昨日、一昨日と無事に葬儀を終えることができました。
たくさんの友人が来てくれた事もあり、父も安心したかと思います。お忙しい所お越しいただき、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
葬儀を終えたら『父の死』という現実がすんなり入るかと思いきや、全然そんなことはありません。今日の天気のように何かモヤモヤしております。私の友人が励ましの声やメールをくれますが、心配して貰っているほど悲しくありませんし落ち込んでおりません(まぁ、確かにスピーチでは号泣しましたが…)。人前で泣くのは嫌いで、自身強がりな性格だとは思いますがそんなに気を張ってません(今日も早朝からテニスしました 普通の日常です)。全然落ち込んでないのですが、「父の死」という現実がイマイチ呑み込めない。「最近声聞かないなぁ~」とかそんなレベルです。不思議な感じです。ここ数日は、仕事をしながら葬儀をしていたため慌しく時が過ぎて、燃え尽き症候群みたいになってるのかもしれません。
ただ、『父の死』は家族の絆を間違いなく深めました。特に弟は非常に変わった気がします。弟はいつも父と母と私の距離感を調整して動いてました。僕は父にも母にもぶつかってましたが、弟はそれを見てフォーローを入れたり無意識に「距離感」というか「バランス」を保つ習性をつけたのでしょう。『父の死』による彼の悲しみは、父にぶつかれなかった「口惜しさ」「無念さ」の想いが強く感じました。仕事と葬儀の段取りで四苦八苦している私を助けようと「僕にも何かやらせて下さい!」と言っていたそうで、非常に頼もしく思いました。
また、母は父の悪口を一度も言ったことがなく「耐える」人でした。私は少し冷めた無関心な母親だと思ってましたが誤解でした。葬儀の母の姿は、今まで見たことが無い程の「悲しい姿」でした。父の友人づてに父が母をどう想っていたのかを聞きました。父はきっと母に直接伝えるのが苦手だったのでしょう。そんな風に父が母を想っていたとは、息子の私からは分かりませんでした。「間違って生まれた子」という解釈をちょっぴりしていたので、非常に救われた気がします。
父は「これからの世代に何かを残す」・「自分は大枠をつくる」ということを常に念頭に置き、一生懸命生きてきました。2004年の9月に手伝った北京への訪中団は、日本の若手政治家と中国の関係を築く「橋渡し役」を担ってました。事務を手伝った2人の先輩と私は、その後に具体的に何も活かせておりませんが…。今の会社は沖縄の若年者失業率が異様に高いことを憂い、沖縄にIT産業を根付かせるために沖縄の若者を雇用し教育しております。沖縄をかつての琉球王国のように、台湾・中国の都市と結びつかせる構想も必ずあったかと思います。夢や浪漫を描き・丁寧に自分の足で動き行動し、コツコツと理想に現実を近づけるそんなやり方でした。政治家や著名人を多く知っているわりに、媚びもせず驕らない…それでいて、熱苦しい人間でした。間際まで「死」を意識しなかったのも、彼らしいと言えば彼らしい最期だったのでしょう。私に仕事を教えたり・会社の体制を整えたり・遺した家族との関係をつくったり…何もかもきちんと「大枠をつくる」をしてから逝きました。そこまでの時間が不思議で仕方ない。父には多くの大切な優秀な友人・知人を紹介されましたが、「後はお前がその人と、どう人間の関係を築けるかだ」とよく父は言ってました。
これからは「私」がどうするかどうしたいかが一番求められる。会社も彼の強烈なリーダーシップにいつのまにか頼っていたのかもしれません。これからです。私は、父の足跡を辿りながら、この「主体性」を意識していこうかと思ってます。父が名付けた『晋』という名前は、春秋戦国時代の英雄「
重耳」から来ております。いわゆる「大器晩成」の人物です。父も死ぬ間際「俺は大器晩成だからな」と嘯いていたようです。飽くなき向上心とパワーはどっから出てきたのだろうかねぇ。今頃、地獄で鬼退治でもしているのかもしれません。