未来の予定をいれとくってのもあるんだけど。。つーかそれがカレンダー機能の主目的なのかもしれないけど。。
もちろんそれもやってんだけどもっと大事なのは。。たとえばわかりやすいのは、何か習慣をはじめたとすんじゃん。まあジョギングとか?(オレやってないけどね)
そうしたらすかさず3か月後の予定に「どう?続けてる?」ってコメントいれとくわけよ。
そういう使い方。
まああとは一般的だけどTodo管理ツールとしてもうずっぽり使ってるから、これなくなるとヤバいなー(笑)
ホントヤバい。
こんにちは!
前々回「スキル、センス」を書いた後にわらわらと書きたくなってきたことをまた書きます。ひとつひとつが異なるトピックなのでばらばらな感じがするかもしれませんが、根っこのところではつながっています。
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前回さらっと、ファッションの業界について書きましたが、ファッションだろうが、ひいてはどの業界であっても、おそらく同じなのだろうと思います。同時代的に、そしてビジネス・シーン全体で「全人的存在」が求められるようになってきている。
「と、考えておいたほうがよい」ということですね。そう考えるも考えないも個々の自由に委ねられますが、「全人的存在」を目指すほうが食いっぱぐれが少ないのは間違いないです。
そしてもうひとつ間違いないのは、「全人的存在」を目指すほうが大変だということです。少なくとも今まで自分が「努力」と思っていた努力はやすやすと超えてゆかなければならないのですから。
そのモチベーションを「収入」に求めてもよいでしょう。より高い収入を得るためによりいっそう努力する、というのは筋が通っています。
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手前みそながら自分はこの、求められる人材のパラダイム・シフトというか。。これから「全人的存在」がさらにハゲしく求められてくるということにかなり早くから気付いていましたし、着々と準備を進めてきたという自負を持っています。
とはいっても、多くの人たちもだいぶ前から、うっすらと気付いていたとは思います。僕は早い時期から、「うっすら」から「明確に認識」して、一歩を踏み出せたような気がしています。
まだまだ、「一歩」を踏み出したもん勝ちの時期のような気がします。十分に間に合います。
その「一歩」ってなんだよ!具体的にどうすればいいんだよ!わかんねーよ! と逆切れするような方、なんでもかんでも教えてもらわないと次に進めない人たちにはキツい時代になってくるのだと思います。
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全人的存在を全人的存在たらしめるためには、ある程度の裁量を与えてあげなければならないと思っています。
ある程度の自由と責任が常に与え続けられなければ「存在」が伸びていかなくなり、退行してしまいます。
今の時代、大卒で会社に入れば採用数削減等の事情もあり、「ワーカー」「(完全なる)組織の歯車」ではもはやいられないわけで、強制的に自由と責任は付与されます。あふれんばかりに。という意味では(という意味でのみ)、現代とは恵まれた時代であると思います。
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「全人的存在」として優れるか劣るかというのは常に、不断のメンテナンスが必要で。。受け身になってしまったり受け身にさせてしまうような環境だとすぐに退行してしまいます。まぁ上述した「なんでもかんでも教えてもらわないと次に進めない人たち」は最初からこのステップに進むことすらできないのですが。
ただし、楽観的でよいと思いますのは、ある程度のステージまで上がった人は自分で自分をメンテナンスできます。自分で自分を追い込むことができます。自分で自由を選択し、責任を引き受けます。なぜなら、そのステージにのぼった人はそれが当然だからです。それ以外の選択がないのです。
上昇気流に乗ることを義務付けられた人たち。。一般ピープルとの差は広がるばかりです。
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「~な感じで」というのが流行り言葉みたいで、いちいち詳細まで説明しなくとも漠然としたイメージの説明で「あとはよしなにやってくれよ」みたいな依頼が多くなってきたような気がするのです。客がワガママになってきた、という言い方もできるかもしれませんね。
僕もここ数年、顧客のそういう依頼ばかりを相手にしているような気がしてなりません。咀嚼してフィードバックするのがメインの仕事になってくる、みたいな。。
これも、「信頼」だと思うのですよね。あいつにぶつければわかってくれる、と。「そうそう、私はそういうことがいいたかったんだよ!」というアウトプットを出してくれる。それどころか、ちょっとプラスして知的好奇心を満たしてくれるような。
僕自身はまだまだそこまで至っていませんが、こういう仕事は一種の修行だと思っています。(けっこう楽しいんですけど)様々なタイプの顧客あるいは取引先がいますから、全方向的に対応するには、自分の理解力レベルを飛躍的に上げていかなければなりません。そのためには、普段の生活から仕事を意識して、(この方面での)スキルアップを図っていかなければならないのです。
これがひとつの、全人的存在をアゲてゆくというたとえです。
おそらくただのゼネラリストでは、全方向的に硬軟織り交ぜてさばいていくこと(余裕のスマイルで!)、および、それぞれに対してある程度の結果を出し続けることは難しい。
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たぶん、も~少しだけこの件、続けると思います。読んでいただきありがとうございました。
こんにちは!
