老女は自分が長生きし過ぎたのかもしれないと感じ始めていた。体調の不良を家族に隠していたが、さすがに我慢の限度を過ぎていた。階は異なるが同じマンション内に住んでいる娘に説得させられて掛かり付けの病院で内視鏡検査を受けたところ胃潰瘍が見つかった。どうも最近の食欲不振と体重が減ってきたのは、それが原因らしい。二度目の検査を受けるまでは自分の病名は胃潰瘍であると何の疑いもなく信じていたが、東京を離れて暮らしている長女が見舞いにきていることや涙もろくなっている長女の振る舞いに違和感を抱いた。そういえば長女は、夫が20年前に他界した時にも涙もろくなっていた。隠し事のできない性格なのだろうか、自分の容態が相当悪いと長女の様子から容易に察することができる。先に亡くなった夫と自分は同じ病気なのであろうか。娘たちは母親がガン宣告には耐えられないと考えているのであろうか。夫はガン告知をされることなく、検査入院中に僅か数カ月で壮絶な最期を遂げた。当時は自分も夫の後を追って死んでしまいたいと毎日考えていたが、あっという間の20年であった。夫を亡くして翌年に長女の出産があり、夫と入れ替わりのように生まれてきた孫も間もなく大人となる。幸い長女の家族も近隣にマンションを購入したお陰で毎月数回は何らかの理由を見つけて会うことができた。年末から正月の年越しは毎年のように娘二家族合同で温泉旅行を楽しみ、五月の連休と夏休みも必ずといって良いほど長女の連れ合いの車で二泊程度のドライブ旅行もしていた。夫を亡くして以来、友たちと言える友達もなく親戚とのつきあいも程々にしていた身では、娘たちとの年数回の旅行と孫達の顔をみるのが楽しみであった。朝晩何度も仏壇に向かい、夫が見ることのできなかった二人目の孫の成長を報告するのが日課のようになっていた。最初の孫が女の子だったから、夫も男の子として生まれてくる二人目の孫を楽しみにしていたはずである。夫は二人目の孫の顔を見ることなく62歳で逝ってしまった。80歳の祝いということで八王子にある料亭で娘たちが食事会を催してくれてから2年が過ぎた。その間、長女のうつ病体験や、長女の連れ添い(ちなみに義理でも息子などと思ったことはない。)が転職して東京を離れてしまったこと、長女の借金問題など折り重なる不幸にうんざりしてきていた。やはり長生きはするものではない。数年前に他界していれば、娘家族の不幸を見なくてすんだであろう。長女の再婚相手には最初から反対だったし、今でも息子とは認めていないのだが娘が好きで一緒になったのだから仕方ないと諦めた。家柄の良い自分と比較してみれば、まさにどこの馬の骨ともわからない下品な男であるとまでは言いたくないが、育ちがわかってしまうほど躾のできていない男である。口数の少ない男で、一体何を考えているのかわからない。商社勤めが長かったとか、貿易実務関連の仕事をしているとか言っても多少英語ができるくらいで大した学歴もないくせに偉そうにふるまっているとも見える。昨年は、娘のうつ病の原因をめぐって大喧嘩となってしまった。娘の病気は母親の責任でも何でもない、寧ろ伴侶である夫の責任である。嫁いだ娘の責任まで母親に負わせようというのか全く信じられない。夫の責任を放棄して、母親や妹にうつ病の妻をお願いしますという根性が気に入らない。床に座り、土下座をして頼み込む娘の連れ添いに向かって、田舎芝居、猿芝居と罵ってやった。全く根性のない男である。自分が面倒を見切れないから実家の母親や妹家族に世話をしてくれとは何とも虫のよい話ではないか。自分は高齢の身で娘の面倒を見られる状態ではないが、次女が見かねて助け船をだしてくれた。孫の高校卒業まで長女と共に次女のマンションにあずかることになったのである。長女が数百万の退職金を使ってしまい、その上に二百万弱の消費者金融への借金をつくってしまったことは申し訳ないが、借金の責任は母親にはない。借金の原因も長女の浪費は一部のみで、ほとんど夫の年収が減ったことによる補てんであることを考えると長女ばかりを責める訳にもいかない。給与を減らされてしまった夫にも責任はあるだろう。そんなこともあってか、孫は大学入試に失敗して浪人生活を余儀なくされている。東京を離れて北関東の田舎町で、予備校の夏季講習を受けていると聞いている。地方ではまともな予備校もないであろうから出来れば東京に戻って欲しいと思ったりする。一橋大を目指しているが、東大を出た亡き夫の血筋を引いているようには見受けられない。もう一人の孫は女の子であったから学歴にはさほど拘らなかったが、二人目の孫は男の子である。せめて、大学だけは一流の大学に受かって欲しいと思わずにはいられない。自分が亡き夫と結婚できたのも、彼が東大卒であったからである。娘の結婚相手に対しては厳しい基準をもっていたはずの両親も夫が東大卒であるという事だけで、二つ返事で二人の結婚を祝福してくれた。幸いにも自分は家政婦のいる裕福な家に生まれた、自分の家柄には、だれも文句のつけようがないし、大学を出て当時の女性としては十分な学歴も身に付けた。容姿もかなりのほめ言葉を周囲からもらえる程度ではある。そこそこの美人といっても過言ではない。娘たちには転勤族時代の苦労話をしてきてはいるが、高度成長下の日本で比較的恵まれた生活をしてきたことは事実である。本当の意味での苦労をしてこなかった為か、20年前夫の末期がん患者としての壮絶な最期を見届けることになったのも運命だったのかもしれない。それまでの夫との幸せな生活の代償が、夫とのガンとの闘いだったのだろう。そして今までの孫達との幸せな20年間の代償がまた支払われようとしている。今度は自分が病魔に侵され、ガンと闘うという形で幸せの代価を支払う。