運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

マウイ・ヘブン

2007年06月27日 20時07分49秒 | Weblog
『アロハ・ヘブン』という、ハワイの曲を集めたアルバムが大キャンペーン中だ。
もともと日本人にはハワイは合うのだ。このところのハワイへの回帰ぶりは、たんにフラ・ダンスブームのせいだけではない。
ハワイも沖縄もアラスカも、みんなつながっている、ルーツをたぐれば超太古のあの世界にまで。
 さて、そのキャンペーンワゴンの前を通ると、んんん。。匂いがするぞ。あの気配だ・・そう思ってモニターの映像を覗き込むと、珍しく、ただのハワイ観光ビデオではなく、マウイ島だけに絞ったゆったりした映像が流れているではないか。
小さなモニターの前でひたすら深呼吸しながら釘付けになっている私の姿に不安を覚えた店員さんが万引きでもされないかと?チラチラ視線を送っているのもものともせず、私は思いがけなく出会えたマウイの精霊たちの姿にうっとり。
 あの映像は偉かった。何でもない入り江や小さな岬に陽が登り、光の角度が少しずつ変わっていく様、たゆたう水の面などをただ、ずーっと静止して捕らえている・・・ああ、これだ、これが、マウイの真髄、これが、私の神様だ。
光の雫、水のきらめき、風の色、陽射しを受ける葉とその影・・・
この神たちと直接交流することができてしまう。だからマウイは特別だ。ここでは、神にはなんとかのミコトだのミョウオウだのの名前はない・・言葉もない。このしずかな確かさから音が発せられるとしたら、それはやはり、マナ、とかアマとか、プアとか、まさにハワイの言葉にある母音中心の音が思わず漏れぐらいだ。

 ありがとう、予期せぬギフト。とうとうホクレアには会えなかったけれど、こうしてマウイのかけらをもらって、いっぱいエネルギーチャージ☆
いつも、どこかでつながっている・・・アロハ。

ふたつの風 ー風のバイオリンー

2007年06月25日 09時49分27秒 | Weblog
バイオリンというよりチェロを聴くときのような感じだ。
目の前で弾いてくれているのに、古い蓄音機から聴こえてくるように、そして蓄音機には、現在のCDのようなデジタル化された音からは排除されてしまう周囲の空気の気配が混在していたように、そのバイオリンから響く音には風がまとわりついていた。・・偶然、6年振りくらいに聴いた盲目のバイオリン奏者、穴澤雄介君の奏でる音は、たくましく、しかしナチュラルに、太い幹のようになっていた。
 きけば最新アルバムをもって全国デビューしたという。すべてオリジナル曲で構成されたそのアルバム名は『あの木に寄りかかって』。
想いや感じることを植物や自然界のものを通して作曲するという彼のメロディーは、人生の深みを感じさせながら、それを明るく処理させる天然の美しさ、メロウさがある。
タイトル曲『あの木に寄りかかって』は、幼くして母親とは生別し、兄弟三人で父親に育てられた彼の、父親への想いが奏でられている。私は、その曲を聴きながら、阿蘇の『風の丘美術館』の大野勝彦さんという義手の画家が思い出されてならなかった。
45歳で、両腕を農機具に巻き込まれ、三人の子供たちを思い浮かべて、まだ死なれん!と自ら両腕をひきちぎって、腕の無い生を選び取った大野氏。すべてを受け止めて、挑戦しながら、自然の中の物を義手で絵と詩に表わし続けている。
阿蘇の麓にあるその美術館の庭にあるケヤキの樹は、大野さんの心の樹だが、そのケヤキに人生と想いを語りかける大野さんの姿が、曲を聴いている間中なぜかオーバーラップして泣けてしまったのだった。そして、その曲が収録された穴澤くんのアルバムを買おうとして、ジャケットを見て再度驚いた!だって、すでに持っている大野さんの詩が朗読されたCDのカバージェケットとそっくり!なのだ。もちろん偶然だ。美しい夕焼け空を背景に立つ一本の木。構図まで同じだ。またまた運命好きな私のアンテナが動き出した。いつか、穴澤クンと大野さんのジョイントを!!・・はてさて、実現はあるだろうか。
ちなみに これが穴澤君のアルバムhttp://www.rakuten.co.jp/onko/499505/1844371/
そして、これが大野さんのもの。http://www2.infobears.ne.jp/oonokatuhiko/ 
大野さんは、先日NHKでも大きく紹介され、来月は二冊の本が同時刊行される。
http://www.sunmark.co.jp/00/special_t/frame_index.html

