セックス観光を通じた独自の民族比較論ともいえる本小説は、女性の売春行為はご法度のイスラム教徒に対する痛烈な批判とも受け取れる。そのせいだろうか、本書が国内で発売されたと同時に物議をかもし、ムスリム側から強硬なクレームが入ったという。翻訳者の方いわく、ウェルベックのファンはフランスのインテリ層とは異なる市井のオヤジ達だそうなのだが、それは?である。いつもの濃厚なセックス描写を読むためだけにフランスの助平オヤジどもが、本ベストセラー小説をわざわざ買い求めたとはとても思えないのである。セックスとセックスの間にさしこまれた?鋭い文化批判こそ、読者が読み込まなければならない本小説真のオルガスムス?だからである。
ここもとフランス空港やベルサイユ宮殿を爆発するとのテロ予告がニュース欄を賑わしているが、その意味で2001年に出版された本小説は、またしても予言書的な結末を提している。(小説の中では)タイのセックス観光ツアーがムスリムの反感を買い、無差別テロの標的とされてしまうからである。本作の主人公フランス文化省に勤めるミシェルはといえば、左でも右でもない宙ぶらりんな男であり、社会との繋がりを“SEX”だけに求める一風変わった快楽主義者なのである。そんな作家の分身でもあるミシェルは、タイ人風俗嬢や恋人ヴァレリーとの淫らなSEXに耽りながら、他国人や地元民の口を隠れ蓑に他国民を徹底的にこき下ろすのである。
“蚤だらけの物乞い”でしかないイスラム教徒に文化など生み出せるはずがない。格差の激しいブラジルの都市部では街中のドライブも危険視されていて、金持ちの移動手段は専らヘリコプターである。革命に勝利したキューバも、ゲバラがコンゴに亡命した後は、盗っ人だらけの怠け者国家になりはててしまった。日本人は「ごめんね」と謝りながら風俗嬢を殴りつける性倒錯者ばかりで、中国人はレストランの床に平気で唾を吐きテーブルを汚す豚の集団だ。そこへいくとタイは素晴らしい、偽物の愛と偽物のブランド品に溢れている、と。
歯に衣着せぬ差別発言はむしろ心地よくさえ感じられるのだが、肝心の母国フランスを含むヨーロッパ人に対する自己分析も忘れてはいない。「ヨーロッパ人たる僕の先祖たちは何世紀にもわたって猛烈に働いた。世界を支配し、変えようと試みた。そしてある程度成功をおさめた。....中には猛烈に働き続けているのもいる。しかし彼らが働くのは、利益のため、あるいは自分の仕事への病的な執着のためだ。.....ヨーロッパが富裕大陸のままでいるのは(先祖の)努力の蓄積があったおかげだ。....こうした状況はほとんど維持不可能であり、僕のような(知性や粘り強さにか欠けるエゴイスティックな)人間には社会の存続を保証することができないどころか、単に生きる資格があるかどうかも怪しいものだ」と。
アングロ=サクソンが全てを金銭で査定する物質文明を後進国にもたらしたとするならば、作家の母国でもあるフランスは自由主義的な無形の文化を持たざる国々に伝えて来たのではないだろうか。そんなフランスが不自由を是とするムスリムの一番の標的となりつつある現在の状況は皮肉とさえいえるのだろう。後腐れのない異国人との売春行為や愛の伴わない変態プレーでしか自らを慰められなくなりつつあるヨーロッパ男性と女性の分断を、民族滅亡の末期症状としてウェルベックは本書の中で傍観しているのである。
欧米が(必要性に関わらず)持たざる国へ輸出した経済や文化の“プラットフォーム”は果たして彼らにとって正しい結果をもたらしたのだろうか。手っ取り早く金を稼ぐことしか頭にない、文化的には凡庸な若者を大量生産させただけなのではないのだろうか。持たざる国は何も持たせないまま、そのままそっとしておけばよかったのではないだろうか。手つがずの自然を求めれば求めるほど、観光客である自分の存在が疎ましくみえてくる、という観光パラドックスならぬ社会システムのパラドックスこそ、現在世界各地を揺るがしている紛争の根本原因なのかもしれない。
プラットフォーム
著者 ミシェル・ウェルベック(角川書店)
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