TAZUKO多鶴子

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奈良『法隆寺』に行って来ました…NO.3

2008-07-27 | TAZUKO多鶴子からの伝言
<西院伽藍>
南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。
中門(国宝)
入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。
<法隆寺献納宝物>
明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、代償として一万円を下賜された。この皇室の援助のおかげで7世紀以来の伽藍や堂宇が維持できることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈良『法隆寺』に行って来ました…NO.2

2008-07-27 | TAZUKO多鶴子からの伝言


法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺(いかるがでら)という。

聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』