【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

物欲からの解放

2010-02-20 08:26:15 | 自分のこと、とか
かつて、自分が物欲の権化と化している状況がすごくイヤだった。

オイラはムカシ、貧乏だったはずなのに正統なる「物欲に忠実な、為政者のしもべ」だったように思う。

ハードウェアの新製品はステレオタイプに欲しがった。(ほとんどは買えなかったけど)
でも今になれば、自分はなんてカネの使い方が下手だったのだろう、と思うことができる。
物欲の洗脳は、すでに解けている。

誰もがこの洗脳を解くべきだ、とはいわない。ヒトによっておカネの使い方は違うし、何を買うことによって最高の満足度を得るかっていうのもヒトによってまったく違う。

でもオイラは、物欲の洗脳がとけた時点でなんとなく、あ、一歩先をいったな、という気が、したのね。

なぜなら、オイラはこのギョーカイにいるから。
このギョーカイって、そういうヒトあんまりいないからね。




その姿勢が、もし、このギョーカイの大多数を占める「理系テイスト」の習性と異なるのだとしたら、僕のこのギョーカイでの立ち居地はビミョーだ。

もともと自分は、どのワールドのメインストリームにも存しないマージナル・マン(「辺境人」とでもいおうか)だから、自身でジレンマがある。

メインストリームに飛び込みたいくせに「どうせあのぶどうはすっぱいんでしょ」と飛び込まない。そんな自分がほんの少しだけキライなんだけどね、

でもこれはきわめて個人的なことだ。


マージナル・マンでいる利点は、一歩俯瞰した位置で動向をウォッチできること。
(それは、「斜に構える」とはちょっと違う)

オイラは、一歩俯瞰した位置でふらふらとさまよいながら今後もこのギョーカイを渡り歩いていけるのだろうか? という壮大な実験をしているような気がしてならない、

オイラの次の命題は、物欲にまかせてケータイを買い換えたりしない人種である自分は、このギョーカイにとどまる価値はあるのだろうか?
オイラ の属性はこのギョーカイで立派な「個性」となりうるだろうか?

といったところだ。