『どろろ』を観た。観るつもりはまるでなかったのだが、ちょうどよい時間帯にやっていたのだ。もちろん作り物ではあったが、意外な収穫感があった。柴崎コウの、似合わない俄か口調には終始抵抗は否めなかったけれど。
魔物に天下統一の夢と引き換えにわが子の身体を差し出した父親。
その結果、育ての親に作ってもらったつぎはぎの偽もののの身体をホンモノに戻すために、魔物たちからひとつずつ奪い返して旅をしていかなくてはならない運命を背負った青年百鬼丸。
彼は、その運命の理由を作ったのが父親だったとは知らず、内心は生みの親との再会に希望をつないでいた。
そして、旅の途中で彼と友情を深めながら連れとなった”どろろ”。
どろろもまた、過酷な過去があり、父母のあだ討ちを生きがいに旅をしていた。
だが、思いがけないことに、どろろの狙う仇こそは、今ではひそかに心の中で愛するようになっていた百鬼丸の実の父だった。
そのことを知って苦しんだ末、いったんは別々の道を行き始めた二人だったが、戦いに疲れ、身体をとりかえしてまで生きる望みを失った百鬼丸の前に再びどろろが姿を現す。
『おいらも仇討ちをあきらめるんだから、お前もちゃんと生きやがれ!』と。
そして、またしても今度は己自らの身体を魔物に明け渡すことを交換条件にしてまで一族の繁栄に執着する父との対決に追い込まれていく。
やらなければやられるというその時に、父親を組み伏せながらもとどめをささない百鬼丸。『なぜ、わしにとどめをささぬのか』と言う父親に答えて、殴られて地面に倒れているどろろを指差しながら百鬼丸は言ったのだ。
『あいつ(どろろ)も憎しみを捨てた、だから俺も憎しみは捨てる』
そうなんだよね。
憎しみが終わるのはなにものかの愛に触れられたときだ。
愛は愛からしか生まれない。なかなか深いじゃないか、この娯楽映画!
ミスチルのエンディングの歌を聴きながら流れるテロップをみていて、やっと、そうだ原作は手塚治虫だったんだと思い出した。さすがはオサムシ。時がたとうと形が変わろうと、ちゃんとあなたのエッセンスは残っているのでした。
魔物に天下統一の夢と引き換えにわが子の身体を差し出した父親。
その結果、育ての親に作ってもらったつぎはぎの偽もののの身体をホンモノに戻すために、魔物たちからひとつずつ奪い返して旅をしていかなくてはならない運命を背負った青年百鬼丸。
彼は、その運命の理由を作ったのが父親だったとは知らず、内心は生みの親との再会に希望をつないでいた。
そして、旅の途中で彼と友情を深めながら連れとなった”どろろ”。
どろろもまた、過酷な過去があり、父母のあだ討ちを生きがいに旅をしていた。
だが、思いがけないことに、どろろの狙う仇こそは、今ではひそかに心の中で愛するようになっていた百鬼丸の実の父だった。
そのことを知って苦しんだ末、いったんは別々の道を行き始めた二人だったが、戦いに疲れ、身体をとりかえしてまで生きる望みを失った百鬼丸の前に再びどろろが姿を現す。
『おいらも仇討ちをあきらめるんだから、お前もちゃんと生きやがれ!』と。
そして、またしても今度は己自らの身体を魔物に明け渡すことを交換条件にしてまで一族の繁栄に執着する父との対決に追い込まれていく。
やらなければやられるというその時に、父親を組み伏せながらもとどめをささない百鬼丸。『なぜ、わしにとどめをささぬのか』と言う父親に答えて、殴られて地面に倒れているどろろを指差しながら百鬼丸は言ったのだ。
『あいつ(どろろ)も憎しみを捨てた、だから俺も憎しみは捨てる』
そうなんだよね。
憎しみが終わるのはなにものかの愛に触れられたときだ。
愛は愛からしか生まれない。なかなか深いじゃないか、この娯楽映画!
ミスチルのエンディングの歌を聴きながら流れるテロップをみていて、やっと、そうだ原作は手塚治虫だったんだと思い出した。さすがはオサムシ。時がたとうと形が変わろうと、ちゃんとあなたのエッセンスは残っているのでした。