『世界で一番最悪な人間』とは一体誰のことなんだろう。新しい物を見るとすぐに目移りする主人公ユリアなのか?それともアングラコミック界で成功をおさめ、ユリアと同棲をはじめるアクセルのことなのか?GUARDIAN誌のピーター・ブラッドショーに言わせると、アクセルがその『世界で一番最悪な人間』らしいのだがどうもストンと腑に落ちない。全く個人的な意見で申し訳ないのだが、ユリアの誕生日に「腰が痛い」と言って姿も見せず、ユリアに使用済みのタンポンを夢の中で投げつけられる、母親と自分を捨てて別の家庭を持った父親こそ、監督ヨアキム・トリアーが“最悪“だと思っている人物像なのでは、と思ったりしたのである。旧態依然とした道徳や倫理にいまだ縛られてている保守的な方が見ると、定職にもつかず男を取っ替え引っ替えしているモラトリアム女子ユリアこそ最悪に思えるのかもしれないが、「そんな超テキトーなところが最高なのさ」と少なくともヨアキムは思っているに違いない。
デンマーク生まれのノルウェー人ヨアキム・トリアーは、本作をオスロ三部作の最終章に位置付けしているらしい。ノルウェーの首都オスロの都市化とともに、そこに暮らす人々がどのように変化し、そして映画監督としての自分がどう変わっていったのか、はたまた、変わっていくのかを、静かに見つめた三部作だったのでないだろうか。前二作はいまだ未見なので偉そうなことは書けないのだが、三部作に共通して出演している俳優アンデルシュ・ダニエルセンや、本作の主人公ユリアにある程度自己投影している映画のような気がするのである。キャリアアップしていくパートナーの華々しい活躍を横目で見ながら、いまだ何者にもなれない自分にフラストレーションが溜まっていくユリア。「まだ硬くなっていないふにゃチンが好き、私がこれから硬くしてあげられるから」言い換えれば、(何者かになる前の)他人に何がしかの影響を与えられるインフルエンサーになることがユリアの夢だったのだろう。最後は写真家として生計を立てていきそうなユリアの姿に、そこはかとなくヨアキムの“残像”が重なるのである。
本作をみた某映画評論家が坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』みたいな映画だと感想を述べていたが、大量の情報を与えられ生き方のチョイスを迫られるユリアは、まさに花束のようなコンテンツに囲まれ生き方を見失っていく日本の若きカップルそのもの。確かに、ポップカルチャーを武器に世間(この映画の場合はオスロという都市)と対峙しようとする麦と絹の姿は、アクセルとユリアの生き方に似ているのかもしれない。漫画家のアクセルが自分の仕事に埋没していく様子は麦のリーマン生活そのままだし、ユリアが都市をおし流していく時間の流れを一旦止めて不倫相手に会いにいくシークエンスは、絹がゴールデンカムイやゼルダの伝説にのめり込み現実逃避をはかる様子にそっくりだ。結局、麦と絹が世間という大衆社会に屈服し飲み込まれていくのに対し、フェミニズム的コンプライアンスに対決姿勢を崩さなかったアクセルは病死、ユリアはその遺志を継いで映画のスチールカメラマンになるのである。
ユーロ系の才能ある若き映画監督(アリ・アスター、ロバート・エガース…)が、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの影響をそろって口にするのを最近よく見聞きする。ヨアキムもまた、無意識のうちにベルイマン作品に影響を受けていたことをインタビューで語っていた。どれが本当の顔かもわからないほど何枚もの“仮面”を被っては捨てていくユリア。そして、娘の生き方に全く無関心、訪ねてきた娘に再婚した女の娘と同じジャージをプレゼント、腰痛を理由にソファに座ったまま動こうとしないユリア父の姿に、沈黙する神との共通項を見出したからではなかろうか。そんな最悪の神に対峙するためには、アクセルのように一つの生き方にこだわった末に病死するのではなく、人生いきあたりばったりのユリアのようなフローティングする生き方がむしろ相応しいのではないか。女性の寿命が35歳までだった時代とは違って、人生の選択にかける時間はたんまり残っているのだから。そんな寓意を感じた1本である。
わたしは最悪
監督 ヨアキム・トリアー(2021年)
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