100冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術
近藤康太郎
CCCメディアハウス
早く読めてしまう本は「知っていることを確認しているだけ」である、という著者の指摘。自戒も込めてその通りだなあと思う。この話を裏返すと、早く読めちゃった本は発見がない本とも言えるわけだ。
このブログでも何度かぼやいているけれど、近年とみに本を読むのが遅くなった。油断すると、目で文字づらを追っているだけで中身が頭に入ってないまま数ページ進んでいたりする。集中力も続かない。せめて傍線をひいたり、思ったことを余白に書き込みながらなんとかしてひっかかりを得ようとしながら読んでいる。
つまり、歳をとると「知らないこと」を頭に入れるのが非常に億劫になるというか、脳が拒否してくるような気がするのだ。ついつい自分の知っている範囲に回収して解釈しようとする回路が発動する。そこを無理して読もうとすると猛烈に脳の抵抗を食らう。
ましてそもそもが難解な本、古典文学とか哲学書になるともはや読める気がしない。この手の本は若いころのほうが読めるのかもしれない。学生時代にカントの判断力批判やマックスウェーバーのプロ倫を課題図書として読まされたて散々苦労したが、当時としてもどこまで読み込めたものかまったく怪しいものの、今だったら全く太刀打ちできないだろう。
だからといって、がんばってスラスラ読むぞと眉間に力いれて読み出すと、なんとしたことかそれは「知っていることの確認」として脳が回路してしまうことになる。つまり、この歳になってそれなりに本をよんで何かの糧にするには、遅読になるのは宿命なのである。そうかー
ところで、本書のタイトルにある「100冊」の意味は、どんなにたくさんの本を読んでも、自分の血肉となる本というのは結局のところ人生において100冊くらいになるのではないかという問題提起である。
なるほどなあ。確かにそんな気はする。いや、実は薄々とそう感じていた。僕も趣味半分意地半分で読書を今日まで続けているわけだが、なんかもう新刊図書に手を出すよりも、これまでに読んで感銘を得た本を再読したほうがよほど心身が充実するんじゃないかとふと思ったりするのだ。名著というのは再読すれば新たな発見や思考の契機になるものである。著者が書くように、愛読書数冊を重ねて好きな音楽流しながら一杯の酒と共にぱらぱら拾い読みする夜、なんてのは最高の至福ではある。
とはいうものの、僕が珠玉の100冊を挙げろと言われるとまるで自信がない。たぶんこれまでの人生で読んだ本は玉石混合で2000冊くらいだろうかとは推計できるが、では自分をつくりあげた100冊を選べと言われると、30,40冊くらいで打ち止めになりそうな予感もする。こういうのをリストアップするのはそれはそれで楽しそうだが、昔を顧みる行為に安寧を見出すのはますます老化を加速させてしまう気がして、リスト化を自制する自分がいる。
もっとも、本書が提案するその100冊というのは「動的平衡」、つまりどんどん入れ替わるものだ、と本書の著者は言う。しかも選りすぐりの100冊を得るにはやはり1000冊は読まなければならない。すなわち動的平衡な100冊を維持するために1冊入れ替えるには10冊の読書が必要というわけで、やはり日々栄養を摂取するように読書は続けなければならないということである。
というわけで、遅読に耐えながら、今日も数冊を並行読みしている。このブログもだんだん悪戦苦闘の記録になってきた次第である。