運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

「アルケミスト」と「とらばーゆサポーター」

2006年08月28日 23時22分25秒 | Weblog
私の特技はどこででも四葉のクローバーを見つけることだ。
先日も長野で一泊したペンションの庭に出たとたん、一瞬で一本発見して家族に「凄い」とあがめられた、いや、呆れられた。
それからもうひとつの特技。
それは『とらばーゆ・サポーター』だ。
仕事がつまらない、いやなんだけど安定を失うのはこわい、でも本当は違うことがしたい・・なんて悶々としている友人・知人の肩を無責任にポンと一押ししては(たまにはツテやコネを紹介したこともあるが)数々の転職成功例を目撃してきた。
自分ではそんなことは目指しても仕事にしてもいないのだが、なぜだか、いつも、
数年ぶりにばったり会ったら、その人もそうだったというように、私の周りには
人生の転機にさしかかっている人が寄ってくる。

パウロ・コエーリョの『アルケミスト』という小説が角川から文庫化されて出た当時は、私の好きな「運命に出会う瞬間」満載のそのストーリーとシンプルかつわかりやすい内容に、いつもかばんに入れて持ち歩いて読んでいた。
出会う人、出会う人、話を聞けば転機の迷いの中で、なぜかその相談や愚痴を聞く羽目になるので、そのたびに「これあげるから読んでみたら?」と毎回あげてしまい、また新しいのを買って持ち歩いては、今度こそ誰にもあげずに自分のにしておくぞ!と固く決意するのだが結局あげてしまう。遂には、訳者の山川夫妻のサイン入りのまで、或る若い女性にあげてしまった。
その女性はその後、損保のOLを辞めて昔からの夢だったインテリアデザイナーの学校に通い、試験を受け、今はプロでやっている。海外に行った人、ライターになった人、『あなたには○○みたいな仕事がぴったりよ。紹介してあげようか!』と根拠レスに薦める私みたいな私的人材派遣とは違って本当の人材派遣会社で
バリバリにトレーナーになった人もいる。
みんな私から、ポンと肩を押されて、『アルケミスト』の文庫を渡されて、やりたかったことがある方向にに舵を取り直した人たち。角川から謝礼が来てもいいくらいだ(?)
あの頃、『アルケミスト』は新鮮だった。
「おまえの心があるところが、おまえが宝物を見つける場所だからだ」
・・最近では言葉を変えて、いろんなところで言われ、書かれ、みんなが知っているこのことを、この本は初めて教えてくれた。
自分の運命を、夢を追求していく道筋にいるとき、人は前兆に出会う。
そして、この小説の少年を導いた錬金術師のように、本当は自分で知っていて忘れているだけのことを呼び覚ましてくれる人物にも。
じゃあ、私が当時やっていたこともプチ錬金術師だったのかな。
いや、しかし、それにしては自分の天職さえもまだ見つけられないし、とらばーゆのきもちすら今は忘れてしまっているぞ。誰か私のアルケミストになってくれないかしら。
・・私の心があるところ、それは野原のクローバです・・まさか、天職は四葉のクローバー探し・・それって儲かる??

