今年も梅雨の季節がやってきましたね~(^ ^)
雨ばかりのジメジメした季節で嫌な方も多いと思います。
しかし、
見方を変えれば素敵な季節でもあります。
梅雨の季節に画学生の頃『苔寺』まで行って、
雨上がりの水滴で輝いた眩いばかりの美しい苔を見て、
美しさに感嘆した思い出があります。
まさに梅雨の季節が見せてくれる、
魔法のような瞬間でした。
又この季節、
美しい『紫陽花』の花が咲く季節でもあります。
母は梅雨の季節に亡くなりましたが…花が大好きでした。
そして…
亡くなった父は『紫陽花』の花が大好きだった…
私にとては、
そんなことを思い出す季節でもあります。
今日は『紫陽花』に絡んで
『花の由来』と、
その名付けの親…詩人『白居易』をご紹介します。
下記をご覧下さい。
<紫陽花>
最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイを改良した品種である。
花の色は、助色素というアントシアニンの発色に影響を与える物質のほか、土壌のpH濃度、アルミニウムイオン量によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。日本原産の最も古いものは、青色だという。花はつぼみのころは緑色、それが白く移ろい、咲くころには水色、または薄紅色。 咲き終わりに近づくにつれて、花色は濃くなっていく。
「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人『白居易』が別の花(ライラックか?)に名付けたもので、平安時代の学者源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。
<白居易>
772年、鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官を輩出するくらいの低い家柄であったが、安禄山の乱以後の政治改革により低い家系でも取り立てられやすくなったおかげもあり、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳でちゅうちつ県(陝西省)の尉になり、翰林学士、左拾遺にまで上りつめた。このころ、『新楽府』を完成させた。
その後、左遷され地方の長官を歴任。任期を終え中央へ戻り838年刑部侍郎、836年太子少傅、842年刑部尚書となり引退。74歳のとき『白氏文集』を完成させ、75歳にしてその生涯を閉じる。
*逸話*
唐の白居易は禅を好み、禅僧道林(鳥カ和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示された。 白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか!」といったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられ、謝ったという。これは史実ではないが、道元もこの逸話について論じており、「わかる」と「できる」とは全く異なるということを示した逸話として有名である。
*禅僧との交流*
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。
『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥?道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
<七仏通誡偈>
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)は、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)を讃える偈である。『法句経』に収録されている。 上座部仏教及び禅宗に於いて特に重んぜられ、禅宗では日常の読経にも取り入れられている。一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」と大書した掛け軸が有名である他、道元は「正法眼蔵」で「諸悪莫作」の巻を設けてこの教えについて詳細に述べている。
・ 諸悪莫作(しょあくまくさ) … もろもろの悪を作すこと莫く
・ 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) … もろもろの善を行い
・ 自浄其意(じじょうごい) … 自ら其の意(こころ)を浄くせよ
・ 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) … 是がもろもろの仏の教えなり
(「衆善奉行」は漢語訳によっては「諸善奉行」とすることもある。)
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雨ばかりのジメジメした季節で嫌な方も多いと思います。
しかし、
見方を変えれば素敵な季節でもあります。
梅雨の季節に画学生の頃『苔寺』まで行って、
雨上がりの水滴で輝いた眩いばかりの美しい苔を見て、
美しさに感嘆した思い出があります。
まさに梅雨の季節が見せてくれる、
魔法のような瞬間でした。
又この季節、
美しい『紫陽花』の花が咲く季節でもあります。
母は梅雨の季節に亡くなりましたが…花が大好きでした。
そして…
亡くなった父は『紫陽花』の花が大好きだった…
私にとては、
そんなことを思い出す季節でもあります。
今日は『紫陽花』に絡んで
『花の由来』と、
その名付けの親…詩人『白居易』をご紹介します。
下記をご覧下さい。
<紫陽花>
最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイを改良した品種である。
花の色は、助色素というアントシアニンの発色に影響を与える物質のほか、土壌のpH濃度、アルミニウムイオン量によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。日本原産の最も古いものは、青色だという。花はつぼみのころは緑色、それが白く移ろい、咲くころには水色、または薄紅色。 咲き終わりに近づくにつれて、花色は濃くなっていく。
「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人『白居易』が別の花(ライラックか?)に名付けたもので、平安時代の学者源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。
<白居易>
772年、鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官を輩出するくらいの低い家柄であったが、安禄山の乱以後の政治改革により低い家系でも取り立てられやすくなったおかげもあり、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳でちゅうちつ県(陝西省)の尉になり、翰林学士、左拾遺にまで上りつめた。このころ、『新楽府』を完成させた。
その後、左遷され地方の長官を歴任。任期を終え中央へ戻り838年刑部侍郎、836年太子少傅、842年刑部尚書となり引退。74歳のとき『白氏文集』を完成させ、75歳にしてその生涯を閉じる。
*逸話*
唐の白居易は禅を好み、禅僧道林(鳥カ和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示された。 白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか!」といったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられ、謝ったという。これは史実ではないが、道元もこの逸話について論じており、「わかる」と「できる」とは全く異なるということを示した逸話として有名である。
*禅僧との交流*
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。
『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥?道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
<七仏通誡偈>
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)は、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)を讃える偈である。『法句経』に収録されている。 上座部仏教及び禅宗に於いて特に重んぜられ、禅宗では日常の読経にも取り入れられている。一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」と大書した掛け軸が有名である他、道元は「正法眼蔵」で「諸悪莫作」の巻を設けてこの教えについて詳細に述べている。
・ 諸悪莫作(しょあくまくさ) … もろもろの悪を作すこと莫く
・ 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) … もろもろの善を行い
・ 自浄其意(じじょうごい) … 自ら其の意(こころ)を浄くせよ
・ 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) … 是がもろもろの仏の教えなり
(「衆善奉行」は漢語訳によっては「諸善奉行」とすることもある。)
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』