風の音がするバイオリンと風の丘の美術館。二つの風が全国に吹いてゆく。


アポカリプトと鎮魂

2007年06月23日 00時09分13秒 | Weblog
その昔『テキーラ・サンライズ』や『燃え尽きるまで』なんかのメル・ギブソンに恋していたことがあった。オーストラリア版加山雄三という感じの陽性の笑顔の中に、知性と幼児性が共存してるようで・・・。そんなあっけらかんとし感じの彼が監督を手がけると、これでもかこれでもか、と執拗なリアリストぶりの作品になり、その真意を汲み取りきれない。正直言って好きなタイプの映画ではないはずなのだが、重いのにひきつけられて観てしまっては後味のざらつき感をもてあます。
『パッション』、もそうだったけれど、今度の『アポカリプト』にいたっては、うわー、勘弁、という場面も本当に多かった。あれは人間の真実であり、一つの側面であるから、それを徹底して描くことは今回大変意義があったのだが、マヤ文明に惹きつけられていて、それで観ようと思った方は、これを描くために、わざわざマヤが舞台である必要はないのではないかと複雑な思いになるのではないか。
 しかし、深いものはあった。いやというほど、人間としての殺戮の繰り返しや、過去生では他人事ではなく当事者であったこともあるのだということや、現在だって、すべての人間のしていること、想念の生み出すことに、つながっているのだという責任というか、それらすべてふくめて全部自分だということを突きつけられ、本当に償っていかなくてはならないからいまこの時代に生まれているのだと感じた。あの映画を観て、考えられない行為のシーンに、あれは私だ、私のかつての姿だ、いまの世界の一端だ、そう肝に銘じて己のあり方を正すことは、今度太陽が暗くなる前に必要なことなのではないだろうか。
 
巷はアリガトウが根付いてきてよいことだが、ゴメンナサイを踏まえたアリガトウ
にならなければ自己満足になってしまうのだ、メル・ギブソンの連作は、みんな、私たちに自分の『ゴメンナサイ』を気づかせるためにあんなに執拗に、制作費を投じてがんばっているんだろうかと思ったりした。
帰りに、フェアトレードの店で見つけた携帯用の箸を家族分買った。とりあえずはそんなことでもせずにおれないのだった。そんなことしかできないジレンマを感じながら。

ひらいたひらいた

2007年06月11日 18時04分06秒 | Weblog
2007年、いろんなところで、いろんな人から『岩戸が開いたんですよー』と聞かされる。岩戸というのがなんなのかは私は正確には知らないのでそうなのかあとうなずくばかりだ。 だが、そんな私でも、新緑の色や空の色が一段と鮮やかになって、世界の空気が変わったことは肌で感じられる。
ことに、花の色だ。花は前から美しい。だけど、どうですか?今年の春からのその凄まじさは。色素の明度が上がったのか、はたまた空気が澄んだのかわからないけれど、歩くたびに目につく花たちの色に圧倒されたり魅了されたりで、そのたび寄っていっては『きれいねー』と話しかけてあやかろうと深呼吸するのでどこへ行くにも時間がかかってしまう。これも岩戸が開いたゆえの現象なのか。

 さて、そんな折、行ってきました。神戸の『開く』展。輝きがいっそう不動のものとなった陶彩画の抽象に混ざって、光が滴り落ちるような花たちの姿が。
この写真は作品ではなく作品の写真から作られたポスターを写しただけなのに、片鱗がおわかりいただけると思う。3Dのようにも見えてくる輝く芍薬やバラやアネモネ・・花好きな私は、絵に描かれた花では満足できないのだが、この花たちはすごい。秘かに『超花』と名づけているが、花の持つひらくという性質を三次元を越えたところからつきつけられたような感じだ。
こんな風に、花だけでなく、ものみなすべての魂、本質、もちろん私たちヒトの魂も
ひらいていくのだといい。いや、きっとそうなれる。みんなでお互いの開花を助け合っていきたいと、あらためて超花の前で願いつつ身震いしたのだった。