おはようございます!
今日は、何の日??
政治を考える日です。
まさに今ですよね・・・・
マニフェスト対決
できたら、ゆっくり読ませてもらいますかね^^
さて、世界遺産・下賀茂神社シリーズ!
今日は、”河合神社”
糺の森の中にあります。
糺の森の中、「瀬見の小川」の西側にあるのが玉依姫命を祀る摂社の河合神社。正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系統の神との意であるという。
明治10年(1887)賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社に列せられた。現在の社殿は、延宝7年(1679)式年遷宮により造営された古殿を修理建造したもので、賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。境内には「方丈記」の著した鴨長明の資料館と、長明が考案した「方丈の庵」とがある。
なるほど・・・・
これが、鴨長明はんの方丈です。
狭いでっせ^^
長明の「方丈の庵」
鴨長明50歳のとき、すべての公職から身を引き大原へ隠遁し、大原から方々を転々として58歳のころに落ち着いた。各地を移動している間に「庵」として仕上げたのがこの「方丈」である。移動が便利なように全てが組み立て式になっていて、広さは、一丈(約3m)四方、約2.73坪。畳で五畳半程度。間口、奥行きとも一丈四方ということから「方丈」の名がついた。さらにもう一つの特徴が、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。これは、建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は年式遷宮により21年毎に本殿が造り替えられる建築様式(土居桁構造)であり、これにヒントを得たものといわれる。
3坪弱・・・
狭いね^^
ちと、鴨長明はんもご紹介
鴨長明(かものちょうめい) 久寿2年(1155)~建保4年(1216)62歳
久寿2年(1155)、下鴨神社禰宜・長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方辺り)において生まれた。応保元年(1161)、7歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられたが、その後、長明は禰宜(神職のこと)になれなかったとされている。
しかし、長明は幼少の頃から学問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(1175)21歳のとき、高松女院歌合せに和歌を献じ注目を集めた。治承4年(1180)26歳のとき、福原へ都が遷され(平清盛による)たため、宮中に奉仕する長明も福原へ赴任したが、源頼朝の乱により平家は滅亡し、都は再び平安京へ遷都され帰洛している。
正治2年(1200)、46歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることとなった。翌、建仁元年(1201)、和歌所の寄人に任ぜられる。また、琵琶や笛、琴にもたけていて、その記録も随所に見える。しかし、元久元年(1204)、50歳の春、宮中の要職を辞して出家し、洛北大原に隠遁した。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原から方々を転々として、承元2年(1208)、58歳のころに落ち着いている。 (伏見区日野町に「長明の方丈庵跡」がある。)元久2年3月、「新古今和歌集」に『石川や 瀬見の小川 清ければ 月も流れを たずねてやすむ』をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、現在も河合神社の東に流れる川のこと。「方丈記」を、ついで「無名抄」を著した。建保4年(1216)6月8日、62歳で没した。
方丈記・・・
覚えてはりまっか?
冒頭の部分、暗記させられましたよね
、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとゞまりたるためしなし…」
鴨長明の資料館もあるんですけど、朝早く開いてませんでしたので・・・
奥へ進みましょ^^
わての文字まで色変わってしもうた
いっぺんに6社も・・・
便利なのか???
光ってますね~~
あの釣灯篭・・・・
高い・・・・
これにて、下賀茂編終了~~
では、
本日も、笑顔と気合で乗り切りまっしょい!
去年の同日の日記
http://blog.goo.ne.jp/takomusume97/d/20080727