「最近のテレビ・バラエティー番組に関する意見」
放送倫理検証委員会
書籍ではなくて報告書なのだが、PDFファイルによって全文がWEB公開されている。それがけっこう面白い、ということでネットのニュースやブログでも触れられていたので、読んでみた。
で、確かになかなか面白かったので、というか、これは極めて優れた文明・文化批評であり、力作であると思ったので、ここでも紹介してみる。
いちおう、この意見書は、意見する相手としてバラエティー番組の「作り手」、つまり放送局や制作プロダクションで制作に携わる人たち、放送作家から番組出演を担うタレントあたりまでを直接的な読み手として、「お前らこんなんだからダメなんだよ」というスタンスで書いてある。ひょっとしたらスポンサーとなる企業の宣伝部の人とか広告代理店の人あたりまでもカバーしているつもりなのかもしれない。が、一介の市民、あるいは視聴者が読んでも面白い。
意見書の方針としては「昨今のバラエティ番組がいかにしょーもないか、なぜしょーもなくなったか、をバラエティ番組風に紙面でやってみた」という感じである。曰く「検証バラエティ」。だが、委員会そのものには、バラエティ番組本来が持つ力、あるいはマスコミというものへのポジティブな信頼と期待がベースである。だから単なる批判に終始せず、建設的でもある。
テレビ番組の多くが「バラエティ番組」フォーマットになって垂れ流されている背景には、CM収入が減って、制作費が激減し、ギャラの安い芸人(しかもいまや芸人は、タクシー業界のように完全競争状態なので、どこまでも安いギャラでいける)を動員してスタジオ生放送で済ませてしまう他はないという、早い話が「安かろう悪かろう」のスパイラルにある、ということだ。
ウハウハだった時代にほぼ24時間の放送枠をつくってしまったために、今の時代も何か放送しなきゃならなくなったわけで、このあたり、高度成長時代の需要を前提につくってしまった工場のラインをとにかく稼動させないことには給料が払えない、というメーカーと同じである。メーカーの場合はラインを縮小したり、統廃合したりしたわけだけれど、テレビはそれができない。いや、できるのかもしれないけれど、まあ誰もそんな荒業やりたがらない。東京の場合、民放にはテレビ東京含めて5つのキー局があるけれど、実は3つくらいで充分なんじゃないの? とか、夜中の1時2時までやってる必要ないんじゃないの、とか、いろいろ思うんだけれど、いちど広げてしまった放送枠の縮小はできないらしい。仕方がないから、通販番組なんかで埋めている。広告スポンサーは、とにかく金があればいいわけだから、車とか家電とかが元気がなくなると、消費者金融広告を解禁してそこから収入を得ていた。それも自粛となると、今度はパチンコ業界を解禁した。こうなると次は宗教なんだろうね。地上波ではまだ創価大学くらいしか出てこないが(教育機関という言い訳にしたいのだろう)、BSでは解禁されている。
だが、「金がないからこんなのしかできない」という言い逃れは確かにできないだろう。金がないから、新人芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする、というのは暴論である。やはり、作り手と受け手の「面白い」と思うツボがずれている、ということに作り手が無自覚なのが最大の原因だろう。視聴率で数字取れてるじゃないか、と必ず出てくるのだが、10%や20%の視聴率というのは、社会の中ではマイナリティであることに気付いてほしい。
この意見書でも触れられているように、バラエティー番組とは、そもそもが「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を悪戦苦闘しながらつくりあげることでて「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用させ、都市社会論でいうところの「悪所」、あるいは共同体の中でのトリックスターとしての位置づけにあった、と意味付けはできるだろう。これは「週刊誌ジャーナリズム」というものとも似ているかもしれない。
ただ、「悪所」にしろ、「トリックスター」にしろ、そこは共同体を持続する上でこれらが必要という暗黙の了解が前提となっている。この暗黙の了解とは、「悪所」や「トリックスター」を提供する人と、社会市民との間での共通見解である。
この共通見解がずれているのが、今日の「バラエティ番組」である。要するに、「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を作り手が捜し求めて出てきたのが「芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする」ことであり、けっきょくそれは視聴者の「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用していない。もっというと「空回り」なのである。
なぜ、「空回り」するのか。意見書もいろいろ指摘している。たとえば、視聴者だってバカじゃない。それどころか、むしろ番組作りに関する情報はかつてよりよっぽどよく知っている。それにインターネットのように、面白さが「比較」できるコンテンツも登場した。「面白さ」を感じるリテラシーが、「作り手」の想定している基準よりもずっと上になってきている。