夢からの帰り道

2006年08月22日 12時23分17秒 | Weblog
河合隼雄氏が倒れられた。まだ意識が戻らないという。
かつて、高校時代にユングの自伝を読んで、無意識の世界に惹かれ、NHKの大学講座『無意識の構造』という番組を毎回待ち望んで必死に見た。その時の講師が当時京都大学の助教授だった河合隼雄氏だった。目からウロコのわかりやすい講義に感嘆し、複雑なことを簡単に話することができる人こそほんとに頭がいいのだと知った。なんだかはんなりとした京訛りの、冴えない狛犬みたいな顔のこういう人が(失礼 )と、驚きながら、以来、勝手に師と仰ぎ、ずっとマークして、みるみるご活躍、注目されて雲の上の人になっていくのをみていた。
それが、二十年近くたって、或るドキュメンタリー映画の監督のところで仕事をしているとき、その監督と河合氏が魂で通じ合う友として想いをともにされていることを知った。何もそんなことはめざしていなかったときに、また河合さんが近くなったと勝手にオドロキ喜んだ。人生は不思議である。電話をとりつがせていただいたこともあったが磊落で、ふだんのまんまで、素敵だった。
やがて、京都の西川千麗さんの『明恵上人とアッシジのフランチェスコ』という踊りの会ではじめて直接お目にかかりお話することがゆるされた。
私は、色も褪せ、ところどころめくれ上がった20年前のNHKの講座のテキストを手にして立っていた。そのテキストにサインを頂戴できたならと、お見せしたときの『ウワーッ!!なつかしなー!』との京訛りのお声が今も耳に甦る。
現在、まだ78歳。90過ぎても、好々爺として、茶目っ気のある、しかし最高級の知性の長老として活躍し続けられる方のはずである。まだまだこの国に、私たちに先達として必要な方だ。今回、倒れられることでおとりになった思いがけない休暇で、文化庁の忙しさではゆっくりみていられなかった大好きな夢の世界を遊びまわられているに違いない。
楽しいお土産話をもって、またこの表層界にもどってきていただきたい。
・・お待ちしています。

星野道夫ふたたび

2006年08月14日 00時39分10秒 | Weblog
私の誕生日は11月5日の朝の8時20分、そして、パートナーは5月11日の夜の8時20分生まれである。
誕生日の数字がことごとくが逆さまなせいなのかどうか、彼と私の感動のツボもいつもマギャクである。

その二人が、松屋で行われていた星野道夫展の会場に足を踏み入れたとたん、ほぼ同時に、感無量に。やはり、圧倒的だ。いいものはいい。

かつて、何度も観たはずの作品も、読んだはずの彼の言葉も、まるではじめて出会ったかのように、一回ごとに違う角度から、そのときどきの私たちを照らす。
『忘れていないか』『ちゃんと生きているか』そう問われてしまう。

彼の撮ったものたちはなぜすべて、こんなに生きているのだろうか。
カリブーも、白熊も、白頭ワシも、花も、岩も、大地も、稜線も、何もかも。
もしも、空から神様がこの地球上のすべてを愛情をもって俯瞰したならきっとこんな感じに見えるのだろうと思ってしまう。

星野道夫がアラスカと出会った瞬間は、神田の古本屋でシシュマルクという村の本を手に取ったとき。
そのときに彼の中をはしっだであろう静かな電流を、勝手に思い浮かべて身震いして、さらに、
   『  私たちには、多くの選択などないのかもしれない。
      それぞれの人間が
      行き着くべきところに
      ただ行き着くだけである。      』
という彼の言葉にうたれてしまう。
それは決して自力を放棄した受身の者の言葉ではないだけに
それをも超える、大きなものがあるということを厳かに感じさせられるのだ。

最近、ようやく合点がいったことがある。
映画であれ、小説であれ、音楽であれ、私が思わず泣けてしまうものは共通して
誰かの目の前に、その者の運命が姿をあらわす瞬間が描かれている部分だということだ。
ささやかな、予言的な象徴であれ、美しい音楽とともにクローズアップされているシーンであれ、とにかく泣けてしまう。

それにくらべ、我がパートナーは、運命と出会う部分はとんと響かず、運命を切り拓くシーン、立ち向かうシーンにやたら感動するタチだ。
先日、亀田親子のタイトル戦を観るために、早々に帰宅してきた大興奮ぶりだった、が、これは誕生日が逆なせいではなく、男と女という性別の違いか。
(男って、なぜ格闘技が好きなのだろう。)

というわけで、このブログを見つけてくださった方の中には、この紛らわしいタイトルに、占いか何かを期待され方がいらっしゃるかもしれないけれど、実はただ、『運命と出遭う時』のシーンにいたく弱い私めが、感動したものをつれづれに紹介していきたい、そう考えて始めたブログなだけなのであります。どうぞヨロシク。