10月31日、「古都大宰府保存協会」主催の「史跡めぐり 水城大堤一周歴史散策」に参加してきました。
2015年4月24日 日本遺産に登録 " 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~ "
「水城跡」は、「大宰府」に係る歴史遺産群の一つとして登録されました。
「水城」
『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載された城です。
白村江の敗戦(663年)後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。
天智天皇は、664年水城を築造 665年大野城・基肄城 を造り「大宰府」防衛の拠点とした。
9時「水城館」前出発
ここが、「水城」の東端です。
「水城館」 水城の紹介施設
水城館の上にある展望台より「水城跡」を一望!
ここから、1.2Kmの水城が始まります。
(現地 説明板より)
土塁(水城)の 高さは10m・幅は77m。
土塁の博多側(写真右側)に幅60m・深さ4mの外堀、大宰府側に幅4.5m~10mの内堀が設けられていました。
(現地 説明板より)
この「水城」は一年で造られたそうです。
因みに、1年の作業日数を319日、1日の作業時間を11時間で算出すると1日 3,500人の労働力が必要だったと試算されています。
水城には東西一か所づつ、博多湾側から延びる官道があり、門が設置されていました。
水城東門の礎石
1300年以上前に築かれた土塁が今も残っていることに驚かされます。
現在、「西鉄・九州自動車道」と「JR鹿児島本線」の2か所は水城は欠損しています。
現在、木に覆われている場所が土塁です。ここから60mの外堀が在ったそうです。
因みに、60mという距離は、当時の弓矢の届く限界距離だったようです。
大宰府側の内堀が在った辺りを西に向かって歩いています。
土塁の一番上の部分(上成土塁 幅3m)を横断しました。
JR鹿児島本線(水城駅)で分断されています。
水城西門の在った所です。
ここは、鴻臚館(外国からの客の滞在施設)から延びる官道が在った場所です。
昔の道は、右側の草の生えている高さに在ったようです。
ここまで、直線で1.2Km 水城の東端から西端迄歩きました。
途中、九州自動車道・西鉄・JR・御笠川の水城欠損部分を迂回しながら歩いてきました。
帰りは、西鉄下大利駅横を通り、老松神社を経由しスタートの水城館まで戻りました。