この映画には3人の監督がいる。原作者の重松清と脚本の荒井晴彦、そして、荒井の大ファンだという正?映画監督三島有紀子である。1996年に発表された原作小説を荒井が気に入り映画化の口約束をしていたもののお蔵入りになっていたシナリオが、今回三島の手によって映画化されたようだ。重松の原作(未読)は例によって壊れかけた家族の再生がテーマで、血の繋がっていない子供に父親としての接し方が分からない男田中信(浅野忠信)の奮闘物語だそうだ。
夫である自分に依存して家庭と会社の“往復レール”に夫を束縛する新しい女房(田中麗奈)の妊娠出産を疑問に感じている田中。おそらく荒井晴彦は本作を、田中の中に別れた女房(寺島しのぶ)や娘に対する未練を見出した大人のラブストーリーに脚色したかったはず。根が真面目な?三島監督は、重松の原作小説と荒井のシナリオの両方にめくばせしたせいか、どっち付かずの焦点がぼやけた作品になってしまった。個人的には、荒井晴彦特有の昭和歌謡で歌われるようなドロドロとした男女の物語を期待していただけに、肩透かしをくった感は否めない。
原作にも登場する西宮名塩市にある“斜行エレベーター”が、荒井と三島では180度異なる意味のメタファーとして使われている気がする。いわゆるケーブルカーのような乗り物がアーケードの中を斜面に沿って上下しているのだが、登りエレベーターに乗っている人物を中からカメラでとらえると、車窓の景色は後ろへ後ろへと下がっていく。つまり、高台にあるマイホームへ、新しい血の繋がっていない家族のもとへ田中が早く帰ろうとすればするほど、過去へと気持ちが向いていき、血の繋がっている娘や別れた女房への思いが増していく、主人公田中の複雑な心象風景と重なっていたはずなのである。
新しい家族の娘が「(以前前歯を折られたことのあるドメバイ)パパ(クドカン)に会いたい」なんて(心にもないことを)言い出したものだから血の繋がっていない家族は崩壊寸前に陥るのである。そんなツギハギ家族にこれ以上の問題の種をこさえたくない田中は、妊娠している奥さんに子供をおろして別れようとまで言い出すのだが、三島はそんな田中をあくまでも原作どおり“新家族のために頑張るお父さん”として演出するのである。斜行エレベーターの脇にある長い長い階段を、幾度も幾度も浅野忠信に上らせて。
男の本音で言わせていただければ、長い間やめていたタバコを吸った段階ですでに心は前の女房と娘に向いていたはずであり、“幼な子われらに生まれた”位で元サヤにすんなりおさまるはずはないのである。新しい旦那が末期ガンであることをわざわざ口頭で伝えにきた前妻とのドライブシーンは秀逸で、この時田中は心の中で“復縁する絶好のチャンス”と思っていたに違いない。だからこそドメバイ男に50万円まで手渡して自分にはなつかない長女を押し付け、未だに自分を慕ってくる別れた女房の娘のために一肌脱ごうとしたのではないだろうか。
ところがあの大雨で壊れかけたそれぞれの家族の“地は固まり”、今までのいざこざはどこへやら、すっかり元通りハッピーエンドを迎えるのである。この辺りは、NHKドキュメンタリー出身の女流監督ならではの生真面目さというべきか、本当の悪を描けない邦画の限界を感じてしまう。心変わりの瞬間を非常にシュールに描いた成瀬巳喜男の『稲妻』や同監督の『驟雨』のような納得感ある演出が是非とも欲しかったところ。音声をオフにする演出は(途中で無駄遣いせず)最後の最後までとっておくべきだったのであろう。
幼な子われらに生まれ
監督 三島有紀子(2017年)
オススメ度[]