色々な原因で、昔は乱舞していた蛍が見られなくなって久しい。工場ができたり、家庭排水を垂れ流すところがあるのでしょうか。ところが私は毎年5月末の急に気温があがった夜、初の蛍探しに出かける。その後は毎晩見に行く。我が家から車でほんの5分、歩いても近いところに三水川(みみずがわ)という用水系の小川がある。秋になると大きな鯉をねらいにいくところでもある。昨夜は「今日はひょっとすると出る!」と思って出かけた。「いた!」と声をあげてしまった。たった2匹ではあったが嬉しかった。昔は我が家の庭にさえ飛んできた。数匹とらえて、家の中を飛び回ったこともある。隔世の感がある。でも昨夜は嬉しかった。デジカメでどうやったらとれるのでしょう。
私の退職を機に30年ぶりに○○学校で働いていた仲間が総勢11名も集まり宴を開いた。みんな若い時代であったが、口々に「おもいっきりやってたなあ!。いい時代だったなあ。今同じ事をやったら問題になったりすることがいっぱいあったけど、燃えていたなあ・・・・」と話が止まらない。現在なにをやっているか等交換し、今後いかに生きるべきかたくさんヒントをいただいた気がしてならない。現在も勤めている人と、今年退職した3名をを除いて7人中5人が早期退職だったことがわかった。多くの仲間が病持ちでもあり、最後まで勤める事がいかに大変な時代であるかよく分かった。タイトルのセカンド(第二)バース(誕生)はいかにあるべきか・・・偕老洞穴を目指すのか?外国へひとり旅立つのか?選択肢が多すぎる????
何週間前かな?「なんじゃもんじゃ」という木に花が咲いた。通称なんじゃもんじゃと呼んでいるが「ひとつばたご」というのが正式名。この種を取ってきてもなかなか発芽しない。いつかチャレンジしたいが大木になりそうなのでどうしようかな。むくろじゅ(無患子)という木は成功し我が家で大木になっている。昔の羽子板の羽根の先端についていた黒い木の実がなる木だ。実の皮を戦時中には石鹸代わりに使ったそうだ。我が家のむくろじゅは我流の剪定のせいか最近は実をつけない。幹の皮を少し円形に剥ぐと、木は慌てて実をつけるそうだが、失敗するといけないと思いやってない。そうだ、枝が伸びすぎたのでまた切らねば。
種を取れれば取ってみたい。
うつぼ草が群生していた。最近ではめずらし。
ふと気がつくともう5月も末になった。五月晴れ!という日はあまりない。まるで梅雨のような天気が続く。ツバメがよく飛んでいる!と感じる。例年になく多い。近所の方の軒先に今年も巣を作り始めた。我が家の前の道をツバメが何羽もヒューヒューヒュッツと飛び交う。異常に多い気がしてならない。昔はこれくらい飛んでいたような気がしないわけではない。写真を撮ることはできなかった。
毎朝河原へ愛犬を連れて行き、川の堰堤を鮎が遡上しているかどうか確かめている。年々少なくなっているが、今年は未だに一匹も堰堤を飛び上がる姿が見えない。夜の間に遡上しているのだろうか。5月11日に、長良川の鵜飼開きと同時に我が根尾川の下流域も鮎釣りが解禁になったのだが、一人も釣ってない。揖斐川の上流で崩落があり、川を三分の1ほどせき止めてしまったが、その汚れた水や、さらに上流の「徳山ダム」工事のせいなのか赤茶けた水が流れている。伊勢湾にいる子鮎たちは、長良川にしようか揖斐川にしようか悩んでいるとすると、綺麗な長良を選んでいるのだろうか。根尾川は揖斐川の支流なのでさっぱりだ。とにかく五月晴れが恋しい。
本の整理というより、いかに捨てるかについて。
十数年前なんと600冊の蔵書を捨てた。学生時代に買って以来ほとんど読んでいないもの、学生時代の教科書として購入した本等等・・・本の裏表紙の内側に、この本を何月何日、どういう日に何の目的で誰に勧められて買ったか等がサイン入りで書いてある。そういう本はなかなか捨てづらいものがある。購入した額のトータルは物凄い額になるのだが、廃品回収業者さんに持っていってもらったが、ちり紙少々であった。
さて、退職してから、ゆっくり本の整理でもしようと思っていたがなかなかできない。今日は100冊ほど捨てる準備をした。ニーチェ、中原中也全集、福原麟太郎全集などが主なところ。「クッキングパパ」は捨てられなかった。この捨てるか捨てないかの曖昧な基準のせいでますます捨てにくくなる。読みたければ図書館へ行けばあるものはいい。クッキングパパは図書館にあるだろうか?○○氏に勧められてなどと書き込みがあるものも捨てズライし・・・結局、優柔不断な私。本当は一冊も捨てずに、壁一面に本の顔がずら~っと買った順に並んでいて、それを眺めながら中身より思い出に浸りながら酒を飲むというのがくだらない夢である。置き場所もなくそうはいかぬところが悲しい現実。哲学者「出(いで)」氏の「哲学以前」という本があるが、学生のときに本格的に思考が必要だと感じ、友人に勧められた本。今では茶色くなってしまった文庫本だが、見ただけで学生時代の哀愁が漂う。誰が汚いと言おうと、また買えばと言おうと捨てられないものだ。本は読むものでなく眺めるものであるなんていう結論になりそうだ。
20冊ずつぐらいを縛って捨てやすくしたが、いまだに、「こいつは捨てない方がいいかなあ?」という思いがして縛ってある山から抜いて、「捨てるか?」とまた縛りなおしたりしていると知らぬ間に時間が経ってしまう。また来週にしよう。<同文を、自分の他のブログにもコピー貼り付けをしたりして遊んでしまった。>