ところで、脈絡もなく思い出したのですが、システム・エンジニアリングと同じ「横文字職業」でありながら似ても似つかない(?)ファッション、デザインの世界においては、「センス」が世界を席巻しました。
肉体が貧弱でも、運動ができなくとも、「スキル」すらなくとも、「センス」(というよくわからない概念)だけでオジサンたちを手玉にとり、業界を跋扈することができたのでした。
そして、ファッション、デザインの業界における「センス」と、我々の業界における「スキル」の末路は似ているのではないかと、考えた次第です。
そのココロは、「どちらも、それだけでは食っていけなくなる」。すでに、「終わりの始まり」なのでしょうね。
前者のセンスだけの人間にはスキルとの融合(すなわち、「努力」)が必要になる。後者のスキルだけの人間には加えてセンスが必要になってくる。
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とりあえず、といいますか、「センス」とは何か、「スキル」とは何か、といった言葉の定義は、あえてしないでおきます。あいまいなまま、皆さんの中でイメージをふくらませて、お読みください(笑)。
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昔「青春コンサルタント」という言葉が、僕の周りで局所的に話題になっていました。上流をやってる会社に新卒で入ると、数年で、パワポスキルばかり長けるようになり、現場経験のないままに大規模なコンサルの案件に投入されてゆく。
夢ばかりを描いて「で? それ誰がやるの?」と。「オマエ現場に入って死んでみる?」みたいな。
こういう人たちが上流に入ると「動かないコンピュータ」が産み出されます。
いわゆる「青春コンサルタント」には、センスはありません。といっても、一生ないと断じているわけではありません。ただ若くて経験が足りないだけです。
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この業界における「センス」はたゆまない自己研鑽からしか生まれないと僕は信じています。学生のぽっと出でいきなり活躍できている人がいるのだとすれば、その人は学生時代から自己研鑽してきただけの話であって。
と、考えれば、我々のような凡人であれば、「スキルが身につく」→「(仕事における)センスがよくなる」という過程を経ることになると思います。凡人でないほど、このふたつの平行期間が長くなるのでしょうね。つまり、スキル的に未熟なうちに仕事のセンスが磨かれてゆくケース。
天才型。そういう人はいますね。それに対して努力型も、あたかもそのように(スキル的に未熟なうちにセンスが磨かれているように)みえますが、実はそうじゃなくて、ものすごい努力をしてあっという間にスキル的に熟達し、すぐ次のステージにいってしまっているわけです。我々凡人が気づかないうちに。
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僕はほとんどこの業界しか知らないのですが、システムエンジニアリングにおける「センス」よりも前に、もっとベースとなる、「ビジネスマンとしてのセンス」というのは厳然としてあって、それは大前提なのですよね。
センスがある人をみていると、間違いなくビジネスマンとしてのベースもしっかりできていることに気づきます。というかそれを見せ付けられると凡人の僕はその圧倒的な差(埋められない)にヘコみます。
ビジネスにおける、ベースとなる「センス」というのは、おそらく「スマート」に近いですね。スマートとは単に頭がいいということだけじゃなくて、たとえば「振る舞い」からしてカッコいい、とか。。
システムエンジニアってホント、「スマート」な人って少なかったですよね。逆にいうと今は、増えてます。それはなぜかというと、「スマート」になる必要性が、生じたからなんでしょうね。
「スマート」でない「スキルだけのやつ」(ビジネスマンとして疑問符な)はいつまでもいつまでも「センス」を体得することはなく、よって、周りからの評価を得ることもできない。でも前回?書いたとおりで、昔々この業界の黎明期?のころは「スキルだけのやつ」でも周りからの評価を得ることができました。そして僕は、昔々、どちらかといえばそういう「スキルだけのやつ」に憧れていました。
