『弥山』の話が途中のままだった。
しかし、あの作品との出会いからの不思議なつながり現象はいまもずっと続いている。いや、ますますスピードアップしてとどまる様子がない。
昨日も、応援に入っている上映会場(『地球交響曲第六番』只今恵比寿の東京都写真美術館ホールにてロードショー中 http://www.gaiasymphony.com/g6roadshow_tokyo.html)にて、或る方に話かけられた。聞けばその方が熊野の奥の院で神事をされていて、この4月に熊野の鎮魂が成就していま、全世界で、かつての古代からのみ魂たちの鎮魂の儀式がはじまっているとおっしゃる。そう聞いただけでは????の話だが、しかし・・・その方たちも来週はそのために高千穂に行かれ、次はアボリジニの一族とオーストラリアに、と。あいやー。偶然!?高千穂へは先日、私も、生まれてはじめて行ってきたばかりだ。しかも、その方の目的は熊野から神武天皇の通ってきた道を逆行して、それで最後は高千穂にということで、まさに私たち(同行は弥山の作家とその奥様、スピリチュアルで美人で演技も素晴らしい某女優さんのお母様と、才能あふれる若い写真家と、そして我が家族だ)が先日訪れた『八紘一宇』の碑のあの場所まで行かれるというのだ。
そして、私が『弥山』にめぐりあう直前に起こったあの、三重県の熊野での地震は今の流れまでの予兆であり、いまや岩戸は確実に開いたとおっしゃる。
そういえば、幣立てとはホピ族の言葉でヘイタテ・扉を開ける、という意味と、帰ってきてから知った。
・・この『弥山』ばなしになるといささかディープで、映画や音楽感想のはずのこのブログの域を超えてしまうが、だがしかし、いまや世界はどうやら見えないところでディープな、というか、これまでになかった状況を迎えているのだ。
それが、目に見える形だと『不都合な真実』であり、目に見えない形でもイロイロあるわけなのだ。
我が家の『弥山』の下には今、これまたいわく因縁つきの或る歌の書かれた紙が下がっている。この二つが共にあることはきっと何か意味があるのだろう、そう思いながらその前で想いを正す毎日。しっかり生きよう。