私の碁盤(東京都内から)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
私は「ダメ」という言葉が大嫌いです。
「ダメ」というのは、あるものを強く全否定する言葉です。
「ダメな成績」、「ダメな顔」、「ダメな行動」、
こう聞いて思い浮かぶのは、「点数にすれば50点ぐらいのもの」ではなく、「ほぼ0点に近く、点数にしたくもないもの」という場合がほとんどではないでしょうか!?
それぐらい「ダメ」という言葉は強烈で、その強く否定する力や空気が、前向きな気持ち、大袈裟に言えば生きるエネルギーを奪ってしまうのです。
だから、「ダメ」という言葉は目にも耳にも触れたくない。
そしてまた、私と同じ考えの人、つまり「「ダメ」と聞くだけで不快になる」という人も、
多くいるのではないかと思うのです。
さて。
この「ダメ」というのは、漢字で書くと「駄目」で、元々は囲碁の用語でした。
囲碁では線と線の交点を「目」といって、その「目」の数を競い合うゲームですが、
この「駄目」というのは、「ゲームの勝敗に関係のない目」を指す言葉なのです。
要は「役立たず」とか「無意味」ということで、「ダメ」というのは結局、囲碁でも実生活でも、「全否定」という意味では同じ使われ方をしているわけです。
しかし、です。
囲碁は目に見えるゲームで、碁盤にしろ碁石にしろ、どこにどんなものがあるかがわかるから、
どれが「駄目」なのかもわかります。
ただ、実生活、つまり人間やモノを「ダメ」と呼ぶ場合、
「軽々しく全否定する言葉を使って、あきらめたり放棄していいのか」と思うのです。
「ダメ人間」という言葉があります。
「ダメ」の意味通りに解釈するなら、「生きている価値もない、役立たずの人間」ということで、
「ダメ人間」というのは、本当は思っている以上に残酷で愛のない呼び名だったりするのです。
しかし、どんな人にも個性はあるし、それぞれに積み重ねた経験もあります。
それらを活かすことも鑑みずに「ダメ」という言葉でバッと切り捨ててしまうと、
本当は有用な資質、埋もれているかもしれない資質まで「ないもの」とされ、活かす機会がなくなってしまいます。
あるいは、その「ダメ」という言葉の強さで、なんとかエネルギーがなくなってしまうかもしれません。
だから、「ダメ」という極端な言葉は、可能性を探るどころか見殺しにするわ、生きる意欲を削ぐわで、
使えば使っただけ不幸の種が蒔かれてしまうのです。
自分に対しても同じです。
時に自分を否定したり、自己嫌悪になることぐらい、
誰だってあるでしょう。
でも、同じ「自己否定」なら、もう少し柔らかい自己否定をしましょう。
具体的に、どこが至らなかったのか。
たしかに一部はいただけないかもしれないが、それで自分を全部否定する必要はあるのか。
いましがた欠点になっていても、それが逆に活かせる場はないか。
こういう「少しは活きる部分、実になる部分があれば、そこを元手にしよう」という発想は、
「ダメ」という言葉を使っている限り出てきません。
だからこそ。
自分も誰もモノも、もう「ダメ」と呼ばわりするのはやめましょう。
「ダメなもの」を「ダメ」にしているのは、「ダメ」という言葉そのものなのです。
「ダメ」と呼ばないだけで、ダメさは減るのです。
「ダメ」と言わない人は、不思議と成長し、豊かになります。
いや、活かせるものは全部活かせるようになるのですから、
「不思議」ではないのかもしれませんね。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
私は「ダメ」という言葉が大嫌いです。
「ダメ」というのは、あるものを強く全否定する言葉です。
「ダメな成績」、「ダメな顔」、「ダメな行動」、
こう聞いて思い浮かぶのは、「点数にすれば50点ぐらいのもの」ではなく、「ほぼ0点に近く、点数にしたくもないもの」という場合がほとんどではないでしょうか!?
それぐらい「ダメ」という言葉は強烈で、その強く否定する力や空気が、前向きな気持ち、大袈裟に言えば生きるエネルギーを奪ってしまうのです。
だから、「ダメ」という言葉は目にも耳にも触れたくない。
そしてまた、私と同じ考えの人、つまり「「ダメ」と聞くだけで不快になる」という人も、
多くいるのではないかと思うのです。
さて。
この「ダメ」というのは、漢字で書くと「駄目」で、元々は囲碁の用語でした。
囲碁では線と線の交点を「目」といって、その「目」の数を競い合うゲームですが、
この「駄目」というのは、「ゲームの勝敗に関係のない目」を指す言葉なのです。
要は「役立たず」とか「無意味」ということで、「ダメ」というのは結局、囲碁でも実生活でも、「全否定」という意味では同じ使われ方をしているわけです。
しかし、です。
囲碁は目に見えるゲームで、碁盤にしろ碁石にしろ、どこにどんなものがあるかがわかるから、
どれが「駄目」なのかもわかります。
ただ、実生活、つまり人間やモノを「ダメ」と呼ぶ場合、
「軽々しく全否定する言葉を使って、あきらめたり放棄していいのか」と思うのです。
「ダメ人間」という言葉があります。
「ダメ」の意味通りに解釈するなら、「生きている価値もない、役立たずの人間」ということで、
「ダメ人間」というのは、本当は思っている以上に残酷で愛のない呼び名だったりするのです。
しかし、どんな人にも個性はあるし、それぞれに積み重ねた経験もあります。
それらを活かすことも鑑みずに「ダメ」という言葉でバッと切り捨ててしまうと、
本当は有用な資質、埋もれているかもしれない資質まで「ないもの」とされ、活かす機会がなくなってしまいます。
あるいは、その「ダメ」という言葉の強さで、なんとかエネルギーがなくなってしまうかもしれません。
だから、「ダメ」という極端な言葉は、可能性を探るどころか見殺しにするわ、生きる意欲を削ぐわで、
使えば使っただけ不幸の種が蒔かれてしまうのです。
自分に対しても同じです。
時に自分を否定したり、自己嫌悪になることぐらい、
誰だってあるでしょう。
でも、同じ「自己否定」なら、もう少し柔らかい自己否定をしましょう。
具体的に、どこが至らなかったのか。
たしかに一部はいただけないかもしれないが、それで自分を全部否定する必要はあるのか。
いましがた欠点になっていても、それが逆に活かせる場はないか。
こういう「少しは活きる部分、実になる部分があれば、そこを元手にしよう」という発想は、
「ダメ」という言葉を使っている限り出てきません。
だからこそ。
自分も誰もモノも、もう「ダメ」と呼ばわりするのはやめましょう。
「ダメなもの」を「ダメ」にしているのは、「ダメ」という言葉そのものなのです。
「ダメ」と呼ばないだけで、ダメさは減るのです。
「ダメ」と言わない人は、不思議と成長し、豊かになります。
いや、活かせるものは全部活かせるようになるのですから、
「不思議」ではないのかもしれませんね。