◆
現在、この業界にどっぷり埋もれて仕事をしている大部分の人たちは、まさに今パラダイム・シフトが起こっていることすら理解しておらず、未だに「スキル」万能だと思っているかもしれませんね。
でもそれはたぶん間違っていて(というか、未来には間違いになるというか。。)、まずはビジネスマンとしてのセンスを磨くところに立ち戻っていったほうがいいと思います。さらに、ビジネスマンとしてのセンスを磨く前に、いわゆる「ビジネス・スキル」を会得するところまで戻らなければならない人も、多いでしょう。当然「コミュニケーション・スキル」もここに含まれてきます。
でも、ビジネス・スキルの会得まで戻ることは、スキル万能説をいまだに支持する人たちからみると「退行」もしくは「ムダなこと」としか思えないのかもしれない。でもそれで、よいのです。そういう人はそのままで。世の中には「棲み分け」というのが厳然としてあります。
「気づき」を得た人だけが、前進してゆけばよいのです。
◆
強引にまとめれば、[ビジネスマンとしてのセンス]*[いわゆるこの業界におけるスキル]=[システムエンジニアリングにおけるセンス]ということになりましょうか。
そしてここでやっと、「全人的存在」の話につながってきます。僕の考える全人的存在というのは単なるゼネラリストではないということは以前書きましたが、それはこの式に如実にあらわれています。
「システムエンジニアリングにおけるセンス」のある人は、ただの「スキルだけのやつ」ではありません。つまり狭義の意味での「スペシャリスト」でもありません。ゼネラリストもスペシャリストも超越した、おそらく(この国においては)未来形です。
そういう人は、「圧倒的なモノヅクリ」をやってくれそうな気がします。そういう人たちだらけになって、日本を変えてくれることを、願っています。
◆
読んでいただきありがとうございました。
こんにちは!
しばらく「ヒマ人擁護論」にかまけていましたが、久々に「全人的存在」ネタに戻ります。
前回(1ヶ月以上あいてしまいました)
「鶏が先か卵が~」の話で、企業側が社員をただのボロ雑巾、働くロボットとみなすことなく、一人ひとりを「全人的存在」として尊重するようになるか、あるいは社員個々が自身の「全人的存在」をアゲていって経営に存在を認めさせるか。
どちらが先か? と考えると、前者のウエーブはここ数十年単位ではこないような気がします。だから、後者(我々が立ち上がるとき)だと思っているのです。
企業の、社員に対するアメとムチの使い分けは、昔よりホント、巧妙になってきましたよね。ひとりひとりを尊重するような姿勢をみせてはいるものの、それはただのポーズにすぎません。
ところで、ここ数年でコミュニケーションスキルの話題が相当ウルサく(ウザく)なってきていると感じているのですが、まず、「もっとコミュニケーションスキルを!」といってる(発信している)のは、企業側だと思います。
言葉を選ばずにいえば、企業側の「洗脳」。なぜなら、この現代社会にほどよくアジャストされた「コミュニケーション・スキル」を社員の人たちに身につけてもらわないと、企業側が困るからです。
世の中の流れとともに、「コミュニケーションスキル」の具体的な手法も変わってきましたが、企業に庇護されている社員の皆さんの中には、確かにまだ追いついていない方も散見されます。
それは皮肉なもんで、会社員が企業側が求めるコミュニケーション・スキルをキャッチアップできていない理由が、企業側が自分のところの社員を庇護していたから、というところが面白い。
そもそもコミュニケーションがとれない人材なんていうのは「全人的存在」の定義的には失格。(それはアタリマエ)コミュニケーションがとれない人材を、企業側が切りたいのも、よぉくわかります。この高度に情報化された社会で、ビジネスパートナーや部下、上司、あるいは様々なシチュエーションで相手とコミュニケーションがとれない人材というのは、現代~未来のビジネス・シーンでは「無能」に等しい。
でも人間、コミュニケーションが「とれない」わけはないのです。人間なのですから。
我々はあたりまえのように会話ができます。メールも電話もできます。それでもコミュニケーションがダメダメであると思われている方がいます。それどころか、この業界は、そういうタイプの人間が比率的に多いと思われています。(本当のところはわかりません)それはなぜか?
