学術書にありがちな読みにくさはどうもここに起因しているように思う。初めから終わりまで一気呵成に読ませてしまうことによる読み手の満足感、高揚感、感心はけっこうバカにならないので、どうしても「設計」ができない場合は、とにかく書き始めてしまう、というのもひとつの方法である。

 


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情報の洪水に溺れない極意 情報は集めるな!

2010年04月13日 | ビジネス本
情報の洪水に溺れない極意 情報は集めるな!

指南役

本書の底本は「ジェームス・W・ヤングの「アイデアの作り方」である。これに限らないのだけれど、“アイデアの作り方出し方”というのは、外山滋比古も梅棹忠夫も筒井康隆もも茂木健一郎も藤子不二夫も則巻千兵衛も同じことを言っていて、

①考える
 ↓
②どうにもならなくまで考える
 ↓
③いったん、忘れて別のことをする
 ↓
④アイデア降臨!!

というのが、王道中の王道である。いったん煮詰まるまで考えた後、ねかしておくと、ピーンと、頭の電球に明かりがつくのである。
名アイデアが思いつく俗に「三上(さんじょう)」というやつも、要するになにか別のことをしているときだ。

たぶん、これは脳生理学上に正しい、ということなのだと思う。ある程度の緊張の弛緩が、シナプスをつなげる役目を果たすのだろう。

ただ、これにはひとつだけ条件、というか能力が必要で、それは①②の「考える」で、「考える」ための材料をどれだけ持っているか、ということだ。「下手な考え、休むに似たり」というがごとく、材料のないままいくら考えて、それからねかしてみても、やっぱりうまくいかない。材料―つまり、インプットがやはり、必要なのである。

そこで、昨今大量の情報術である。超大量情報社会が到来するずっと前から、このことは言われ続けていて、古典ともいうべき梅棹忠夫「知的生産の技術」、80年代は立花隆「知のソフトウェア」、90年代は野口悠紀夫「超整理法術」があった。
でもけっきょくはみんな違う言い方で同じようなことを言っている。「メモれ」というのと「とったメモ」はすぐに探し出せるようにしとけ、なのである。
このシンプルな原則に、百から千の方法のバリエーションが生まれた次第だ。斎藤孝の“三色ボールペン活用術”も、奥野宣之の“情報は1冊のノートにまとめる”も、この流れにあるものだと思う。
これらの中で、異質だったのが手塚眞の「ヴィジュアル時代の発想法」だった。手塚眞の極意はチャンスオペレーション、つまり偶然性に任せよ、ということなのである。いちいち規則正しく資料収集とか資料検索とかやらず、もっと行き当たりばったりに生きなさい、そしたらそのうちオモシロイ発想出てくるから、だ。
ただ、「偶然」がクセモノで、これは「管理された偶然」なのである。チャンスオペレーションとはまさしくそういう意味で、うまく思考を泳がせておくことが、名アイデアにつながる、ということなのだ。こういった出会い頭のアイデア発見を、セレンディピティというむきもある。
だから、そのためには書庫やPCの前にとどまってないで、どんどん浮遊しなさい、ということになる。そして、そのことを直感的に看破したのが寺山修司の名言「書を捨てよ、街に出よう」だ。これ、寺山のオリジナルではなくて、元祖はフランスの詩人アンドレ・ジッドである。

さて、ここにひとつの真理がある。
たいがいの「アイデアの出し方」はやはり、出尽くしているのである。これはすなわち、「新しいアイデア」はすべて「古い要素」の組み合わせでできている、という有名な哲学なのである。
要するに「新しいアイデア」とは自分がこれまで知ってきたことの組み合わせの妙で起るということであり、この組み合わせ方が降臨するのが何か別のことをしているとき、つまり「三上」なのである。

ということは、やはりどれだけ自分が知っていることが多いか、が勝負だ。多ければ多いほど、「組み合わせの可能性」は高まる。だが、「知っていることを増やす」ということはやはり大変なことであり、ここに情報術が生まれる。それはメモをとって、それを検索可能にして・・・

本書「情報は集めるな!」も基本的には上記の範疇を出ていないわけだけれど、「アイデア降臨に気付く能力」に注目しているが特徴だ。つまり、同じものを見ていても、そこの重大な情報性に気付く人と、見逃す人とがいる。この両者の際は、結局は日ごろの「観察力」である。近頃はこれをインサイトと称したりもするが、アイデアマンの多くは、観察の名人なのだ。無理やり情報収集のための時間をとらなくても、日常の普段の生活上で見聞きするものに対し、観察力があるので、どんどん知見がたまっていくのである。かくありたいと思うが、いつもの所作、見慣れた光景に、違う地平を見るのはやはりなかなか難しいのではある。





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論理的にプレゼンする技術

2009年03月19日 | ビジネス本
論理的にプレゼンする技術 聴き手の記憶に残る話し方の極意・・・平林純

 著者にはほぼ同じテーマの「理系のためのプレゼンのアイディア」という本が技術評論社から出ており、重なっている部分もかなり多い。前者の本に比べると「理系のため」という要素が引っ込んで、文理問わないオールラウンドな内容になったとはいえるが、実は「理系のための・・」も。言うほど「理系」専門の内容というわけでもなかった。また、本書「論理的に・・」にも、あちこちに理系的な内容を持つプレゼンテーションへのテクニックが散りばめられており、要するにこの2書は本質的にはかなり同じところにある。

