読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか

2018年02月14日 | ノンフィクション

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか

鴻上尚史
講談社

  太平洋戦争における日本軍の異常性を示す典型的な悲劇例として、神風特攻隊は有名である。

 海に散った二十歳になるかならぬかのパイロット達は志願だったのか強制だったのか。あるいは喜んで飛んでいったのか、苦渋の極みだったのかという議論も、けっきょく現在の従軍慰安婦問題における本人の希望だったのか強制だったのか、とか、ブラック企業における超過残業が本人の自主的労働だったのか上司その他の強制だったのか、という議論と根っこが同じに思う。そもそも自主的だったからよいという問題でもないし、鴻上氏がいうように、日本人のメンタリティとして自主という名の強制は、本人の意識無意識にかかわらず社会のあちこちでしばしば行われることであり、日本社会のかなりの深層まで巣くっているといってよい。また、喜んで飛んでいったかのようにしなければならない圧力というのは直属の上官だけでなく、その組織の責任者、さらにそのとりまき、メディア、日本国民全体にもあったというのは著者の指摘である。つまり、特攻は、軍事作戦上の成果というよりも、日本国全体がこの戦争を継続する気運づくりのために繰り返されたという指摘である。

 中東において、年端もゆかない子どもや結婚式を控えた若い女性が自爆テロを起こしたという報道をきくが、同じような力学がそこにあったんだろうと思うといたたまれなくなる。

 中東の自爆テロにおいても、いくら自爆テロが戦術的に無力で、敵にダメージを与えられないとしても、テロを起こす側にそのことで継続のエネルギーを与えるという効果があるのならば、自爆テロはなかなかなくならないということになる。 

 

 本書の主人公は、9回特攻に出撃しながらも生還し、戦後も生き永らえた佐々木友次伍長である。

 9回出撃したといっても、9回体当たりしたわけではなくて、敵艦隊にまみえて爆撃を行ったのは2回で、あとは機体の不調や敵艦をみつけられなかったための帰投であった。

 それでも、飛んでいった以上は帰ってこないのを美とした特攻にあって、何度も帰ってくる佐々木に対しての上官の焦りといら立ちは相当だったようである。この事実は、本当は帰ってこれたのに、または飛ぶ必要もないのに、死ぬ事実をつくるがためだけに飛ばされた人がけっこう多かったのではないかということも想像させる。

 佐々木が9回の生還を果たした理由はいろいろ考えられる。佐々木自身に生きることへの絶大な自信と執着があったことも事実だが、理解者にも恵まれていた。彼の生存に協力する人々がいたのだ。また、運にも恵まれていた。数メートル先を歩いていた戦友が空爆で即死している。本人の執着と周囲の協力と運。このことは、生存に必要な条件は何かを考える上でも興味深い。

 

 それにしても、「統率の外道」とこの攻撃スタイルの創案者みずからが言ったとされる特攻だが、この言葉自体もなにか免罪符のような気がする。「統率の外道」ではなくてそもそも「外道な統率」だったのではないかと思う。


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カレーライスを一から作る 関野吉晴ゼミ

2018年02月03日 | ノンフィクション

カレーライスを一から作る 関野吉晴ゼミ

著:前田亜紀
ポプラ社


 東京にある武蔵野美術大学の、とあるゼミの記録である。
 カレーライスを「一から作った」ことのある人というのは、日本広しと言えど、たぶんこのゼミだけではないか。

 どういうことかというと、米は苗から育て、野菜類も種から育て、肉はヒナから育て、スパイスや塩も自然から採取する。ついでに器もスプーンも土や竹からつくる、というものだ。

 きわめて単純にして壮大なコンセプトだ。なるほど。いかにも美大のゼミという感じがするし、これは学生にとって相当に学ぶものが多いに違いないと思う。与えられた所要期間は9か月。