を、書きだすと止まらないので別な機会に譲ります。
それでは我々は、かつて先達がやってきたのと同じように、「技術力」「スキル」をプロトコルとして、有無を言わせず、外部とコミュニケーションをとることができるのか? つまり、コミュニケーションにおいて相手が媚びへつらって、我々に合わせてくれる状況が今後起こりうるのか?
といえば、もはやそれは夢物語であると思います。でも、かつては間違いなく、相手が合わせてくれていた時代が、ありました。その(我々にとっての)バブルの時代から抜け出せていない方、危機感を持っていない方が、少なからずいらっしゃるということでしょう。
我々、もはや「職人」ではないのですから。そして、職人気質を羨望するのはもう、やめましょう。それは限りなく受動的であり、21世紀のエンジニア像にはもはやそぐわないのです。
さて、企業側が求める(一見)従順な人材に、我々がアジャストしてゆくのが若干悔しい、という潜在的な抵抗感、拒否反応も、わからないでもないのです。
だって彼らは、役に立たない人材は切るぞ、といってるわけですからね。(実際切るかどうかは別)アジャストしてゆくとは、その脅しに対して媚びへつらって従属している格好といえなくもない。オモテ面ウラ面両面で進められる「リストラクチャリング」に対して、不満を抱えている方は多いでしょう。
でもそれってかなり、前時代の組合的、サヨク的思考であって。
前時代と違うのは、我々はもはや「労働者」ではないのです。
労働者でない我々の目標は、企業に媚びへつらってそこにおいてもらうことではないのです。目標はもっともっと上にあり、「従順」はやすやすと超えていかなければなりません。
使い古された言い回しを使わせていただければ、会社にとって「なくてはならない」存在になるということです。経営層から「いてくれ」「オマエがいないと困るんだよ」と頼まれる(心から)存在。経営層と個々人との(ほぼ)対等なパートナーシップです。
我々がやるべきことは、簡単にいえば、一見従順と見せつつ、やがて我々が会社をコントロールしてゆく、ということでしょう。それが冒頭に書いた
♯社員個々が自身の「全人的存在」をアゲていって経営に存在を認めさせるか。
ということです。
もっといってしまえば、全人的存在をアゲてゆくと否が応でも経営側になってしまうのです。ただしその会社に留まる決断をしたならば、ということですが。
会社という器にはまりきらずに飛び出す方も大勢出てくるでしょう。多くの人は、自分にふさわしいキャパの会社(組織)に落ち着くのでしょう。
そして、今いる会社を経営する側にまわる、という選択肢も、もちろんあります。それは、素晴らしいことです。
大きな話をすると、それぞれが「全人的存在」をアゲてゆくというのが日本復興のキーとなる。もともと日本には素養のある人間がうじゃうじゃいて、世界最高レベルであることは間違いないのですが、そこをさらに突出させて、層を厚くして、世界との差別化をはかるのです。
なんだかエンジニアライフのほうと同じ結論になってきたような。。
たぶん、まだ続けます。読んでいただきありがとうございました。
こんにちは!
「ヒマ人擁護論」、自分なりに完遂感をゲットするまで書き出します。(ホント、すみません。。)
◆
ムカシいた現場で、社内SNS? いや、そんなたいそうなもんじゃないですね、だいぶ前ですので某IBM系のグループウエアの掲示板機能だったか、忘れましたが。。
管理職の方が書き込んでいたのです。ざっくり要約すると「みなさん定時帰宅して本を読もう でも、書いてる本人がぜんぜんやれてない。。」なんて自虐的に。投稿してる時間は22時ぐらいで。
そういう方は、もうあきらめたほうがいいのです、すぱっと。「定時帰宅」というものを。
そういう方は「ヒマ人」にはなれないのです。誰かに求められている仕事があって、それで夜まで仕事してるんでしょう?
