米本浩二
『実録・苦海浄土』河出書房新社 2024年10月24日
書評欄で内容を知り、町の図書館にリクエストして購入してもらった。
この類の本にしては珍しく一気読みであった。
石牟礼道子のことは『苦海浄土』の著者で、水俣病問題を広く世に知らしめ、被害者に寄り添って加害企業の告発にカリスマ的な役割を果たしてきた人と認識していた。
渡辺京二は、歴史家として『逝きし世の面影』著者で、硬派の左翼系論客として知られ、石牟礼道子の伴奏者として彼女の活動を支えてきた人物として知っていた。
著者の米本浩二は、本書によれば、石牟礼道子の評伝を書く目的で、2014年から彼女と渡辺のもとに通い詰め、二人から心の許しを得て、往復書簡から日記に至る資料の閲覧を許され、これまでに3冊の著書を上梓している。
いうなれば米本は石牟礼と渡辺から、その軌跡の後世への伝達を託された人物というべきだろう。
この本は、『苦海浄土』誕生に重要な役割を果たした『熊本風土記』という地方誌に焦点を当て、折節の日記や書簡の内容を引用しながら、石牟礼と渡辺の間の魂の触れ合いともいうべき交わりを描いたものである。
石牟礼道子は1927年水俣に生まれ、文学をこころざしてサークル活動に参加する。自分と他人との距離感に悩み、自殺を試みている。近代から疎外された世界に生きる庶民、そして近代の被害者水俣病患者のことを書くことに救いを見出す。
渡辺京二は1930年の生まれで、大連から引き揚げて熊本市に住む。旧制第五高校に進むが結核のため退学。遅れて法政大学を卒業し、出版社に勤めるが地方文芸雑誌の制作を目指して熊本に戻り、発行者兼編集者として、月刊の「熊本風土記」を1965年に発行する。
石牟礼と渡辺が知り合ったのは、この地方誌の編集者と寄稿者としてである。
水俣のサークルの集まりで石牟礼の発言を聞いた渡辺は、「世の中の見方が変わった」という啓示を受け、執筆を依頼する。それが『苦海浄土』のプロトタイプ『海と空のあいだに』であり、「熊本風土記」に連載される。
石牟礼は渡辺を心許せる人と感じ、しばしば熊本を訪れ、渡辺と会って話し、月刊誌の普及・販売に協力している。
『海と空のあいだに』は「熊本風土記」第11号まで8回連載され、1966年に第12号で雑誌は休刊になったため、未定稿で終わっている。
石牟礼は『海と空のあいだに』を単行本として出版し、印税を得たいとの希望を持ち、支払いが確実な出版社の紹介を東京の知人上野英信に依頼し、1967年講談社との契約を結ぶ。この間、単行本の原稿感性のほか、「朝日ジャーナル」の原稿執筆、ライフワークとした女性史研究者高群逸江の評伝準備と石牟礼は多忙を極め、渡辺とは手紙の往復はあっても会うことができなかった。
出版に当たって本の題名の変更を講談社から要求され、本人は乗り気でなかったが、夫と上野の協議で『苦海浄土』に決定する。
このように、石牟礼に寄り添って『海と空のあいだに』を進めてきた渡辺は、単行本化に際しては蚊帳の外に置かれる。石牟礼の事後報告兼詫び状には、いささか鼻白んだ返事を出している。
著者の米本は。日記や書簡に記されたことに基づいて、二人の内面に立ち入り、その人間性を描写している。著名な文化人と石牟礼との交流のエピソードも興味深い。
しかし、わたしがもっとも興味を感じたのは、石牟礼と渡辺の関係性である。
二人ともそれぞれ連れ合いがあり、子供がいる。一方、二人の間には生涯を貫く「愛」があった。では、彼らにとって家庭とはなんであったのか。著者にはその点をもっと掘り下げて欲しかった。
渡辺は書簡の中で、はっきりと石牟礼への愛を告白している。石牟礼は渡辺夫人のことを慮った言葉を手紙に記し、彼に対する愛をカムフラージュしているが、夫人は別にして、渡辺と自分以外の女性との関係にはやきもちを焼いている。
この「愛」をなんと呼ぶべきだろうか。米本は別の著書で「魂の邂逅」と呼びそれを浄化している。
本書は石牟礼道子(2018年)、渡辺京二(2022年)の死後に出版されている。後事を託された米本にとって、この本は二人への挽歌というべきであろう。
わたしにとっては、石牟礼道子、渡辺京二というこれまで描いていた人物像の深奥を垣間見せてくれた、興味深い本だった。
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