 興味深いのは化学肥料は極力使わないということ。つまり、自然の恵み、自然の力だけでカレーライスに到達するということである。
 現代の農産物の多くーつまり、スーパーに出回っているものの多くは化学肥料や化学飼料をつかったものだ。我々はよく肥えた野菜や肉の姿をまるでそれがスタンダードのようにみているが、それは化学肥料、化学飼料のなせる技でもある。もちろん有機農法や有機飼料のものも売っているが、ご承知のとおりそれはたいへんな手間ひまがかかり、それは価格に跳ね返っている。
 化学肥料・化学飼料を悪くいうつもりはない。これは人々すべてにわたって、そこそこの値段で年間を通じて安定して農畜産物を提供できる、という人類食糧史の上でかけがえのない成果を与えた。窒素化合物のコントロールに行き着いたことは化学史のメルクマールで、これがなければいまごろ人類は餓死絶滅していたかもしれない。最近、野菜が高値であることはニュースになっていて白菜が800円するなんて言われているが、少なくとも白菜が5000円とか10000円とかのもはや絶対値として無理とか、もはや流通さえしない、とまではいかないのは栽培と流通の技術革新の力ではあるかと思う。化学肥料や化学飼料は農畜産物の民主化を実現させたとも言えるのだ。
 むしろ我々はあまりにいつも当たり前のように店頭に並ぶこれらを見て、白菜800円は異常中の異常と思える価値観になってしまっている。自然の力というものがいかに気まぐれで容赦ないのかということに鈍くなりつつある。

 だから、自然の恵みだけでカレーライスに到達するまでの長い長い道のりは、現代生活の中で絶対にみることのできない舞台裏ーーつまりは自然の真実をみることでもある。一番つらかったのは土おこしと草むしり。それでもゴボウのようにしか育たないニンジンに学生たちに悪戦苦闘する。米はトラクターもコンバインも使わず、田おこしをして代掻きをして苗を植える。それでも稲刈りをして天日干しをする。手間暇も、結果としての収穫量も、現代農法のそれとはまったく異なる。

 そしてもう一つの見どころはやはり肉だ。頑張ってヒナから育てた鳥をしめなければならない。現代の学生にとっては衝撃的な体験に違いないこれを理性と感情、倫理と摂理をふたつもみっつもアウフヘーベンさせて思考する体験は何事にも代えがたいと思う。

 文章はたいへん読みやすい。小学生でも読めるが、その内容は間違いなく一級のドキュメンタリー。読書感想文の課題図書にしてもいいくらいだ。
  
 あえて。あえての欲を言うならば、ここまで徹底するのならば、最後の調理も大釜の制作や火起こしなど「一から」やってもよかったかも。


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棟梁 技を伝え、人を育てる

2017年05月09日 | ノンフィクション

棟梁 技を伝え、人を育てる

語り:小川光夫 聞き書き:塩野米松
文芸春秋

 

 本書は、最後の宮大工と言われた西岡常市に弟子入りして40余年の著者がついに自分の立場を後進に譲ったあとの口述筆記である。宮大工という暗黙知の極め付けみたいな世界をどう継承していくか話だ。修行期間10年の住み込み徒弟制という、当世ホリエモンや、はあちゅうの主張などとは真っ向から反対の世界であろう。

 しかしながら、ここにはヒトの機敏に触れる真髄みたいなものがある。数年前から管理職なんてものをやっているからか、含蓄ある言葉の数々にいちいち感銘をうける。

 

 マネジメントというのは、業務管理や業績評価の標準化や平準化みたいなところがあって、例外をなくそうという力学が働きやすいなとずっと感じていた。マネジメントされる側からすればひとつひとつの固有の事情をこそ斟酌してもらいたいと思うものだし、僕も現場にいたときはそう思っていた。

 しかし、管理職になってみると、それはもちろん中間管理職だが、平準化のプレッシャーがものすごく上からかかってくる。仕事の内容は案件ごとにみんな違うし、去年と今年では状況も違うのに、同じようなクライテリア、同じような評価項目、同じようなミッションが示達される。そしてそれぞれ違う仕事をしている違う素質の者同士を同じ基準で相対評価していく。やりきれない気がするが、これは中間管理職共通のボヤキであろう。

 

 そんなところに本書は、棟梁たるもの、弟子たちのそれぞれの癖ーどこに芯があるかを見極め、その芯を生かすように采配すれば最強の組み立てになる、と説いてくる。標準化の真反対である。