 じゃあ、「理系のための・・」と何が決定的に違うかというと、いっさいの下ネタが消えた、ということである。実は「理系のための・・」は事例やギャグに妙に下ネタが多く、これがこなれてセンスを感じるものであればよかったのだが、なんというか無理してサービスしてみましたという不自然感がバリバリ出ていて、察するに著者はもともとあまり下ネタが得意でない、というか艶咄に向いていないように思ったのである。肝心の「プレゼンのアイディア」に関する部分が優れていただけに、これは非常にもったいないのであった。

 たぶん、そこらへんの反響があって、改めて書かれたのが本書ではないか、と思うのである。実際、はるかに洗練されたと思う。確かに前書と重なっている部分は多いが、それらはハックめいた珍奇なテクニックの使いまわしなのではなく、色の使い方、情報の配列の仕方といった情報伝達における「基本」部分を繰り返し強調したいがためのものなのだと見てとれる。つまり、”焼き直し”というよりは、プレゼンテーションにおいて極めて重要な事柄であるからこその再三の紹介であり、著者の自信の表れでもあろう。

 もちろん、「理系のための・・」では触れられておらず、本書で初めて扱われた話や、その反対のものもある。個人的には「理系のための・・」で触れられていた、“パワーポイントのクリップアートがいかに使えないか”という話は是非残しておいて欲しかったとも思う。

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ビジネスに「戦略」なんていらない

2008年07月06日 | ビジネス本
 ビジネスに「戦略」なんていらない---平川克美---新書

 ビジネスから恋愛まで「戦略」が謳われる世の中にあって異質なテーマだ。だが、本書の最後のほうで述べているように、ビジネスとは、究極的には「損得勘定」の営為であり、何と何の交換が、誰と誰の損得を発生させるか、に集約される。

 その交換はもはや「商品」と「お金」だけでもない。本書のコトバを借りて言ってみれば、「商品・技術・誠意」と、「お金・満足・信用」の交換である。
 だから、たとえ商品や技術がよくても、売らんかなが目立って誠意が感じられない商品は、信用を得られないし、商品と誠意があっても技術が未熟であれば、満足は得られない。少なくとも次もその客が来てくれるという保証はない。もちろん、技術と誠意があっても商品として見劣りするものは、やはり買うのにためらわれる。

 やっかいなのは、「商品」と「技術」と「誠意」は必ずしも比例しない。「技術」におぼれて「誠意」を失ったり、「技術」不足をうまく「商品」として糊塗する例は多い。
 また、顧客の側も「お金」と「満足」と「信用」は微妙に逆相関を描く。

 が、昨今の「戦略」ブームは、特に、「商品」と「お金」の交換部分にのみ収斂されたものが多い。こういうものを「戦略」というのならば、そういう「戦略」の行き交う経済社会とは、企業側は顧客の「満足・信用」は気にせず、「お金」のみを目当てにし、顧客側は企業の「技術」や「信用」は目をつぶり、「商品」だけを判断するような社会であり、たしかに気色悪いものがある。


 まあもっとも、コンサルタントや広告代理店は周到なもので、「技術・誠意」や「満足・信用」の部分まで含めて、総合的な損得の辻褄を合わせる行為を「戦略」とするむきもあるのだけどね。しかし、その戦略はなかなか計算不能で、結局成功と失敗の理由は、少なからず偶然や運にも左右されそうにも思われる(なんというか、「タイミング」というのがあると思うのだよなあ)

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効率が10倍アップする新・知的生産術

2008年01月28日 | ビジネス本
効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法---勝間和代---単行本

「googleですぐに調べられることが常識になっている現代、google以上の価値を自分が持つにはどうするか」という問題提起にはひどく共感する。

で、もちろん当て推量なんだけれど、著者が最も経験的に自信を持っており、声高に唱えてみたかったところはたぶん「読書」のところだと思う。読書はコストパフォーマンスの優れた投資であるとか、「目ウロコの情報」に出合う確率は、価格の高い専門書ほど高く、安い文庫や新書では低く、結果的に「目ウロコの情報」に出合うための対価は等しくなる、というあたり。なるほどなあ、と思う。

ところで著者は、本を月100冊読むのだそうである。うーむ。月100冊(つまり年間1200冊か)というのは、速読術でない限り、ものすごい斜め読みあるいはつまみ食いであって、この読書法でその本が持つエッセンスを取得するには、かなりの技術とセンスが必要な気がする。もし本書を実践するならば、実はこの部分が最大のボトルネック部分で、あえていえば「効率が10倍アップする人というのは、月100冊本が読める人」なのであり、論理的に導くと「月100冊本が読めない人は、効率は10倍アップしない」ということになる。がーん。

それにしてもレバレッジ本とかハック本が去年あたりからかまびすしい。要するに、自らに「最小のエネルギーで最大の効果」を課しているわけだが、ふと思えば、これって自ら積極的に自分の脳と体をロボットやアンドロイドのように武装させていくということだ。もはや「無駄こそ文化」は負け犬の遠吠えなのだなあ。(なにしろ「無駄」そのものさえ戦略的にマネジメントしてつくりだす世の中だからね)。

A:人生には生き抜きが必要ですよ。
B:お前は息抜きの間に人生やってるんだろ!
(ゆうきまさみ「究極超人あ~る」より)

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