日々雑感

残りの人生 こころの趣くままに

終戦記念日

2013-08-15 | きいてきいて
今日は終戦から68年。
この大戦直前に生まれたので、
戦争の真記憶は勿論ゼロ。しかし終戦間際が
物心の付き始めでしょうか・・

空襲警報のサイレン
色柄も記憶にある防空頭巾に決戦服
町内の防空壕に走る人々
疎開先で見た夕焼け
断片的な記憶がよみがえる



終戦後の記憶はもうハッキリした物です
街角に立つ傷痍軍人
MPの闊歩する通り
馬力運送の往来。

食糧難や物資不足は、当時のワタクシには
あずかり知らぬ事ながら
家族、否 日本の今日がある を思えば感慨深い



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6 コメント

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オールドレディーさま (suri-riba)
2013-08-16 10:23:56
終戦直後の記憶は映画のシーンさながらでしたね。

大阪の下町では 解放された**国人が大暴れしたり
進駐軍のジープをながめたり・・と、ケイケン豊富な少女時代を過ごしました。
が、あの脱脂粉乳のスープには泣かされました。どうしても喉に通らず、オェ~となって(笑)
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アリッサムさま (suri-riba)
2013-08-16 09:39:29
私の年代でこの戦争話も終焉するでしょう。

でも二女ちゃんの学校には「鎮魂の会」があるなんて・・
戦後史だけでもきちんと教えて行くべきと思うのですが。
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sirousagigamanoho (suri-riba)
2013-08-16 09:25:37
いい記憶ならハッピーですが・・。記憶の初めがこれでは「私の人生くらかった♪」(笑)

68年で幹線道路から違った道に入っていまったかなぁ・・
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Unknown (オールドレディー)
2013-08-16 09:08:17
1941年12月8日、真珠湾攻撃で日米開戦。その半年前の6月に誕生したババ。終戦少し前の岡山大空襲が3歳、自分の記憶のようでもあり、聞き伝えで記憶にあるのか、定かではないが、母の背に追われて逃げ回ったような気がします。
頭にかぶせられた毛布を払いのけ、焼夷弾の火花が花火のように見えたというのは、多分聞き伝えの記憶でしょうね。

戦後の記憶ははっきりと残っています。物のない時代で、祖母と米を持って汽車に乗っているとき検閲があり、足で座席の下に米の袋を蹴り込んだことを覚えています。
戦後は父の仕事先の呉市にいましたが、連合軍兵士の話、夜の女、混血児のことなど話せば尽きません。
「ギブミー、チョコレート」とMPのジープを追う子ども、映画のシーンではない現実のものでした。
米軍の軍需物資に助けられたのも事実ですが、給食の脱脂粉乳のスープには泣きました。
あれから68年、長い年月が過ぎたのですね。
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Unknown (アリッサム。)
2013-08-15 20:41:01
昭和ヒトケタの父はきのうのことのように語ります。
父の卒業した小学校が、模擬原爆で20年の7月に破壊され、
校長先生を含む3人の先生が殉職されました。
今、その小学校では二女が学び、3人の御霊を祀った殉職碑が中庭にあります。

B29が、自ら落とした原爆の爆風と放射線を浴びないように
「落としたら逃げる」の練習をしていたようです。
毎年7月に鎮魂の会を開いて、その事実を語り継いでいます。
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終戦記念日 (sirousagigamanoho)
2013-08-15 20:30:26
68年前の自分なんて人と呼ばれる前段階!
街の利発な子供と田舎の能天気な子供の相違がここでもはっきり。経験も記憶もその後の人生に大きな影響。
年だけは同様に過ぎてゆきますが。
後何回鎮魂のこの日をお互いに迎える事が出来るのでしょう。
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