 その人が育つにはどうすればいいか。育てるのではなく、育つ環境を整えてやることだ、と説いてくる。

 そして、どうやって仕事を任せるか、という話が出てくる。任せなければ人は成長せず、立場が人をつくり、後進に座を渡さなければ技術は継承されない。少々、未熟なところをあえて任せ、責任を追ってもらうことで人は成長すると出てくる。

 

 さもありなんだ。最近はプレイング・マネージャーという言い方がよくされ、御多分にもれず、自分が勤めている会社もそうなのだが、その名に安住せず、そこもあえて現場に権限移譲することが、組織の持続可能性として大事なのだろう。棟梁は道具は持たないという本書の指摘も感慨深いものがある。

 


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キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯

2017年01月18日 | ノンフィクション

キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯

将口泰浩
新潮社


 アッツ島玉砕の話は、太平洋戦争の悲劇の一つとしてよく語られる。

 それに対して、キスカ島撤退は、戦略論あるいはかの作戦を指揮した山本昌福中将のリーダーシップ論として語られることが最近では多い。

 アッツ島とキスカ島は、どちらも似たような北洋の孤島で、ほぼ同時期に日本軍が占領し、ほぼ同時期に片方は全滅、片方は完全脱出を成し遂げた。時と場合次第では、この命運は逆になっていてもおかしくないくらい諸条件は似ていた。

 結果的にアッツ島は帝国海軍から見捨てられた。一方、キスカ島は木村中将(当時は中佐)が救出のミッションを負い、5200人の守備隊全員の救出に成功している。

 

 作戦成功までの一連の経過をみると、「戦いは失敗が少ないほうが勝つ」という有名な鉄則がよくわかる。

 木村中将は失敗のリスクをとらない。

 なにが目的でなにが手段か。なにが実質でなにが形式美かを冷静にみている。脱出の際に、錦の歩兵銃を邪魔になるからと海に捨てさせるなんてのはその一例だ。

 リスクをとらない彼の彼の姿勢が最大に発揮されたところは、第一回救出作戦からの撤退だろう。勇猛果敢に突っ込むことが美学だった狂気の中で、この条件では救出の目的を果たせないと冷静に判断し、引き返す。

 引き返せばまた来れる。つまり目的達成の芽はまだ潰えていないのである。

 

 さらに言えば、木村中将は側近にも恵まれたし、運も味方しているし、それゆえにこの作戦は「成功」しているが、一方のアメリカはかなり「失敗」している。

 その失敗の原因は「思い込み」だ。まことに先入観というバイアスほど恐ろしいものはない。

 レーダーの乱反射から浮かぶ虚像を日本の艦隊だと思い込み、遠隔で集中砲火させてそこになんの残骸もないと、完全に沈没したと思い込む。アッツ島の経験から日本軍はいつまでも留まっているはずだと思い込み、日本軍の通信は完全に傍受できていると思い込む。

 人は「そうでありたい」と思うものがあると、中途半端な状況証拠で、それがさも真実のように思い込む。

 アメリカ軍のこれらの空回りは、撤退作戦の成功にかなり寄与している。

 

 日本軍の僥倖のひとつでも欠けていたら、アメリカ軍が失敗をひとつでも回避していたら、結果はどうなっていたかわからないくらいの紙一重だったが、結果的にこの撤退作戦は、アメリカ軍をして「パーフェクトゲーム」と言わしめるものとなった。

 

 話を木村中将に戻すと、かれがこのような全体最適を見抜くセンスが持てるようになったのは、やはり水雷艇出身という、小回りを効かせる小部隊で実戦を学んできたことが関係しているように思う。艦長あるいは司令官であってもかなり現場感覚を必要とし、また鋭敏な状況判断能力を必要とする。

 現場感覚は、良きリーダーシップの第一条件だ。

 兵站や整備の重要性を知ってこそ現実的な戦略になりえるし、兵站や整備を知るには現場感覚がなくてはならない。

 

 


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戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊

2016年10月07日 | ノンフィクション
戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊
著:モリー・グプティル・マニング  訳:松尾恭子
東京創元社
 
