読書の記録

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読んじゃいなよ!

2016年12月11日 | 言語・文学論・作家論・読書論
読んじゃいなよ!
 
高橋源一郎編
岩波書店
 
 サブタイトルは「明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ」である。
 
 それにしても、高橋源一郎氏の真骨頂というべきか、まことにアナーキーなゼミであり、ゼミ生も正規の明治学院大学在籍生だけではどうやらないようで、大学は辞めたけれどゼミだけ出席している若者とか、取材のつもりがいつのまに常連化した民放のキャスターとかもいるらしい。あのSEALDsの彼も、この高橋ゼミの人だったようだ。非常に納得するところがある。
 
 そんな彼らが在籍するゼミによる本書もまたアナーキーである。
 メインとなるコンテンツは、哲学者の鷲田清一氏、憲法学者の長谷部恭男氏、詩人の伊藤比呂美氏の3名による講演とゼミ生との質疑応答ということになるが、それ以外にゼミ生の自己紹介文的なものとか、座談会録とかいろいろなものが挿入、混入されていて、巻末や奧付のレギュレーションも、なんか守られてなくて、それでいてこれら要素がとくに分け隔てなく本書を構成いるのに、一冊となってしっかりとメッセージを発している。
 
 これは岩波新書でなければ成立しない世界であって、中公新書でも新潮文庫でもジャンプコミックスでもそうはいかないだろう。異化としか言いようのない不思議な岩波新書に仕立てあがっていると思うが、それでいてやはり岩波新書の精神なのである。
 
 巻末に納められている「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」の一文にはこう書かれている。
 
 いま求められていることーー個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか。その営みの糧になるものが、教養に他ならないと私たちは考える。
 
 まさに、本書を特異ならしめる価値はここにあって、このさまよえるゼミ生たちが、3名の講師および高橋源一郎氏にぶつけられた人間らしさへの問いと、それを鷲田氏の哲学が、長谷部氏の憲法学が、伊藤氏の人生相談がガチンコで応えていくこのありよう、さらに彼らの中での人生の逡巡があらわれた自己紹介らしき文章、高橋ゼミに思いをはせる座談会、すなわち本書全体が「人間らしく生きることの条件についての一人ひとりの粘り強い思考」になっている。

 個人的になるほどなあとしみじみ思ったのは以下のセリフ。それこそ学生のころに聞きたかった。
 
 「あり合わせのもので作るのが芸術家はもともと巧いんです。(中略)「これ、使える」っていう感覚、勘がものすごく働く人たちなんです。普通ならごみ箱行きみたいなものでも、あ、これ使えるって。学問をしている時でも、日常生活をしている時でも、その勘というのがすごく大事で、これ行けるとかこれ使えるっていう感覚がないとダメです。」(鷲田清一)
 
 「憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常生活で触れるはずの、日常生活を支えているはずのいろいろな法令があります。(中略)そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまう時に初めて出番が来るのが憲法です。」(長谷部恭男)
 
 「世の中には誠実じゃない人がいっぱいいて、そういう人たちに巻き込まれちゃうと、相手の負の何かに負けちゃうのね、やっぱり誠実な人間の方が。だから本当にそこだけは、本当にかぎ分けていって、こういう誠実で、あるいはクラムジーでもいいから、不器用でもいいから、誠実に生きている大人を見つけて、そこにつながっていけばいいと思うんですよ。(伊藤比呂美)

 あと、ゼミ生の小島夏水さんの文章。
 
 例えば、「街で君に似てる人を見たよ。」は告白だと思うし、「会いたい」と言われるよりも、「こっちの今日の夜ご飯はマグロ丼。」と言われる方が会いたくなったりする。
 
 

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