世界最悪の旅
著:アプスレイ チェリー・ガラード 訳:戸井十月
スコット南極探検隊の非業の結末までを、生還した隊員が記述・考察している。
あれ? スコット隊って全滅したんじゃなかったっけ? と思っていたが、全滅したのは極点到達隊であり、極点到達の手前で引き返した分隊がいくつかあったらしい。著者はこの引き返した部隊のほうに属していた。だから、スコット率いる極点到達隊と分かれてから後は、著者は直接にはその実態を知らない。ただ、よく知られるようにスコット隊は日記を克明に記録している。
後にスコット隊の遺体が発見されたときに、日記もすべて回収された。スコット隊の命運の記述はこの日記に基づいている。
さて、スコットといえばアムンゼン。この2人の南極点到達一番乗り競争はよく知られた話だ。一般的には、アムンゼンが犬ぞりを選んだのに対し、スコットは馬と雪上車に固執したのが明暗分かれた原因と信じられており、僕の理解もその域を出ていなかった。
本書は、もちろんスコットのサイドに多分に寄って書かれたものではあるのだけれど、そう単純なものでもなかったらしい。もちろん、スコットが馬や雪上車(初期のものすごく壊れやすいもの)にこだわったのは確かだが、大事故の原因が、けっきょく偶然に積み重なった小さなエラーの累積であるように、馬や雪上車も、小さなエラーのひとつでしかない。異常な寒波というのも確かにあったかもしれない。4人ユニットというレギュレーションを、土壇場で5人にしてしまったというのもあるかもしれない。
このへんはいわゆる「失敗学」の範疇になってくるが、あえて大きな理由をひとつつくるとすると、この大事業に踏み出すにあたって、先人の「小さな」成功を信じたことにある。
その「小さな」成功とは、シャクルトンが1909年に南緯88度23分まで到達した南極探検行だ。このとき、シャクルトンはロス湾はロス島付近から上陸し、馬を機動のメインとし、南極点まであと150キロというところまで到達したが、食料不足に陥り、そこで引き返した。これは当時の最高到達地点だったから、スコットはこれと同じ上陸地点をとり、同じルートをたどり、同じ機動力を用い、ただし、食料を入念に準備したのだった。ここだけ見れば、順当な判断だったと言える。
だが、結果論ではあるものの、このシャクルトンの先例が、スコットにとって他の選択肢を狭めてしまったというのは深読みし過ぎだろうか。
このことをまったく知らなかったのだが、実は、シャクルトンの南極探検の前に、スコットはまさしくシャクルトンと一緒に南極点到達を試みているのだ。このときはなんと犬ぞりをメインにしており、そしてずいぶん手前で頓挫してしまった。これが彼に「犬ぞり」無用の経験知をつくってしまったのかもしれない。
逆に言えば、アムンゼンの成功の原因が犬ぞり「だけ」ではなかったとも言える。犬ぞりは「必要条件」ではあっても「十分条件」ではなかった。
アムンゼンの南極行きだが、まずアムンゼンは、スコットやシャクルトンとは違う地点から上陸した。当時、この地点から上陸して極点到達を試みた先例はなかった。結果的に、アムンゼンのこの選択は正しかったことになり、しかもその後の南極探検・開発史において、南極点到達の最も合理的ルートとして、その後長い間採用された。もちろんアムンゼンはあてずっぽうでそこに上陸したわけではない。念入りな調査と推理を行い、最も適した上陸ポイントとしてそこを選んだ。だが、どんなに推論を重ねてそこが最適な解答だと導き出せたとしても、前人未踏の行為であることには変わりなく、人間は「他人の体験」と「机上の計算」のどちらをどこまで信じることができるか、という問題を突きつけている。
アムンゼン成功の理由はもちろんそれだけではない。しかし、スコットの場合、前例シャクルトンの影響が思考の幅を狭めたという想像はやはり難くない。
日本での最悪山岳遭難事故として名高い八甲田山の雪中行軍事故(新田次郎の「八甲田山死の彷徨のモデルとなった事件」も、遭難した青森第五連隊は、たまたま足慣らしで前日に雪山に入ったときが、晴天で妙に陽気が良く、容易に歩が進んで、意外と簡単なんだ、という先入観をつくってしまったことが、装備の不備や、指揮系統をあいまいなまま放置させたこととなって現れた。
が、人間というのは目先の小さな成功を過信しがちだ。その成功は、何の要素が足りていて、何の要素が無かったのか。、これを冷静に見極めるにはよほどの覚悟と熟練を要するのもまた確かだ。特に人から聞いた成功談は要注意だ。