 ナチス帝国は、一億冊の本を焚書した。これに対し、アメリカは一億四千万冊の本を戦場に送り届けた。
 なんか古事記にこんな話があったような気がする。あなたが〇〇人殺すのなら、わたしは〇〇人の子供を産もう、みたいな。本好きにとって目頭が熱くなる内容である。
 
 戦争というものが様々な形態の製品開発の契機になることは知られているが(缶詰とかトランジスタラジオとか)、ここで登場するのは「兵隊文庫」である。
 どうやらこれが現在のペーパーブックの前身にあたるようだ。厳密には第2次世界大戦前からペーパーバックというのはあったようだが、この戦争を契機にいっきょに普及したらしい。廉価で大量に印刷‣製本でき、尻ポケットに入る大きさで、少々の手荒い扱いにはタフな紙でつくられた。
 
 日本では「文庫本」というのが昭和に入ってから刊行され、一説では岩波文庫をもってその始まりとするらしいが、実際は諸説あるらしい。単に判型が小さいということではなく、廉価におさえるための版権の問題や、大量印刷と製本の技術、そして、入手しやすさすなわち物流ルートの開拓などもふくめ、いわば「ビジネスモデル」としての文庫本ということになれば、まあ岩波文庫ということなのだろう。
 
 日本の場合は「古典的名作を安価で誰にでも手に入るように」という、いわば教養のデモクラシーみたいなものがこの文庫本事業の理念となったわけだが、こちら「兵隊文庫」は、「戦場で戦う兵士たちの支援」という目的だった。そしてまた、これがたいそうな成果を上げたのである。過酷な戦場の日々では、兵隊文庫こそが心の糧であり、作戦を待機している間、塹壕に閉じこもっている間、敵を待ち構えている間、劣悪な環境の中で彼らは兵隊文庫で生きる希望を見出し、生還してやるという気力を維持した。
 
 なるほどたしかにこれは思想戦である。ナチスの焚書に対し、こういう形の戦いもありうるわけだ。世界で2番目に売れた本は「毛沢東語録」という説があるが、こちらもポケットに入る大きさであり、また汗や雨に耐えうるようにビニールカバーがしてあったという。紅衛兵はこの毛沢東語録を身につけ、中国全土を制覇したわけだ。思想の中身云々の評価はさておき、本の力というのは馬鹿にならない。
 
 
 話が一気に卑近になるけれど、僕も仕事が激しく忙しい日々が続いたり、身内関係で不穏なことや不幸なことがあったりしたとき、一冊の本の存在がその日その日の大事なモチベーションになったりする。いっときでも別の世界に没入する瞬間があることは、心の平静のためにはまことに有効である。
 僕はだいたい年末から年度末にかけていつも仕事が忙しくなり、ロクに昼食もとれなかったり、会社に寝泊まりしたりするような事態もしばしば発生するのだが、毎年お供の本を用意している。今年は司馬遼太郎の「坂の上の雲」全八巻の再読であったが、いつぞやは涼宮ハルヒシリーズ全巻だったこともある。京極夏彦や島田荘司の大作や連作もののお世話にもなる。
 かくして毎年なんとか乗り越えている。いやホント、本というのは偉大だ。
 
 

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パリの国連で夢を食う

2016年07月26日 | ノンフィクション

パリの国連で夢を食う。
川内有緖
イースト・プレス

国連職員とはどういう仕事をしているのかという話と、フランスはパリというところの生活の光景と、著者の人生の選択史いう3点がクローズアップされている。
国連というのはずいぶんゆるくかつ官僚的なんだなと思ったり、正規職員になるのはほとんど、宝くじだなと思ったり、パリという町も生活するにはなかなか不条理と排他に耐えなければならないんだなと思ったり。それにしても著者の人生観、攻めが入っている。こういう潔さ、自分には絶対ないものでうらやましく、かつにくい気さえしてしまう。


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生きるための選択 少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

