論理的思考とは何か
渡邊雅子
中公新書
「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」を薦めてくれた会社の後輩のGくんが、これも関連して面白いっすよ、と言ったのがこの「論理的思考とは何か」だった。その後、この「論理的思考は何か」は、書評や書店の面陳コーナーに「売れてる新書」として取り上げられるのを見るようになった。まったくGくんの目利きはすばらしい。
本書は、論理的思考なるものが、実はそのコミュニティが属する歴史や文化によって全く異なるのだ、ということを看破した本である。つまり、アメリカとフランスとイランと日本ではなにをもって「それは論理的」と見なすが異なる、というのだ。
これを聞いて思い出すのは、エリン・メイヤーの「異文化理解力 」だ。物事の意思決定や、会議の進行、他人への配慮の仕方が各国で異なり、フランスでは最も通用するプロセスが、アメリカでは全然響かず、アメリカの決断方法は、ドイツではまったく相手にされない、ということを「異文化理解力」では事例や調査結果をもとに分析していて大変に興味深かった。また、その本では日本のありようは何につけ実はかなり特殊なのだ(アラブよりも中国よりも)ということを本書で知った。
こちら「論理的思考とは何か」も同様の類書であるが、そういった各国の意思決定や意思疎通の相違を、学校の作文指導の違いから掘り起こしたというところが面白い。学校の作文指導こそは、その国のありたき思考回路を鍛錬するものであるはずであり、すなわちその国にとっての論理的思考とは何かを示す格好の素材であるからだ。
確かにスヌーピーの漫画などではチャーリーブラウンやペパミントパティが作文と発表に悪戦苦闘するネタをよく見る。Show & Tellといって、リサーチとエッセーとプレゼンテーションで1セットになっており、アメリカではこれを子供のころから訓練するのだ。本書によればここにアメリカ特有の「結論を先にいってその理由を3つ述べる」最短時間の論理思考タイプを育てる因子があるという。TED型プレゼンテーションもこの延長上にある。
本書でも再三述べているが、このアメリカ型のスタイルが、いまロジカルシンキングとかプレゼンテーションハックとか言って盛んに日本のビジネス界に導入されている。この話法は「これがわからないなんてあんたバカじゃないの?」という変な威力を聞き手ないし読み手にせまるのは確かで、これをもって「論理的思考」とついつい身構えてしまうことが多いのだが、もちろんこの「アメリカ型」はそんなに完全無欠なわけではない。帰納法で結論を得ているように装いながら、実は言いたいことが先にあってその根拠となるものを後から持ってきていることが多いので油断がならないのである。
よくよく考えれば 「初めに結論を持ってきて、その根拠を3つ書く」で済んでしまう主張というのは、その話者が全知全能であることが前提となる。リサーチが完璧であり、解釈が完璧であることが大事だ。
しかし何事もそうだが完璧なんてものはそうなかなか無いものだ。その3つの理由が十分に吟味されて本当に妥当なのかかどうか、実はその結論を支持できない理由も7つくらいあるのだがそれは開示されなかったりするのがこのスタイルである。
その意味では、このアメリカ型スタイルは聞き手側が簡単には説得されない批判精神が必要となる。聞き手は初めに提示された結論を支持できない理由を急ぎ考えなければならない。そして、聞き手として見抜かなければならないのは、主張内容がbelieveかどうかというより、この話者はtrustであるかどうか、なのである。
なお、アメリカの議論というとしばしば引き合いに出されるのがディベートだ。話者が主張Aとして結論をまず話し、その根拠を3つ述べる。それに対し、その主張はそもそもおかしい、あるいはその根拠は間違っているといって反論Bを出す。
そうやって出た反論Bと、もともとの主張Aの妥当性を双方で出し合って、最後は審査員がどっちかを勝ちとして採用するわけだが、日本人はこれが苦手であることは本書だけでなく、よく言われることである。
仮に、聞き手側の反論Bのほうが勝ったとして。ではBが正解、Aは全部捨てる! というのがゼロサム社会なわけだが、本当に現実の世の中はそんな単純なものか? とは誰しもが思う。Aの中にもいくばくかの真理はあったのではないか、とか、AでもBでもないCもあったんじゃないのか、と本能的な危惧が芽生えてくる。日本人がディベートが苦手というのは、戦うのが不慣れとか自分の意見が否定されることの人格否定感とかいろいろ言われているが、ひとつが正解、他はみんな間違い、という思考フレームそのものの違和感がぬぐえないことにあるのではないかという気がしている。こういった思考のクセを「森林の思考・砂漠の思考 」という形で整理するむきもある。
そこへいくと、本書ではフランスの論理技法としてとりあげられている「弁証法」は、むしろ日本人好みではないかと思う。アウフヘーベンとか止揚とか呼ばれる思考フレームだが、Aという主張があってBという主張があってどちらもそれぞれの理屈で成立するのだとすると、両方を成り立たせるCがあるのではないかと探っていく熟慮の態度だ。これは短時間でシンプルな理屈で決められた事項はなにか決定的な欠陥が見逃されているはずだという蓋然性をふまえた人間の知恵である。ユダヤ人 の、全員一致した意見は棄却する(都市伝説とも言われているが)も同様だろう。「森林の思考」型の日本としては、むしろこの西洋哲学が生んだ弁証法のほうが、アメリカ型プレゼンテーションスタイルよりも、本当はしっくりくるのではないかと思う。
ただ、興味深いことに、主張Aと反論Bがあったときに、弁証法では両方が成立するCを「アウフヘーベン」、つまり「高次の段階で統一」する、という上向きの志向性があるのに対し、日本だと「落としどころ」とか「妥協点」といった変に下向きの文脈で語られる傾向があるのはなぜだろう。言葉遊びのようだが、ヘーゲルが「高みへの超越」を込めたこの思考が、日本だと「落としどころ」という思考回路になることは何か無視できないものがあるような気がする。
「弁証法」は、主張Aも反論Bもぜんぶ包含するCを探し当てるのだが、「落としどころ」はAとBの共通の利害の一致点を探し当てて、そうじゃないところは双方我慢する、というニュアンスがある。現実的には弁証法だって完全にABを抱合することは難しくてAもBも叶わぬ部分が生じることは多いと思うのだが、Cとは高みにある到達すべきところという見立てに、この思考法の価値に自信がある、ということだろう。「落としどころ」もやむなき妥協ではなく、よくぞこれを見つけた! という到達の感慨にもっと自信をもっていいのではないかと思う。
ところで。本書にはアメリカ型の結論から言うと思考、フランス型の弁証法思考、日本型の読書感想文的自己成長思考、イランのすべては神の摂理に従っている思考、が紹介されていて、本書の結論としては「論理とハサミは使いよう」なのだが、いずれにしてもそれぞれ論理を組み立てるにあたって、理由や事例を3つ用意することが各国の作文では指導されている。本書では特に指摘はないが、この「3」こそは国や文化を超えた論理のマジックナンバー であることは興味深い。