極東の地、日本で『花鳥風月』という果実にまで昇華したインドで生まれた仏陀の『悟り』は、中国で儒教や道教の影響を受けて『禅』として花を咲かせる頃に日本に輸入されたのだろう。
禅が日本で実をつけた理由というのは、宗教歴史学者を筆頭に様々な立場の学者達によって検証されたに違いないが、ボク自身はそういった感慨を持った視点で仏教や禅についての書物を読んだことがないので、実際のところはさだかではないのだが、最近自分なりにその点について妄想を描き出しているうちに、一つの大きな原因として考えられる…ことではないかと思うに至ることを発見した。
自分が知らないだけで、すでに誰かが考えたことであるかも知れないが、文字を持たなかった日本人が中国から『漢字』という文字を輸入し、それをもとにひらがな・カタカナを編み出し、漢字と平仮名・カタカナを併用して日本語を書き表すことを始めた…。
そこに、ボクは日本人が視覚的直感を育む術を得え、それが禅、及びそれから派生した文化を生み出すメンタリティーへと昇華した、大きな要因があったのではないかと思うのだ。
例えば、『木』というほとんど絵文字のような文字を考えた時、以下の日本語、英語、中国語的状況を図にしたものを見て欲しい。
『木』という言葉が、視覚的に一目瞭然に見て取れるのは、100%漢字ばかりの中国語ではなく、もちろんアルファベットの英語でもなく、ひらがなの平原に目立つ形で立っている『木』という意味の漢字であることがわかる。
そのことは、案外ボクら日本人のメンタリティ(脳)にかなり大きな影響力をあたえれいるのではないだろうか…と思う。そしてそのことと、禅の日本での定着とは大いに関係している…のではないかというのがボクの妄想。
しかし、『禅』がほぼ食べごろの状態で日本に入ってきた事は、『漢字』が文字のない日本に入ってきた事と合わせて、ほぼ奇跡的出来事とも思えるし、意外に必然的でもあったのかもしれません。ここは、ドラマですね。。。
30年近く、ヨーロッパに住んでいるオッサンが、何いってんだ…と、自分でもツッコミ入れたいぐらいの『日本語』へのこだわりなんだけど。
一撮としては、『写真』と『感じ』と『漢字』と『悟り』…とは同地平に見えて、そのあたりのことを、自分なりに直感を駆使して追究してゆこうと思う。
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