2015年12月27日 | ノンフィクション

生きるための選択 少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った

著:パク・ヨンミ 訳:満園真木
辰巳出版


 北朝鮮という国、脱北者という存在。さまざまな噂はこれまでも見聞きしていたが、本書の内容が語る具体的な描写は想像以上の恐ろしさであった。
本書は、タイトルのごとく13才の年齢で脱北を決行して中国に渡ったヨンミが、2年を経て韓国にたどりつき、8才程度と認定された学力から、猛勉強の努力をして大学生になることを果たし、さらに海外にてスピーチなどするようになってその存在を世界に知られる現在(21才)に至る話である。

 その内容は壮絶に過ぎるのだが、ここで注目すべきは2年間の中国での逃げ隠れるような生活だろう。
北朝鮮という国で、庶民がどのような生活をしているのかは、わりと噂がたっているのだが(それでも三代前までさかのぼってその人のランクが設定される「出身成分」という話とか、算数の授業でモノを数える問題がプロパガンダを兼ねて「アメリカ野郎を何人殺したか」とか、やっぱり想像をこえている)、見過ごされがちなのは脱北して中国に入ってからの中国での扱いである。

 中国における脱北者の存在は原則として非合法なので、けっきょくマフィアが支配する人身売買の手駒にしかならないということなのである。つまりレイプを売春や児童労働の世界である。僕は迂闊にも中国にまで渡ればあとはもう安泰なのかと思っていたがまったくそうではないのだ。ある意味北朝鮮より酷いとも言えるし、しかもこれがあの北京五輪をやっていた最中の裏での出来事だというから二重にびっくりする。

 著者であるヨンミはその中国での人身売買を生き抜いてさらにそこから脱出し、モンゴルへの国境を命からがら越えて、そこからようやく韓国への道をつかむ。

 韓国にたどりついても多くの脱北者はビジネスや教育のスキルを持たないため、なかなか不遇から抜け出すことはないらしい。それでも韓国にたどりついただけまだ幸運なのだろう。ほとんどの庶民は北朝鮮から出られないし、わずかに脱北した人でも、出た先の中国で辛い人生のまま終わる人がやはりまた大半で、本当に自由を勝ちえた人はほんのほんの一部ということになる。彼女が今の場所にたどりつけたのは、不断の努力と失わなかった希望(これはもう「夜と霧」に並ぶ)だが、運も味方したのだろうとは思う。途中で力尽きた名もなき人も大勢いるのだろう。


 欧米で北朝鮮の実態を実名と素顔でスピーチする彼女は、北朝鮮のほうでもマークをしているらしい。願わくば次のノーベル平和賞は彼女に与えてほしいところである。そうすることで国際的な注目が彼女を守ることになり、北朝鮮も下手な動きが出にくいと思うのである。


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複合大噴火

2013年10月02日 | ノンフィクション

複合大噴火

上前淳一郎

 けっこう前の本なのだが、文庫で再販された。

 複合大噴火というのは、1783年に長野県の浅間山と、アイスランドのラキ山の火山噴火のことである。日本では天明の大飢饉という語るに恐ろしい飢饉を生み、欧州ではフランス革命の遠因になった。

 本書は、2つの火山噴火が、日本とフランスで飢饉を生み、さらにそれが政変につながる平行物語を示唆している。

 つまり日本の場合は、

 浅間山噴火→気候変化(冷害)→米収穫の激減→飢饉→世情不安→田沼意次の追放と松平定信の寛政の改革と

 という流れとなり、 フランスの場合は

 ラキ山噴火→気候変化(冷害)→麦収穫の激減→パン価格の暴騰→世情不安→バスチューユ監獄の襲撃とフランス革命

 という流れになっていく。

 つまり、気象の変化というのは、国体や政体の変遷を迫るものであり、火山噴火というのは地震よりも洪水よりも破壊力があるということだ。ここらへん「怒る富士」とか「死都日本」なんかでもテーマになっている。

 さらに本書は、田沼意次の経済活性化政策と松平定信の緊縮政策の比較(著者は心情的には田沼意次のほうに惹かれているようだ)とか、人肉食いにまで発展した天明の大飢饉のあり様などを描写している。

 