また、視聴者、すなわち社会の空気そのものが分断化孤立化し、支配するのは「冷笑主義」といったように、ひどくささくれ立った余裕のない状況にあり、つまり、かつてのバラエティ番組が武器にした「『王様』を対象にする『庶民の笑い』という構図」が、「王様」の不在となってそもそも難しい、という点もある。このあたり、さきほど挙げた「雑誌ジャーナリズム」の黄昏と同じ路線であり、TVバラエティの粗悪化と雑誌ジャーナリズムの荒廃は同じ力学上にあるというのは興味深い。
この「意見書」が触れてないことで、僕が仮説としてひとつ思っているのは、かつてバラエティ番組をつくった人と、いま「バラエティ番組」をつくっているひとは、テレビ局あるいは制作会社に入社した動機が違うんでは、ということである。
つまり言いたいことは、今テレビ番組制作の一線にいる人(たぶん20代-40代前半くらいかと思う)は、バラエティ番組がとても輝いた時代に入社しているということだ。具体的にいうと、フジテレビのバラエティ番組がイケイケだった時代を見て、この業界に入った人たちだ。
だが、冷静に考えればわかるように、彼らは「あのイケイケだったフジテレビみたいなの」がやりたくて入っているわけで、時代を変えるような、これまでの価値観を覆すようなアイデア、あるいは情熱があるとは思いにくい。抽象的にそういう志でいる人はいるんだろうが、そのためには上層部を敵に回し、自らスポンサーを説得し倒し、家族を犠牲にしてまで、それを貫徹してやろうなんて人はもはや絶滅種で、仮にいたとしても早々に潰されているだろう。本人だけの問題でなく、社会も企業もずっとコンプライアンスやらなにやらで厳しくなっている。
しかし、こうなってくるとけっきょく自己模倣しか生まなくなる。これは制作費の多寡とは関係がない。自己模倣はグロテスクな定型進化、要するに進化の袋小路になって、それが「内輪ネタ」とか「芸人同士の人間関係」とか、コンテンツとしての女子アナ、とかになってくる。ドラマでもテレビ局や編集者や広告代理店を舞台にしたものが、どのクールでも必ずひとつやふたつある。そりゃ自分のよく知っている世界の話だから「作り手」には面白いに違いない。が、それと同じほど「視聴者」が面白いわけがない。
「悪所」も「トリック・スター」も、共同体の中でそのポジションを持続的に得るには、当人自身はそうとう透徹した視線と高感度のアンテナがなければならない。外部を知らない「悪所」や「トリックスター」は存在し得ない。宿命的に「悪所」や「トリックスター」というのは外部との関係性で存在の意味がでてくる。外部環境を見失った「バラエティ番組」は、どこまでも「作り手」の自慰行為をさらけ出しているにすぎない。
放送倫理検証委員会
書籍ではなくて報告書なのだが、PDFファイルによって全文がWEB公開されている。それがけっこう面白い、ということでネットのニュースやブログでも触れられていたので、読んでみた。
で、確かになかなか面白かったので、というか、これは極めて優れた文明・文化批評であり、力作であると思ったので、ここでも紹介してみる。
いちおう、この意見書は、意見する相手としてバラエティー番組の「作り手」、つまり放送局や制作プロダクションで制作に携わる人たち、放送作家から番組出演を担うタレントあたりまでを直接的な読み手として、「お前らこんなんだからダメなんだよ」というスタンスで書いてある。ひょっとしたらスポンサーとなる企業の宣伝部の人とか広告代理店の人あたりまでもカバーしているつもりなのかもしれない。が、一介の市民、あるいは視聴者が読んでも面白い。
意見書の方針としては「昨今のバラエティ番組がいかにしょーもないか、なぜしょーもなくなったか、をバラエティ番組風に紙面でやってみた」という感じである。曰く「検証バラエティ」。だが、委員会そのものには、バラエティ番組本来が持つ力、あるいはマスコミというものへのポジティブな信頼と期待がベースである。だから単なる批判に終始せず、建設的でもある。
テレビ番組の多くが「バラエティ番組」フォーマットになって垂れ流されている背景には、CM収入が減って、制作費が激減し、ギャラの安い芸人(しかもいまや芸人は、タクシー業界のように完全競争状態なので、どこまでも安いギャラでいける)を動員してスタジオ生放送で済ませてしまう他はないという、早い話が「安かろう悪かろう」のスパイラルにある、ということだ。
ウハウハだった時代にほぼ24時間の放送枠をつくってしまったために、今の時代も何か放送しなきゃならなくなったわけで、このあたり、高度成長時代の需要を前提につくってしまった工場のラインをとにかく稼動させないことには給料が払えない、というメーカーと同じである。メーカーの場合はラインを縮小したり、統廃合したりしたわけだけれど、テレビはそれができない。いや、できるのかもしれないけれど、まあ誰もそんな荒業やりたがらない。東京の場合、民放にはテレビ東京含めて5つのキー局があるけれど、実は3つくらいで充分なんじゃないの? とか、夜中の1時2時までやってる必要ないんじゃないの、とか、いろいろ思うんだけれど、いちど広げてしまった放送枠の縮小はできないらしい。仕方がないから、通販番組なんかで埋めている。広告スポンサーは、とにかく金があればいいわけだから、車とか家電とかが元気がなくなると、消費者金融広告を解禁してそこから収入を得ていた。それも自粛となると、今度はパチンコ業界を解禁した。こうなると次は宗教なんだろうね。地上波ではまだ創価大学くらいしか出てこないが(教育機関という言い訳にしたいのだろう)、BSでは解禁されている。