著:アプスレイ チェリー・ガラード 訳:戸井十月
スコット南極探検隊の非業の結末までを、生還した隊員が記述・考察している。
あれ? スコット隊って全滅したんじゃなかったっけ? と思っていたが、全滅したのは極点到達隊であり、極点到達の手前で引き返した分隊がいくつかあったらしい。著者はこの引き返した部隊のほうに属していた。だから、スコット率いる極点到達隊と分かれてから後は、著者は直接にはその実態を知らない。ただ、よく知られるようにスコット隊は日記を克明に記録している。
後にスコット隊の遺体が発見されたときに、日記もすべて回収された。スコット隊の命運の記述はこの日記に基づいている。
さて、スコットといえばアムンゼン。この2人の南極点到達一番乗り競争はよく知られた話だ。一般的には、アムンゼンが犬ぞりを選んだのに対し、スコットは馬と雪上車に固執したのが明暗分かれた原因と信じられており、僕の理解もその域を出ていなかった。
本書は、もちろんスコットのサイドに多分に寄って書かれたものではあるのだけれど、そう単純なものでもなかったらしい。もちろん、スコットが馬や雪上車(初期のものすごく壊れやすいもの)にこだわったのは確かだが、大事故の原因が、けっきょく偶然に積み重なった小さなエラーの累積であるように、馬や雪上車も、小さなエラーのひとつでしかない。異常な寒波というのも確かにあったかもしれない。4人ユニットというレギュレーションを、土壇場で5人にしてしまったというのもあるかもしれない。
このへんはいわゆる「失敗学」の範疇になってくるが、あえて大きな理由をひとつつくるとすると、この大事業に踏み出すにあたって、先人の「小さな」成功を信じたことにある。
その「小さな」成功とは、シャクルトンが1909年に南緯88度23分まで到達した南極探検行だ。このとき、シャクルトンはロス湾はロス島付近から上陸し、馬を機動のメインとし、南極点まであと150キロというところまで到達したが、食料不足に陥り、そこで引き返した。これは当時の最高到達地点だったから、スコットはこれと同じ上陸地点をとり、同じルートをたどり、同じ機動力を用い、ただし、食料を入念に準備したのだった。ここだけ見れば、順当な判断だったと言える。
だが、結果論ではあるものの、このシャクルトンの先例が、スコットにとって他の選択肢を狭めてしまったというのは深読みし過ぎだろうか。
このことをまったく知らなかったのだが、実は、シャクルトンの南極探検の前に、スコットはまさしくシャクルトンと一緒に南極点到達を試みているのだ。このときはなんと犬ぞりをメインにしており、そしてずいぶん手前で頓挫してしまった。これが彼に「犬ぞり」無用の経験知をつくってしまったのかもしれない。
逆に言えば、アムンゼンの成功の原因が犬ぞり「だけ」ではなかったとも言える。犬ぞりは「必要条件」ではあっても「十分条件」ではなかった。
アムンゼンの南極行きだが、まずアムンゼンは、スコットやシャクルトンとは違う地点から上陸した。当時、この地点から上陸して極点到達を試みた先例はなかった。結果的に、アムンゼンのこの選択は正しかったことになり、しかもその後の南極探検・開発史において、南極点到達の最も合理的ルートとして、その後長い間採用された。もちろんアムンゼンはあてずっぽうでそこに上陸したわけではない。念入りな調査と推理を行い、最も適した上陸ポイントとしてそこを選んだ。だが、どんなに推論を重ねてそこが最適な解答だと導き出せたとしても、前人未踏の行為であることには変わりなく、人間は「他人の体験」と「机上の計算」のどちらをどこまで信じることができるか、という問題を突きつけている。
アムンゼン成功の理由はもちろんそれだけではない。しかし、スコットの場合、前例シャクルトンの影響が思考の幅を狭めたという想像はやはり難くない。
日本での最悪山岳遭難事故として名高い八甲田山の雪中行軍事故(新田次郎の「八甲田山死の彷徨のモデルとなった事件」も、遭難した青森第五連隊は、たまたま足慣らしで前日に雪山に入ったときが、晴天で妙に陽気が良く、容易に歩が進んで、意外と簡単なんだ、という先入観をつくってしまったことが、装備の不備や、指揮系統をあいまいなまま放置させたこととなって現れた。
が、人間というのは目先の小さな成功を過信しがちだ。その成功は、何の要素が足りていて、何の要素が無かったのか。、これを冷静に見極めるにはよほどの覚悟と熟練を要するのもまた確かだ。特に人から聞いた成功談は要注意だ。