 さて、今頃になってなぜこんな本が再刊されたのか。

 東日本大震災の経験は、単に災害に対する防災意識の必要性を認識しただけでなく、大規模自然災害というものが社会の営みや国体に変容を迫るものだということを学んだ。直接被災地を除けば、中長期的な影響という点ではむしろ後者のほうが大きい。とくに原発にからむ放射能汚染とエネルギー確保問題がこれに拍車をかけたわけだが、この災害が民主党政権が短命に終わった大きなきっかけにもなっていたと思う(地震がなかったらこの政権が長く続いたかどうかもわからないわけだが)。

 そういうわけで国も社会も大災害に敏感になっている。

 いま話題になっているのは、南海トラフの大地震、首都圏直下の地震、そして富士山の噴火である。
 いずれも、いつかは来るといわれているものである。

 また、たとえ火山の噴火や大地震がなくても、気候の変動そのものが必至でもある。

 つまり、こういったカタストロフィに対する不安と備えの意識が我々の社会にふつふつと生まれてきているのだ。それも、防災意識、つまり非常食の確保とか帰宅ルートの確認といったその場の防災ではなく、中長期的な世の中の変容に対しての不安と備えの意識である。

 もしかしてもしかしてもしかすると、30万人の餓死者を出した「天明の大飢饉」のような絶望的な食糧不足が起こるかもしれないのだ。世界規模の気候変動と人口増加があれば、食糧自給率40%、エネルギー自給率5%の日本だから、そういう潜在的リスクだってあるともいえるのだ。

 もちろん今はグローバルの時代であり、科学技術の時代であるから、食糧が絶対的に世の中から無くなるということは考えにくい。
 ただ、天明の大飢饉も、革命前のフランスも、世の中からコメや麦が消えたというわけでは必ずしもないのである。

 食糧不足というのは、貨幣と食糧の交換原則が成り立たなくなるということなのである。
 フランス革命の原因となったパンの価格高騰は、現実的にはお金でパンが買えなくなったということである。飢饉前に年貢米を貨幣に交換してしまった津軽藩はコメを買い戻せなかったのである。
 日本に限らず、今の先進国社会は貨幣経済(それも管理通貨制度による信用取引)が基盤で、普段の我々はそのことに何の疑いももっていないから(ハイパーインフレの原体験をもはや持っていない)、「食糧が金で買えない」ということがどういう恐慌事態かをイメージできない。

 カタストロフィの怖さは、こういった社会制度を根本からひっくりかえすところにある。 
 もし、南海トラフ地震や富士山噴火による中長期的な社会変容に備えるのだとすれば、少なくとも円建て以外の通貨を確保し、貨幣によらない食糧調達ルートを確保し(つまり自給自足&それを守るための自衛)、でなければ流民難民覚悟の、この国からの脱出ルートの確保ということになる。
 いずれにしてもリスクはつきまとうし、こんなこと考えながら生活してもちっとも幸福ではない。

 だが、どうも最近こういう本が多く出てくるのは、人々の無意識下に、社会変容不安がうごめきつつあるのではないかなんて思うのである。

 

 


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封印されたミッキーマウス

2008年05月29日 | ノンフィクション
封印されたミッキーマウス 美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード ---安藤健二---ノンフィクション


 「消されたミッキーマウス」と「タイタニック号の日本人生存者」の話が本書のメインで、後のはページ稼ぎといったら言いすぎか。

 ただ、上2つはけっこうよく調べており、巷間のウワサを一段上から検証している。

 ちなみに巷説では


 ある小学校で児童の卒業制作で巨大なミッキーマウスを描かせたら、後にディズニーから著作権法違反でクレームがついて、消させられた。後にイメージダウンを避けるために、その児童全員を東京ディズニーランドに招待した。

 タイタニック号で、婦女子を押しのけて救命ボートに乗って助かった日本人がいて「武士の恥」とさんざん批判されたが、実は誤解であり、近年ようやく名誉が回復した。


 上の2つは、僕もどこかで聞き及んでいたわけだが、どちらもまさかのどんでん返しがあるのだ。あまり書くとネタばれになるけれど、「タイタニック号」のほうは一篇のサスペンス映画か小説にでもなりそうで、ほんの一節で済ませてしまったのがもったいないくらいの深い闇が背後にある。

