昨秋書いたもので少し季節遅れの感がありますが拙文を紹介します。
「晩秋の庭」
私が秋の訪れを感じるのは近くの公園である。
秋も深まりおおかた葉が落ちた木々は、樹形が顕(あら)わになり今まで見えなかったみごとな枝ぶりや樹皮の色模様などが、ッくっきりと見え、あらためて見直すことがある。
僅かに残った黄や赤に色づいた葉は生命の最後の輝きを見せるようで秋の夕陽に映えてみごとだ。
来るべき春を待つ芽の膨らみは、新たなる生命の息吹を感じさせてくれる。
晩秋の木々を見ることが好きになったのは自分の年齢と関係が有るのかもしれない。
春や夏の大地の養分と太陽のエネルギーを吸収したくましく成長した時を過ぎて、もはや成長も止まり次世代へのバトンを渡した成熟期、それも終盤となり、如何に自分らしい姿をとどめつつ冬を迎えるか、そんな植物の四季に自分の人生を投影してしまう。
厳寒の雪景色の中に凛と立つ逞しい樹にあこがれながら、それは、そうたやすいことではない現実を悟らされる。
害虫に食い荒らされたり病に侵された病葉(わくらば)は、まるで自分の分身のようだ。身体のあちこ ちに齢からくる症状が現れていやおうなしに自分の老いを感じずにはいられない。
樹下に 落とした葉は他の植物への腐葉土として肥料になってくれればなどと思い、あたりの木々への日光の当たり具合がよくなるであろう、と独りよがり。
そんな今日この頃の心境である。
また、枯れても、残った養分で茸(きのこ)を育てたり伐られて薪となってストーブの中で燃え家の暖房に役立ちたいものだ。 (2011.11 放送大学ミニゼミ 文章作法での作)