屋台のおでんやに扮した大竹まことが劇中語った「芸術なんて所詮まやかしさ」という言葉はある意味正しい。この映画は、まったく絵が売れず次第に狂気の淵にさまよいこんでいく画家の生涯を通じて、芸術(映画)のいい加減さを痛烈に皮肉った作品なのだ。ゴダールがかつて『決別』の中でこきおろした<悪の被造物>もどきの駄作が、邦画ブームにかこつけてこれだけ巷に出回ってくると、こういう映画を撮って苦言を呈したくなる北野武の気持ちもわからないではない。その<悪の被造物>を(自らの無知は棚に上げて)まるで傑作のように持ち上げる一部の映画ライターやブロガーそしてアラシといった輩の傍若無人ブリを眺めていると、(悲しいことに)もはや「狂っている」としか思えないのが昨今の映画界の現状なのだ。
画商(大森南朋)に作品を持ち込むたびに、「基本から勉強し直せ」「人まねばかりでオリジナリティがない」「一度狂ってみろ」とあれこれケチをつけられ、アキレスと亀の競争のごとく作風を次々と変えていく画家・真知寿(柳ユーレイ→ビートたけし)。彼の唯一の理解者である妻(麻生久美子→樋口可南子)と、子供のいたずら描きのようなアートの狂作?に没頭していくくだりが、たけしらしい毒のきいたコント風にまとめられており観客を大いに笑かしてくれるのだが、このアートを映画に置き換えて見てみると、逆に身につまされる映画関係者も多いのではないか。
この映画のラスト近くに使われていた「空き缶」、実はアントニオーニが『欲望』に登場させた「ギターの破片」と同じ意味合いを持っていることに気がついた。ヤードバーズのコンサートにまぎれこんだ主人公の写真家が、ジェフ・べックが興奮して叩きこわしたギターのネックをファンと奪い合う。会場を抜け出しふと冷静になって考えてみるとただのゴミ、道端に捨てても誰も見向きもしないというシーンをふと思い出したのである。20万円という法外な値札がおかれたこのただの空き缶を買おうとするバカップルは、見た目の雰囲気にごまかされてゴミのような芸術(映画)をたてまつる一般大衆そのものだし、そのゴミのような芸術(映画)を客に高く売りつけようとする悪徳画商は、商業主義にどっぷりはまった映画制作委員会の連中やその片棒をかつぐ映画ライターに他ならないのである。
しかし、『欲望』でアントニオーニが芸術そのものを肯定的にとらえるラストを示したのに対し、この映画における北野武のそれはあまりにも否定的である点が気になるところ。芸術家(映画監督)としての自分に対する自虐的メッセージともとれる芸術(映画)の可能性を全否定するかのようなラストを、一映画ファンとしてはとうてい受け入れかねるのである。しかし、アキレスと亀のパラドックスによってゼノンが否定しようとしたのは、あくまでもその非現実的な結論に至るまでの考え方にあったそうで、だとすればこの映画、ビートたけしいや北野武の映画愛から生まれたアンチテーゼと見なすこともまた可能なのではないか。
アキレスと亀
監督 北野 武(2008年)
〔オススメ度 〕
画商(大森南朋)に作品を持ち込むたびに、「基本から勉強し直せ」「人まねばかりでオリジナリティがない」「一度狂ってみろ」とあれこれケチをつけられ、アキレスと亀の競争のごとく作風を次々と変えていく画家・真知寿(柳ユーレイ→ビートたけし)。彼の唯一の理解者である妻(麻生久美子→樋口可南子)と、子供のいたずら描きのようなアートの狂作?に没頭していくくだりが、たけしらしい毒のきいたコント風にまとめられており観客を大いに笑かしてくれるのだが、このアートを映画に置き換えて見てみると、逆に身につまされる映画関係者も多いのではないか。
この映画のラスト近くに使われていた「空き缶」、実はアントニオーニが『欲望』に登場させた「ギターの破片」と同じ意味合いを持っていることに気がついた。ヤードバーズのコンサートにまぎれこんだ主人公の写真家が、ジェフ・べックが興奮して叩きこわしたギターのネックをファンと奪い合う。会場を抜け出しふと冷静になって考えてみるとただのゴミ、道端に捨てても誰も見向きもしないというシーンをふと思い出したのである。20万円という法外な値札がおかれたこのただの空き缶を買おうとするバカップルは、見た目の雰囲気にごまかされてゴミのような芸術(映画)をたてまつる一般大衆そのものだし、そのゴミのような芸術(映画)を客に高く売りつけようとする悪徳画商は、商業主義にどっぷりはまった映画制作委員会の連中やその片棒をかつぐ映画ライターに他ならないのである。
しかし、『欲望』でアントニオーニが芸術そのものを肯定的にとらえるラストを示したのに対し、この映画における北野武のそれはあまりにも否定的である点が気になるところ。芸術家(映画監督)としての自分に対する自虐的メッセージともとれる芸術(映画)の可能性を全否定するかのようなラストを、一映画ファンとしてはとうてい受け入れかねるのである。しかし、アキレスと亀のパラドックスによってゼノンが否定しようとしたのは、あくまでもその非現実的な結論に至るまでの考え方にあったそうで、だとすればこの映画、ビートたけしいや北野武の映画愛から生まれたアンチテーゼと見なすこともまた可能なのではないか。
アキレスと亀
監督 北野 武(2008年)
〔オススメ度 〕