別にそれで、いいのではないでしょうか。それを全うすれば。大事なのは、その仕事がムダではないか?惰性でやってないか? と常に考え続ける「問題意識」であって。優秀な方は仕事がばんばん入ってくるのが、自然なんです。
仕事が山ほどあるのに「定時帰宅したい!しなければ!」なんて思い続けてたら、それこそ身体に悪いのです。
なーんて書きましたが、こういうことを「すっ」と腹落ちできて、「定時帰宅したい!」なんて気持ちがカンゼンにどっかにいってしまった瞬間から、早く帰宅できるようになるんだから世の中不思議なものです。
信じるも信じないも勝手ですが。。でも世の中そんなものです。
◆
前回書いた掃除論(「攻めの掃除」の件)ですが、こちら、ビジネスマンの方々(特に若手の方)に対しても超・おすすめなのですけども、それはなぜかというと、これをやってると、本職のほうでも受け身の仕事から脱却してゆけるからです。
問われるべきはスキルではなく「姿勢」です。掃除習慣を続けていると、汚れたからキレイにしなければ(あー、めんどくさい)という「姿勢」から、「すでにほこりやちりはないけど、もっと磨いてぴかぴかにしようかな」という姿勢に変わってきます。あるいは、すみっこのほう、奥のほうが「もっと汚れてないかな?」と能動的に探してゆくようになります。掃除習慣という範囲でこの心境にシフトしてゆくと(なぜか)本業も劇的に変わってゆきます。
前者(「磨いてぴかぴかにする」)が、仕事を「深化」させるということ。後者(「もっと汚れてないかな?」)は仕事を求めてゆくこと。これらこそが、現在ビジネスマンに求められていることですよね?
お金もかかりませんしぜひ一回やってみていただきたいのですが、まー「イソガシい」を言い訳に誰もやらないだろうな、というヘンな意味での自信もあります。
◆
昔は「忙しそうにみえない」「自由に生きてていいね」「なんで白髪ないの」(余計なお世話デスw)等の飲み屋での相手の発言にいちいち腹を立てていたのですが、それはカンゼンに僕のほうが間違っていて、僕はそういうふうに他人にみられたいと潜在的に思っていたわけです。
そういうふうに他人に思われているということはまんまと「イメージ戦略」(笑)成功ということだったのです。
いつの頃からかやっと、そういうのを誉め言葉ととらえることができるようになってきました。寛容。まだまだですが。。酒の席だからといって「無礼講」を盾に、礼節を欠きつつ僕に絡んでくる方に対しては、立腹してもバチは当たらないのではないかと(笑)思っています。
昔は、「忙しそうにみえない」発言に対して脊髄反射的に「オレは実はオマエよりヒマじゃねえよ!」と思っていました。実際そう返すかどうかは、その発言のしゃべり方の「礼節度」によります。あまりに「上から」だったら言い返したりしていました。
僕には読書、掃除、育児、家事手伝い、体操など、地味なタスクを本当にたくさん抱えています。「派手な」タスク(繁華街に繰り出すとか、休日にトモダチとバーベキューやパーティするとか、スポーツするとか)を前面に押し出して「どうです、私は忙しいのです!」とセルフ・ブランディングしてくる方々と比べて、そのタスク数の多さは比ではないと思っています。(タスク数*ほぼ毎日行うものが多い)
その「派手な」タスクをやっているヒマがありません。僕の優先順位は1に仕事、2に「自分が続けると決めたタスク」なので、突発的な(一見、楽しそうな)イベントはその次です。(ただし、河島英五の唄ではないですが、昔の友との飲みの誘いとか、頼まれごとに対してはかなり優先度を上げます)
飲みといえば、いわゆる接待系については、月~木の19-22の間、というふうに、決めています。つまり、予定に組み込んでいます。ということは、月~木の19-22は、空いているのです。これが、私が他人に「ヒマ人」と思われているゆえんなのでしょうね。
空けているところに何も入らなければ、思う存分、積んである本を読めます。つまり、どっちに転んでもいいのです。
また完結できませんでしたので、続けます。ありがとうございました。
こんにちは!
