先日、
あるテレビ番組を見ていて気になる言葉があった。
「自分の顔が嫌なのだったら美容整形もありだと思うよ…」
最近は特に昔の日本と違った様々な変化が
とても早いスピードでグローバルに入ってきている。
その結果の言葉だと思うが…。
その言葉を聞いて、
突然ある映像が私の眼の前に浮かんできた。
いつ頃だったか覚えてはいないが
やはりある昔のテレビ番組での記憶が鮮明に…。
その内容は
顔にコンプレックスを持っている若い女性のドキュメンタリーテレビ。
父親ソックリの顔の娘。
常に自分の顔に劣等感を持っている娘の決断。
その決断は理想の顔に美容整形する…そのような実話の内容であった。
その内容で、
私の映像が鮮明な記憶で残っているのは
美しい顔になった娘の顔では無く、
整形した娘の顔を
とても寂しそうに見る父の顔…とても寂しげな目であった。
美とは何だろう…愛とは何だろう…品格とは何だろう。
その答えのようなものが
以前からご紹介してる『青山二郎』の言葉の中にある。
『森孝一』著の『人と作品<眼によって発見された人生>』、
『青山二郎』を見事に理解している内容にある。
今日はそれを一部ご紹介致します。
心の眼で読んで頂きたく思います。
『 「利休伝ノート」を含め、
青山の書いた文章から、利休だけを拾ってゆくと、
青山は、早くから利休の天才性に気が付いていたようである。
利休は、東山御物や当時の名器を否定することで、
自分の器を発見し、利休の茶を創造した。
発見と創造の中に利休の茶道があった。
発見も創造もない型だけの伝承の中に茶は生まれない。
利休が、
「自分が死ねば茶は廃れる」と語ったのは、
そういう意味なのであろう。
青山は、茶は器に対する愛だという。
物を愛するということは、
その物を評価することでもなければ、
その物に溺れることでもない。
心を無にしなければ、
その物から何も会得することは出来ない。
つまり、利休の本質もその虚心にあった。
だから器格というものが見えたと、
「利休伝ノート」に書いている。
青山は、利休のそうした眼に己の眼を見付けたのである。
青山は、茶碗には六相というものがあり、
品格・侘び・寂びの三感と、
量感・力感・浄感の三感、
この三趣三感が一つになって茶碗の姿を造っているのだという。
その姿とは、
「単なる形態ではなく、
物の本質が外面に表れた、
つまり作者の内面が表現された象としての形」のことである。
女性であるならば、
「目鼻立ちはよいのだが、
姿がわるいというより、
姿がいいから顔が気にならぬという方がいい。
要は全体だ。」
と青山はいう。
それは、姿さえよければ、
目鼻立ちはどうでもいいという意味でない。
どんなものも、完全無欠というものはない。
だから
「何かが何かを補って
えも云われぬながめとなり姿となるのだ」
というのである。 』
参考資料:『青山二郎・眼の哲学・利休伝ノート』
『人と作品<眼>によって発見された人生』
森孝一 著
あるテレビ番組を見ていて気になる言葉があった。
「自分の顔が嫌なのだったら美容整形もありだと思うよ…」
最近は特に昔の日本と違った様々な変化が
とても早いスピードでグローバルに入ってきている。
その結果の言葉だと思うが…。
その言葉を聞いて、
突然ある映像が私の眼の前に浮かんできた。
いつ頃だったか覚えてはいないが
やはりある昔のテレビ番組での記憶が鮮明に…。
その内容は
顔にコンプレックスを持っている若い女性のドキュメンタリーテレビ。
父親ソックリの顔の娘。
常に自分の顔に劣等感を持っている娘の決断。
その決断は理想の顔に美容整形する…そのような実話の内容であった。
その内容で、
私の映像が鮮明な記憶で残っているのは
美しい顔になった娘の顔では無く、
整形した娘の顔を
とても寂しそうに見る父の顔…とても寂しげな目であった。
美とは何だろう…愛とは何だろう…品格とは何だろう。
その答えのようなものが
以前からご紹介してる『青山二郎』の言葉の中にある。
『森孝一』著の『人と作品<眼によって発見された人生>』、
『青山二郎』を見事に理解している内容にある。
今日はそれを一部ご紹介致します。
心の眼で読んで頂きたく思います。
『 「利休伝ノート」を含め、
青山の書いた文章から、利休だけを拾ってゆくと、
青山は、早くから利休の天才性に気が付いていたようである。
利休は、東山御物や当時の名器を否定することで、
自分の器を発見し、利休の茶を創造した。
発見と創造の中に利休の茶道があった。
発見も創造もない型だけの伝承の中に茶は生まれない。
利休が、
「自分が死ねば茶は廃れる」と語ったのは、
そういう意味なのであろう。
青山は、茶は器に対する愛だという。
物を愛するということは、
その物を評価することでもなければ、
その物に溺れることでもない。
心を無にしなければ、
その物から何も会得することは出来ない。
つまり、利休の本質もその虚心にあった。
だから器格というものが見えたと、
「利休伝ノート」に書いている。
青山は、利休のそうした眼に己の眼を見付けたのである。
青山は、茶碗には六相というものがあり、
品格・侘び・寂びの三感と、
量感・力感・浄感の三感、
この三趣三感が一つになって茶碗の姿を造っているのだという。
その姿とは、
「単なる形態ではなく、
物の本質が外面に表れた、
つまり作者の内面が表現された象としての形」のことである。
女性であるならば、
「目鼻立ちはよいのだが、
姿がわるいというより、
姿がいいから顔が気にならぬという方がいい。
要は全体だ。」
と青山はいう。
それは、姿さえよければ、
目鼻立ちはどうでもいいという意味でない。
どんなものも、完全無欠というものはない。
だから
「何かが何かを補って
えも云われぬながめとなり姿となるのだ」
というのである。 』
参考資料:『青山二郎・眼の哲学・利休伝ノート』
『人と作品<眼>によって発見された人生』
森孝一 著