拡張の世紀 テクノロジーによる破壊と創造
ブレット・キング 訳:上野博
東洋経済新報社
「ホモ・デウス」の副読本にでもなりそうな内容だ。ホモ・デウスが未来における人間の身体と精神の拡張を予言しているのだとしたら「拡張の世紀」はそれをささえるテクノロジーと、それによって実現した世界像を描いている
重要なことは、こういった新世界の姿は旧世界を破壊(ディスラプション)することで成立するということだ。その動きを止めることはできない。抵抗してもよいが、そうとうな機会損が待っているといってよい。そのことは歴史が証明している。鉄道技術が発達したとき、むかしの宿場町は鉄道線路が町の真ん中に引かれるのを嫌がった。煙が人体に悪いとか、振動が家を脆くするとか様々な理屈をつけたが、要は既得権益を脅かされることへの警戒だ。
その結果、鉄道線路は郊外に引かれたり、別の町を経由することになった。そして幾星霜。
鉄道の通った町は発展し、取り残された町は衰退した。鉄道の力を知った住民は慌てて誘致運動を行うが、もう遅い。似たような路線をもう一本引く言われはないからである。
その鉄道も、今度は自動車つまりモータリゼーションによって衰退する。北海道なんかでは鉄道は風前の灯火になりつつある。鉄道による貨物輸送なんかは完全にダンプやトラックによる輸送にとってかわられた。
ところがその貨物輸送は、今度は無人運転になろうとしている。
いま、宅配などの貨物輸送は運転手の不足が言われているが、いずれ運転手は不要なるとも見込まれている。
科学技術はそうやって移転していく。人間がつくったものなのに人間疎外になる、というパラドックスがあるが、そうやって時代は変容していく。となると抗ってもしょうがない。本書の指摘するように、ひとりの人間が生きている間に(それは寿命が伸びたということでもある)、技術革新が何度も起こるのは人類史上初めてのことなのだ。それがどういう結果を社会にもたらすのかは誰もわからない。次々と現れる技術革新に対し、我々は永遠に「初心者」であることを強いられる、といったのは「インターネットの次に来るもの」を記したケヴィン・ケリーである。
こういう新しい技術が試みられるとき、日本という国は規制がかかりやすい。僕が危惧するのはそこである。
たとえばドローン。運送技術の革命であり、ロボット技術の実用可能性を飛躍的に伸ばしていることはもはや明らかなのだが、日本の場合、ドローンを飛ばせる場所というのは極めて限られている。規制でそうなっているからだ。
で、多くの人間は、ドローンなんて飛ばないでほしい、と思うものだ。既存の運送ビジネスをやっている人もそうだし、今までの生活空間になじんでいる人も余計な事はしてほしくないと現状維持バイアスがはたらく。したがって、ドローン規制について反対、解除を求める声というのはほとんど聞こえない。
同様に仮想通貨なんかもそうだ。キャッシュレスというと、日本ではクレジットカードとかプリペイドカードを想像するが、そもそもプラスチックのカードを物理的に保有するキャッシュレスは、一時代前になりつつある。アップルペイなどワレット方式なものが少しずつ増えているが、これがめちゃめちゃ進行しているのは実は日本以外の諸国だ。中国のキャッシュレス経済はかなり市民に浸透している。
日本の場合は、金融の規制がいろいろあって、中国のように個人間の間でスマホで仮想通過をやりとりするようには至っていない。
そして完全に出遅れているのはウーバーだ。日本の場合、業界規制もあってウーバーはその本領を発揮できないでいる。ウーバーについては欧州のほうでもいろいろコンフリクトがおこっているが、このサービスの世界的浸透は必然のように思う。技術的にはかなり洗練されてきてあとは規制の問題、というところまで来ているからだ。
米国でも当初は既存業界から相当な反発や排除の動きがあったが流れには逆らえなかった。企業コンプライアンスとしては問題もあるらしいことを噂で聞いたが、仕組みとしてはかなり完成されてきていると言ってよい。
技術革新→規制の解除→世間への浸透、というシナリオはどの国にもあるが、この「規制の解除」の柔軟性は国によって異なる。あまりちゃんと調べていないけれど、日本は規制が多い国ではないかと思う。海外の企業が日本に進出しようとするときに阻まれるのが言語と規制だという。結果として日本ではなく、シンガポールとか香港に進出することになる。
これまではそうすることによって日本の経済を守っていたわけだが、で、これまでは世界経済において日本を無視するわけにはいかなかったからそれでも通用していたのだけれど、今後もそれでいいのかはそうとう心配だ。先の鉄道を通すことになった宿場町の例ではないけれど、日本なしでも世界経済はまわるから拒否してくれてかまわんよ、ということになりつつあるのではないかと思う。そして慌てて日本が規制解除したときはもう手遅れなのではないか。日本の行政手続きの遅さや現状維持バイアスの強さはけっこうリスクが高いと個人的には思っている。
本書に登場する拡張世紀における社会。自動運転に健康モニタリングに3Dプリンターにロボット適用に太陽光発電。それをささえる都市とインフラ。これらは既存の経済システムをディスラプションする上で成立する。
しかし、ディスラプションを成功させるには、抵抗勢力と規制を越えなければならない。日本はなんだかんだで技術開発力はまだ健在だと個人的には思っているのだけれど、それの社会実装に時間がかかりすぎな気がしてしょうがない。
かくいう僕も、本能的には保守なほうについつい行きがちだ。齢をとればとるほど新しいものが面倒くさくなる。正直いうと僕自身はそれでもいいんだけれど、少子高齢化社会において高齢者のボリュームが多い日本の社会構造の中で高齢者の価値観が優先される民主主義だと、政治的決定だけでなくて、こういうところでも若い人の世界競争力に不利になる力学が働くのかもしれないと思うと、責任の一端を感じざるをえない。せいぜい奮闘しなければならんなあと中学生の娘の後ろ姿を見ながら思うのである。