なんだか「ヒマ人擁護論」についてどんどん書きたいことが出てきました。
なんでこんなに書くことがあるのかといえば、未だ自分に100%の自信が持てていないからなのでしょうね。自信が持てれば周りに対して過剰に反応することもなくなると思います。
でもホント、この歳になって思うのですが、若い頃と比べて、ヒマがないとクリエイティビティが生まれない、といいますか「育まれない」というか維持できないというか。。
1日数分でもいいから何もしない時間、「無」の時間を意識して捻出しなければならない。自分の品質をKeepするためなのですよね。いつまでも日常に流される自分に酔っていてはダメみたいです。
たとえばFacebookですが、友達や親類に対してまめに近況UPしてることを話すと「俺なんてぜんぜんログインする時間もないし」ときます。まるでその回答をすでに用意していたかのように、ね。
※そういうコメントをFB上でいただくわけではなく、もちろんオフラインでいわれることです
自分はある日から、ウオールに一日一センテンスでもいいから毎朝必ず近況をUPしようと決めて、もちろん一日も欠かさず続けてますし、どれぐらい経ちましたかね。。やっと、自分の生活サイクルの一部になってきました。
僕のこのアクティビティに対して素直に「いいね!」反応を示せる人は、見込みあります。(上からですみません、いつも上からいわれているのでたまには。。)
「それが何の意味があんの?」とか言い出す人は、ダメですね。そこには、継続ができる人間に対するヤッカミが絶対に入っている。人の ことなんかほっとけばいいのに、わざわざムダな工数(?)をつかって引きずり降ろそうとする。そういう人はひとつも、主体的に継続できていることが、な いのでしょう。継続「させられる」ことばかりで。
自信が、ないのでしょうね。
まめに近況UPするかどうかは、忙しい忙しくないの問題じゃないのです。と、いくら説明したところで(ある種の方々には)わかってもらえないのだと思います。誰に対しても平等に与えられている24時間を、何を優先に配分するかは自由です。流されるのも、自由。後悔しないように配分するのは、自己責任。
他人に誘われたから、とか、眠いから、とか、自分の人生を言い訳することはできない。
あ、そういえば、僕の場合毎日の朝のTodoとして10~20分の掃除。週次の掃除(20~30分)、月次(1~2時間)、半期(半日)、年末大掃除(一日がかり)すべて定型作業として組み込まれています。
これも、「ヒマ人」でなければやれないでしょうね。掃除っていうのは「イソガシい人」がまず回避するタスクでしょうからね。
掃除をしない人はいくらでも言うことはあるでしょう。いわく「死にはしない」「週に一度(あるいは月に一度?)で十分」「奥さんに任せてる(男子限定)」等々、すべて「毎日掃除することに意味あんの?」(そんなことより他にやることあるんじゃ?)ということを暗にいってます。
掃除は、フリーで生計を立てている自分の「仕事」のひとつです。もちろんこれで報酬はもらえませんが。。
たとえば、コンサルで独立した方とかをみていると、多くの方は時間をつくって、読書に充てています。生活かかってるわけですから、死ぬ気で時間捻出して読書してます。おそらく、サラリーマン時代の数倍。
それは、独立した方の「仕事」です。それで直接的にお金をもらえるわけではなくとも、かなり優先度が高いのです。
僕にとっての「掃除」はそれと同じ位置づけなのです。(もちろん、読書もしていますよ)
ところで、毎日掃除することの意味、ですが。これは僕の持論ですが、掃除は「汚れたからきれいにする」ではないのですね。「攻めの掃除」。スタジアムとかでよく「きたときよりも、美しく」と標語が貼ってありますが、それと同じような感じです。ある程度きれいなのであれば、ますますきれいにする、ということ。
強引にひきつけると、独立した方の読書も同じだと思うのです。必要にかられて技術書やマニュアルを読む、とかそういう直接的受動的なことではないのです。いつか役に立つかもしれないし立たないかもしれないけど、いつかご縁のある良き仕事のために、読んでおかなければならないのです。それと、自分をスケールアップしてゆくためにも。もはや、組織に埋もれて護送船団方式でビジネス・シーンを生き延びてゆくことはできない。自分が常にフロントなのです。
うーんかなりちくちくと攻撃的な文章になってしまいました。すみません。おそらく続けます。今日も拙い文章を読んでいただきありがとうございました。
こんにちは!