だが、「金がないからこんなのしかできない」という言い逃れは確かにできないだろう。金がないから、新人芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする、というのは暴論である。やはり、作り手と受け手の「面白い」と思うツボがずれている、ということに作り手が無自覚なのが最大の原因だろう。視聴率で数字取れてるじゃないか、と必ず出てくるのだが、10%や20%の視聴率というのは、社会の中ではマイナリティであることに気付いてほしい。
この意見書でも触れられているように、バラエティー番組とは、そもそもが「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を悪戦苦闘しながらつくりあげることでて「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用させ、都市社会論でいうところの「悪所」、あるいは共同体の中でのトリックスターとしての位置づけにあった、と意味付けはできるだろう。これは「週刊誌ジャーナリズム」というものとも似ているかもしれない。
ただ、「悪所」にしろ、「トリックスター」にしろ、そこは共同体を持続する上でこれらが必要という暗黙の了解が前提となっている。この暗黙の了解とは、「悪所」や「トリックスター」を提供する人と、社会市民との間での共通見解である。
この共通見解がずれているのが、今日の「バラエティ番組」である。要するに、「常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところ」を作り手が捜し求めて出てきたのが「芸人をいじめたり、下ネタトークをやらせたり、食べ物をおもちゃにしたり、ヤラセをする」ことであり、けっきょくそれは視聴者の「人の身体と情動と暮らしの一番近いところ」を作用していない。もっというと「空回り」なのである。
なぜ、「空回り」するのか。意見書もいろいろ指摘している。たとえば、視聴者だってバカじゃない。それどころか、むしろ番組作りに関する情報はかつてよりよっぽどよく知っている。それにインターネットのように、面白さが「比較」できるコンテンツも登場した。「面白さ」を感じるリテラシーが、「作り手」の想定している基準よりもずっと上になってきている。
また、視聴者、すなわち社会の空気そのものが分断化孤立化し、支配するのは「冷笑主義」といったように、ひどくささくれ立った余裕のない状況にあり、つまり、かつてのバラエティ番組が武器にした「『王様』を対象にする『庶民の笑い』という構図」が、「王様」の不在となってそもそも難しい、という点もある。このあたり、さきほど挙げた「雑誌ジャーナリズム」の黄昏と同じ路線であり、TVバラエティの粗悪化と雑誌ジャーナリズムの荒廃は同じ力学上にあるというのは興味深い。
この「意見書」が触れてないことで、僕が仮説としてひとつ思っているのは、かつてバラエティ番組をつくった人と、いま「バラエティ番組」をつくっているひとは、テレビ局あるいは制作会社に入社した動機が違うんでは、ということである。
つまり言いたいことは、今テレビ番組制作の一線にいる人(たぶん20代-40代前半くらいかと思う)は、バラエティ番組がとても輝いた時代に入社しているということだ。具体的にいうと、フジテレビのバラエティ番組がイケイケだった時代を見て、この業界に入った人たちだ。
だが、冷静に考えればわかるように、彼らは「あのイケイケだったフジテレビみたいなの」がやりたくて入っているわけで、時代を変えるような、これまでの価値観を覆すようなアイデア、あるいは情熱があるとは思いにくい。抽象的にそういう志でいる人はいるんだろうが、そのためには上層部を敵に回し、自らスポンサーを説得し倒し、家族を犠牲にしてまで、それを貫徹してやろうなんて人はもはや絶滅種で、仮にいたとしても早々に潰されているだろう。本人だけの問題でなく、社会も企業もずっとコンプライアンスやらなにやらで厳しくなっている。
しかし、こうなってくるとけっきょく自己模倣しか生まなくなる。これは制作費の多寡とは関係がない。自己模倣はグロテスクな定型進化、要するに進化の袋小路になって、それが「内輪ネタ」とか「芸人同士の人間関係」とか、コンテンツとしての女子アナ、とかになってくる。ドラマでもテレビ局や編集者や広告代理店を舞台にしたものが、どのクールでも必ずひとつやふたつある。そりゃ自分のよく知っている世界の話だから「作り手」には面白いに違いない。が、それと同じほど「視聴者」が面白いわけがない。
「悪所」も「トリック・スター」も、共同体の中でそのポジションを持続的に得るには、当人自身はそうとう透徹した視線と高感度のアンテナがなければならない。外部を知らない「悪所」や「トリックスター」は存在し得ない。宿命的に「悪所」や「トリックスター」というのは外部との関係性で存在の意味がでてくる。外部環境を見失った「バラエティ番組」は、どこまでも「作り手」の自慰行為をさらけ出しているにすぎない。