 ミッキーマウスのほうは、より野次馬根性的な関心を得やすいネタで、今でも個人のブログかなんかで東京ディズニーランドでミッキーと一緒に映っている写真を載っけると削除要請が来る、なんて都市伝説がまことしやかに言われていたが、画像検索してみるとけっこう出てくるので、少なくともこれに関しては現実としては大丈夫らしい。(というか「黙認」というのが正しいのだろうな)

 西原理恵子の「できるかなリターンズ」では、著者が東京ディズニーランドに行ったまんがが掲載されている。そこにはかなり粗いモザイクのかかったミッキーマウスの写真があり、皮肉な見方をすれば、パブリックに利用できるギリギリのところがこれ、ということなのだろう。ところが、この本には同時に西原理恵子手描きによる「醜悪な顔した富士額のネズミ」というのがいて、こちらは目隠しもモザイクもなくスルーしており、つまりこれくらい変形されてりゃ大丈夫ということなのだろう。が、「ミッキーを利用した創作物」としては明らかに前者のモザイク写真より、後者のイラストのほうが「ミッキーの貢献度」として上であり(要するに「面白い」)、これは著作権(肖像権かな?)を逆手にとったサイバラの勝利だ。

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盗まれたフェルメール

2008年03月13日 | ノンフィクション
盗まれたフェルメール----朽木ゆり子----ノンフィクション

 近代・名画盗難史とでもいった内容だ。 「盗まれやすい絵画の条件」というのもなかなか面白い。いろいろな意味でフェルメールが当てはまるのもうなずけるばかりだ。だが読んでみて思ったのは結局、その絵を直接所有したい人以外には「絵画泥棒」は、犯人にとって割に合わないのだな、ということだ。有名絵画であればあるほど足がつきやすいので買い取り手が現れないとか、保険会社の引き取り価格は、市場価格の10分の1だとか(それどころか保険に入っていない名画も多いそうな)、いくら「人類の至宝」ともてはやされたところで人命がかかっているわけではないので、案外にも警察の動きが鈍くて取引に応じないとか。ルパン三世のようなのはやはりフィクションなのである。
 にもかかわらず、「絵画泥棒」というものが放つファンタジーめいたものはいったいなんだろう。そしてこれでもかというくらいに出てくる事例は、何をして人を絵画泥棒にせしめるのだろうか。本人の自己陶酔も含めて英雄的行為というへんなコモンセンスが「絵画泥棒」にはある。同じブルジョワからの強奪的性格を持つ「銀行強盗」や「宝石強盗」にこの趣はない。これこそが絵画というか、「芸術」が持つ魔力なのだろうか。

 ところで、この本。まるで樹木を下から上へたどるかのように話が進む。本線から支線に話がうつったかと思うと、さらにそのまた支線へといくのである。そして末端までいくと本線に戻る。で次の支線でまた逸れていく。まるで迷宮画廊。

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青函連絡船ものがたり

2008年03月10日 | ノンフィクション
青函連絡船ものがたり----坂本幸四郎----文庫本

 本書もまた、消えゆく名著だ。朝日新聞社で文庫化まではされたが、青函連絡船そのものがもはや演歌の中でしか出てこない名前だし、たぶん今後の復刻は望み薄だ。だいたいこの本、タイトルが損をしていると思う。

 この本は決して「青函連絡船よもやま話」ではない。著者は青函連絡船の通信士だった人で、本書は莫大な資料や調査に支えられた、立花隆や柳田邦男もかくやたる大ドキュメンタリーなのである。全編の3分の2は、5隻の船が沈んだ未曾有の海難事故「洞爺丸台風」について割り当てられており、膨大な資料や生存者の証言、著者自身の当夜の体験から事故の全貌や裁判の行方を追っており、息もつかせない。また、洞爺丸だけでなく、第十一青函丸や日高丸など、他の船の命運も記述され、当夜の函館湾の各船の動き(と沈没)を矢印で示した図は、とてつもないことがこの日、この場所で起こったことを説明するに充分である。(中には生存者ゼロの沈没船もあるが、他の「沈没した」船に乗船していて救助された人が、その船が沈没しているのを目撃していて、どうやって沈没したかわかった、なんてのもある。すさまじい話だ。)