年末に、僕の中でかなり盛り上がっていた「ヒマ人擁護論」(および自己弁護)について、あっためていた続きの文章が「全人的存在」の話の展開がかなり長引いてしまったため、そのままになってしまっていました。
前回はこちら(12月)になります。今回久々に続きを書きます。
前回を強引に要約すると、僕は結構、人との約束とか、お誘いいただいた会とか、そういうのをスケジュールの最優先に持ってこようとします(他の予定が入ってこようとしてもブロックする)が、僕みたいな人間のほうが最近珍しいらしい、と。
約束よりも仕事最優先がふつう。いや、それもすごくわかるんですけど。。
僕の中では、人との約束も包括的には「仕事」に含まれるんですけどね。
「飲み会に皆勤」ではほとんど宴会部長ですが、「出席」と表明した会に皆勤って、当たり前なのかと思ったら違うんですね。
出席と表明した会であってもたまに「トラブル対応で。。」とかなんとかで、何回かに一度は欠席したり、すごく遅れたりするのが、ふつうらしいです。
つまり、「出席」と表明した会に皆勤していると「ヒマ」だと思われるようなのです。あいつ仕事してんのか?と。
たまに「トラブル対応で。。」とかいって欠席したりしたほうが「ああ、あいつもいろいろタイヘンなんだな」と評価UP。なんだかオカシな話ですよね。
居酒屋を予約するとキャンセルがきかないことが多いので、当日ドタキャンすると幹事さんにお金を払わなければならないことが多いです。その金額(飲み食いしていないにも関わらず、仕事で出席できなかったのにも関わらず、自動的に「上納」しなければならないお金)がそのままその組織への貢献度なのですよね。(このあたりのニュアンスは、わからなければ読み飛ばしていただいてかまいません)
それと、必ず遅刻する方、いますよねー 特に管理職の方。自分が「しんがり」で登場しないと許せないタイプ。会に間に合うよう時間調整するのではなく、会の開催時間になってやっと席を立つ、みたいな。
どうして、そういう人はそうなってしまったのでしょうね。そういう人は、自分の上職が主催の飲み会には必ず時間どおりに行くんですよね。
と、いいますか、そういうこの業界の風潮にはもう、半分嫌気がさしているというか(気を悪くしたらゴメンなさい)諦めてるのです。ヒマなヤツと思われるのであればまあそれでもよいでしょう。僕は一種の「リトマス試験紙」のような存在ですので、僕の行動に対して「あいつヒマそう」と考える人はちょっと。。
人と人とのつながり、約束ってのは、ないがしろにしないほうがいいと思います。僕はそういうふうに育てられたというのもあるのですが、21世紀はますます人のつながりって大事になるかもって思うのです。
人の行動は見られている、というのは知っていますか? と言いたいのです。僕は人の行動を、ものすごくよく観察しています。特に、「この人はどれぐらい誠実か?」という尺度で。
会合っていうのは人間観察のいい機会で。。「こいつ結構、仕切りうまいな」とか「けっこう気配りできるんだ」とか「こいつホント、人の話きかねーなー」とか、そういう人間像が、浮き彫りになってきます。そして、こういう場での評価がかなり、次の仕事に影響を及ぼします。(ホントです)
「こいつ、飲みにはほとんど遅れてくるな」とか「あいつ、だいたいいないな(出席表明してるのに」という潜在的な評価っていうのは、実はすでに致命的かもしれないのです。
もし、最近仕事がうまくまわってないなあ、と感じたら、ここ最近、他人にそういう(「誠実ではないかも?」という)評価をされるようなことをしていなかったか? 振り返ってみる必要がある。
僕がこうありたいと願うヒマ人というのは、定義は時間を「捻出」できる人ということです。
「忙しい現代人」(を装ってるだけかもしれませんが!)がヒマ人を差別wするのは、「世の中から必要とされていない人たち」というレッテルを貼りたがってるだけでして。。
でも、世の中から必要とされていて、ふつーに仕事もして、でもその仕事を効率化したりしてヒマな時間を捻出できている人、すなわち、「人生を謳歌できている人」はたくさんいます。
会社では管理職で家庭もあって家族サービスもして、みたいな。。このような「四面楚歌」と呼んでもいいぐらいな状況で、それぞれをそつなくこなしつつ、なおヒマを捻出できる、というのが、21世紀の妙齢サラリーマン(「アラフォー」といいたくない)でもっともクールなスタイルなのではないかと、頑なに信じています。
うーんおそらく本題にすら入っていません。。続けます。読んでいただきありがとうございました。