明日もやりたいようにーmiddle60

切り折り紙、釣りなど
全身遊び心の日々・・
もっともっと忘れたい
なぜなら
どんどん新しいことが入ってきそうだ

昭和25年 5歳 転居

2007年09月09日 | 自分史

Resize0107 生まれたところから転居した年。現在の愛知県の瑞穂区。住所がはっきりしないが、大家さんは松田さん。この家には一年ほどいた。朝は大家さんのおつとめの「どんどんつくつく」という音で目が覚める。6畳一間の間借りであった。家を東に向かうと瑞穂グラウンドがあり、親に連れて行ってもらってよく遊んだものだ。この家は小川の横にあり、低地なので大雨のときは大変だった。部屋の入り口に並べてある靴、ぞうりがプカプカと浮かんでいた覚えがある。

Matudamae1 妹が三輪車に乗ったまま小川に落ちた!

小川の橋の上に「きりぎりす」を売りに来ているおじさんがよくいた。キリギリスは自分で捕ったので買った覚えはない。

この家は他人の家の横の細い路地を通らないと入れない。現在の家に住むまでほとんどこのパタンだ。他人様の家の前をこっそりと通らないと我が家につけない。写真が残っていたが、とても小さいものだ。2×3センチほどの白黒写真だ。

昭和25年は朝鮮戦争が始まった。 貧乏人は麦を食え!と池田氏が言った。流行歌は熊祭りの夜(いよまんてー 燃えろかがり火~ だったかな? 伊藤久夫?)、星影の小径、桑港のチャイナタウン(サンフランシスコのチャイナタウン~)。お風呂は10円だったそうだ。

とりあえずはここまでとしよう。


24年 思い出 残像その3,4

2007年08月08日 | 自分史

Resize0102_1 この橋から落ちた。恐ろしい記憶は消えない。夜のことだ。蛍でも捕ろうとしたのか橋のたもとからまっさかさまに下に落ちた。幸い、橋の下には草がつんであったらしく、怪我ひとつなく事なきをえた。「おいおい」と泣いていた覚えはある。写真は自分で現場へ行き撮影してきたもの。  

                                          

Resize0103_1 夏の行事で「宝探し」というものがあった。昼の間に当たりが書いてある紙を神社の石垣の間などに隠す。夜みんなで探すわけだ。大きな子供や大人に見つけられてしまい、私は一度も見つけることができなかった。この写真を撮りにいったとき、ふと石垣の間に目をやる自分がいた。

この年:「あじゃぱー」ばんじゅんだ! 
お年玉つき年賀はがきが始まった。
青い山脈、長崎の鐘、夏の思い出、銀座カンカン娘が流行る。いい歌ばかりではないか。
教員初任給4000円。私はたしか?28900円だ。

思い出は尽きないが、はっきり思い出したら付け足すことにしよう。幼児期の思い出は大切だなあと思う。

*********こうして 故郷を去り 名古屋へ向かうこととなる 訳はわからない********


24年 思い出 残影その1,2

2007年08月08日 | 自分史

Nibasha_1 祖父はいわゆる「馬車引き」であった。今のトラック運送だ。畑や田んぼもやっていたが馬車も引いていた。馬車の一番後ろにひょいと後ろ向きに乗っていくのがとてもうれしかった。小さい子供だったけど乗せてくれた。大人になって聞いたことだが、馬というのはとても利口で、仕事が終わると、おじいさんは馬車の上で寝ているだけで、馬は我が家までひとりで帰っていき厩の前で止まるそうだ。

http://www.fsinet.or.jp/~tomoyasu/newpage162.htm   より借りました。

Photo_3 こんな便利な乗り物が!「木炭車」というガソリンの代わりに木炭を燃料とするバスである。このバスに乗って岐阜へ出る中継となる美濃町(現美濃市)の電車の駅まで行った。モクモクと煙を出しながらゆっくりと走る。後に聞いた話だが、坂道になるとバスの馬力が足らないので乗客はみなバスを降りて歩く。あまりにきつい坂道は乗客が協力してバスを押したということだ。都会へ出られる喜びでいっぱいだった。この木炭車の写真はお借りしたものだが、私が乗ったバスはもっと古臭くて、後ろに木が突き刺してあったような思い出がある。 http://www.city.nerima.tokyo.jp/jo_kokai/memory/f11.html練馬区HP 


昭和24年 父のこと

2007年08月08日 | 自分史

4歳までのことなのだが、色々な風景が浮かんでくる。父は戦後も名古屋へ勤めていた。岐阜の田舎から通勤するのに使っていたのは「自転車」。何時間もかかったであろうと思う。毎週土曜日だと思うのだが、一日だけ帰って来る。私たち子どもが寝ている間に帰ってきて、朝になるともういない。朝になると、私たち子どもがすることは、枕の下あたりの布団をめくることだ。ときには「おみやげ」がしのばせてあるのだ。なにもないと「あ!おとうちゃん来なかったね」と母を困らせたものでした。

母は、押入れの中のおしめの入れてある「柳こおり」Photo_1 http://takagi.sakura.ne.jp/0502/M-seikatu/mukasi-2/(から、写真を借りました)

そのなかに、お金を入れていたようです。大人になってから聞いたことですが、米びつの底にもいれてあったそうです。何枚ものお札を見た記憶ははっきりとあります。女一人なのでぶっそうだったのでしょう。米びつの中には「柿」が入れてあった。早く食べられるようにならないかと心待ちにしていたものだった。***************************************


24年思い出その2

2007年08月02日 | 自分史

 家は南向き。家の前にはスイカが作ってある。実がつくと油紙(昔、教員がガリ版印刷に使っていた例の紙だ)を上に張った箱をかぶせてあった。大きなスイカができると食べるのが嬉しくてたまらなかった。
 弟妹は双子である。そのためか、家ではヤギを飼っていた。ヤギの乳をしぼって、クドで煮て弟たちが飲む。ほしくてほしくてしかたがないので「あまったらちょうだいー」と叫んでいたそうだ。長男は我慢なのか。事件と言えば、そのヤギが逃げ出したことがある。母親が追いかけ、4歳の私が迎えうつ。両手をひろげて止めたことを覚えている。そういえば、乳をいれたどんぶりには鶴の模様があった。ヤギが逃げ回った庭先をでて左へ向かうとお茶の生垣があった。そこを左に回ると竹やぶになり川の堤防に出る。堤防は石垣でつくってあり登りやすい。その下で「あまご」を釣っている父の姿がある。数年前(平成12年)その場所を訪れたが、当然といえばそれまでだが、何もない。