私達の小さなアパートの壁の一角に、円覚慈雲老師から頂いた色紙が掛けられている。
『 花も美しい 月も美しい それに気づく 心が美しい 』・・・というもので、三十年来掛けているので陽焼けして茶色くなってしまった。
私が円覚寺の居士林に通っていた前半4,5年の間に、この同じ詩の短冊や色紙を3,4枚は頂いただろか。
その他に、『弄花香満衣』『無事之貴人』『庭前白樹子』の短冊を頂いているが、『花も美しい・・・』が一番多く頂いている。
当時若気の至り・・・というやつであろうか、私はもっと激烈な禅的で漢詩的な短冊を頂けないだろうか…と正直、不満であった。
例えば『竹影掃階塵不動』や『百尺竿頭進一歩』みたいな、なんとなくカッコいいガクガクの漢字詰め短冊が欲しかったのだ。
老師からしてみれば、老婆親切の思いであったであろう、分かったような分からんような禅語よりは、
ごく普通の日本語で禅の真髄を・・・という思いからこの短冊、色紙を大量に書かれたのではないだろうか。
禅宗の老師という立場であれば、修行する雲水(修行僧)の育成は当然ながら、寺を慕ってやって来る在家の一般大衆にむけての
禅宗の在り方に心を砕かれたであろうことは容易に想像でき、その結果この短冊、色紙ではなかったかと思う。
しかし、皮肉なもので、このあまりにも平易な言葉、真理丸出しの言葉はかえってその真意を汲み取るのを難しくしてはいまいか。
私はこのブログで『還暦スキャン』することを奨励しているが、それは長年月を経ても憶えているほどの事柄には必ず深い意味がある・・・
と思っているからで、このブログの副題として『我が琴線に触れる、森羅万象を写・文で日記す』とあり、『琴線に触れる』つまり感動する事が
『郷里(サトリ)』への憧憬の現れであると捉え、そこを入門として『己事究明』という『道』を歩んではどうであろうか・・・。
慈雲老師が我々凡夫に示す偈(詩)『 花も美しい 月も美しい それに気づく 心が美しい 』 はそのことをいっている気がする。
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