-サイゾー2007年8月号山形道場(山形浩生)
「実際の深い人間関係は、多くの人にとって面倒なものだ。家族ほどうっとうしい
ものはないし、親友だと思っていたやつがいきなり新興宗教にはまってツボを売りにきたり。
親しいということは、頼まれごともされるということだし、そのために金も時間も
割かれるということだし、相手に気遣って、やりたいことも控えなきゃいけない。
そんなのはみんな、面倒くさくていやなのだ。そして、実際の社会も、そうした
深い人間関係をひたすら阻害する方向に動いている。
(略)地域の人間関係が強化されるというのは、他人が-ご近所のみなさんが-
あなたの行動を監視し、詮索することを認めることだ。ご近所さんたちが、あなたの
行動に対して意見し、口出しし、介入することを許さなくてはならない。
あなたの所有管理する各種のアイテム-家や子ども等々-に対して他人が手を出すことを
認めなくてはいけない。でも現在ではそれは、プライバシーの侵害であり、他人の子どもを
ひっぱたいたら暴行で、人の子を家に上げてお菓子をあげても誘拐だ。(略)
職場でもそうだ。(略)親しくつきあうというのは、プライベートな情報を相互に公開し、
胸くそ悪い陰口やゴシップ、好きでもない上司や同僚との宴会、どこからともなく
回ってくる縁談-そういうものも受け入れるということだ。でもそれだと「それは
強制だ個人情報なんとかだ私的な行動への介入だ、XXハラだ、自由とナントカ権の侵害だ」
ということになり、裁判されて負ける。司法だって職場の人間関係の希薄化を
後押ししているわけだ。
昔から、人間関係の面倒さは理解されていた。君子の交わりは水のごとし、と言われるのは
そのせいでもある。君子だから交わりが水のようだ、ということでもあり、また
交わりを水のように保つからこそ君子ヅラしていられる面もある。イエス・キリストは、
自分の故郷の村では説教できなかった。聖書には理由は書いていないけれど、小林よしのりが
初期の「ゴーマニズム宣言」で述べたように、かれですら昔の人間関係が濃いところで
神妙に説教するのは恥ずかしかったにちがいない。でも昔は、よほどの聖人君子以外は、
そうした人間関係がなければ生きていけなかった。大がかりなインフラ整備や災害対応には
互助組織に頼るしかなく、そのためには人間関係を強めるしかなかった。(略)
いまは人間関係が希薄になったために社会に影響が出ているんじゃない。
社会が変化して人間関係に頼らなくてよくなったからこそ、それを希薄化できるようになった、
というのが実態なのだ。みんなが望まず、制度的にも積極的に弱体化し、そして
現実的になくてすむようになっているものを、本当に復活させなくてはならないんだろうか?」
(おわり)
「山形道場」、相変わらず良いですね。
自分の、昭和ノスタルジーへの憧憬、みたいな風潮に対する違和感の根源はここにあります。
昭和というのは、もっと人間関係が濃密だった。そこにホントに戻りたいのか?という。
私は、ゼッタイにイヤですね。だから「実力行使」で東京に出てきたのです。
東京に出てきたらあまりに人間関係が希薄なもんだから、自分が家族を持ったら、
やっぱもちょっと濃密な人間関係がいいなあ、なんてムシがよすぎます。
私は他人の生活にほぼ、興味ないですし、興味ないから結果として詮索することはない。
ので、他人にも自分の生活を詮索してほしくないのです。これは、わがままではないでしょう。
自分の生活はほぼ、自己責任で、まっとうしようと考えているのです。実現できるか
どうかは別として、そういう「気概」をもっているのです。
ムカシに戻るというのは、そういうことではないのです。
生活レベルをムカシに戻しましょう、そうすれば自然に、精神的なところも戻ってゆきますよ、と
いうことです。
生活レベルを落としたくないから、本質には目を背ける。。
「質素に」といっているだけなのです。あれほど「モッタイナイ」の大合唱をしているのに、
「質素な生活」はできないのでしょうか。