 ところで、洞爺丸台風事故については、上前淳一郎「洞爺丸はなぜ沈んだか」(文春文庫)があり、こちらのほうがポピュラーである。上前氏は元新聞記者なので、記者らしく証言を再構成して、当夜を時間の推移と共に小説風に仕立てている。好みもあると思うが、当事者として船の上でこの嵐に遭遇しており、海難裁判や裁決までも取り扱った「青函連絡船ものがたり」のほうが読み甲斐はあると思う。

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「大列車衝突」の夏

2008年03月05日 | ノンフィクション
「大列車衝突」の夏----舟越健之輔----単行本

 関東平野の西部を南北に走る鉄道が八高線である。この八高線は大惨事級の鉄道事故を過去に2回起こしていることで名高い。そのうちの最初のほう「八高線列車正面衝突事故」は、昭和20年8月24日に起きた。そう。終戦記念日の9日後である。台風で荒れ狂う多摩川橋梁のまさに真上で、復員や疎開帰りの客で超満員だった列車同士が正面衝突するという、悪魔の采配としか言いようのない事故である。

 で、本書。これが渾身の力作というか、執念の意欲作というか。若いエネルギーを炸裂させてよくもここまで調べ上げて書き上げたものだ、と多いに関心する。時期が時期だから資料というものがほとんどない「幻の事故」なのだが、地元の写真家が偶然にも撮影に成功したおぼろげな写真2枚を突き止め、後は当時の関係者を探し出して聞きこみをしていくことで本書の材料は集められている。事故もののルポルタージュとしては傑作だと思うし、同時に終戦直後の混乱の極みのにおける情報伝達方法や情報の信頼度の優先順位をどうつけていたかの貴重な記録でもある。また、この事故は天災だけでなく人災の面もあるのだが、だからといってそこに怠惰や隠蔽といったものがあるわけでもない。むしろ各人たちが、インフラの破壊された終戦直後のしかも台風下における鉄道運行というものに、いかに全身全霊で立ち向かっていたのか、そして彼らの決死の努力が結集した結果、この悲惨な事故は起こったということを、本書は冷静に書きとめている。

 著者の名は現在でも書店でよく見かける。ノンフィクション・ルポライターで、災害救助犬、マスコミ、鉄道廃線跡の探訪などを手がけた本があり、新書もある。が、著者の来歴でこの本が触れられているところをあまり見ない。20年以上前の刊行(とそれに先立つ連載)で、著者が毎日新聞の記者時代だったときの作品だ。権利が新聞社にあるためなのか、他に事情があるのか。現在絶版なのはもちろん、文庫化もされず、それどころかそもそも小部数発行だったのか、古本屋のデータベースでも見つからない。僕はたまたま実家に里帰りしたときに本棚の奥にあったのを発見し、20年ぶりに再会した次第だ。

 多くの書は消費文化に巻き込まれる。恐ろしい力作であっても、膨大な出版の中に埋もれてしまって幻になってしまった本は、本書に限らず無限にある。

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H5N1型ウイルス襲来

2007年12月27日 | ノンフィクション
H5N1型ウイルス襲来―新型インフルエンザから家族を守れ!--岡田晴恵--新書

この新型インフルエンザとは、鳥インフルエンザの突然変異体として見込まれるもの。

“インフルエンザ”という物言いにだまされるのだけれど、もはや「風邪」ではない。
いま、流行っているインフルエンザは、要するにウィルスが呼吸器系に感染するので、症状が風邪のようになるのだけれど、新型インフルエンザは、血液を通じて全身に感染するそうだ。そうするとどうなるかというと、血液がめぐるところから「外にむかって」伝染拡大しようとする(呼吸器系の場合はそれが「咳」になる)---つまり、粘膜の弱いところからばしばし出血するのだ。目、耳、鼻、口、尿道、腸-----ってこれ、エボラウィルスと同じじゃん。
しかも空気感染する。SARSは飛沫感染だったよな・・・

もちろん、まだ出現していないから、当然ワクチンもつくれないわけで・・・

うーむ。地震よりも火山噴火よりもよっぽどカタストロフィの現実性が高そうな。


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