先日、『法隆寺』に行った時に僧侶方々がお話しされている事が耳に入った。
近年の政治経済等の日本や世界の状況の話しである。
「再び日本は鎖国をすればいい…」
その言葉を最後に耳にしてその場を立ち去った。
実は
『鎖国』という言葉が普及するのは明治以降で、
それ以後は以前の政策も『鎖国』の名で呼ばれることになったそうである。
また、
私たち近年の日本人は江戸時代の『鎖国』が悪いイメージで固定化されているが、
専門家の中にはそうで無い意見も多いのである。
つまり
「日本のように他国よりも資源に富み、
勤勉な国民により産業が発達している国、
つまり自給自足で豊かな国が、
何も求めるものの無い外国人からの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などから守るために、
門戸を閉ざすのは適切で、そうするべきである」
というもので、
志筑の造語(鎖国)もこの立場からの言葉であった。
歴史を深く知る人にとっては江戸時代が一番良い時代だと言っている人も多い。
また、その時代に日本独特の文化が様々な形で花開いた豊かな時代でもあった。
時代を遡れば、
平安時代も大陸との国交が途絶えた時代もあり、
その時代に日本仏教美術の多彩な画像・彫像が誕生した歴史も残されている。
今一度、多くの日本人は過去の歴史を、
日本人の生きた歴史を様々な角度から
学び直す必要があるのではないかとTAZUKO多鶴子は痛感する昨今である。
<鎖国>
鎖国(さこく)は、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した政策のこと。また、そこから生まれた外交関係における孤立状態を指す。しかし、実際には孤立しているわけではなく、外交だけでなく貿易の権限を幕府が制限・管理した体制である。
「鎖国」は日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東アジア諸国においても「海禁政策」が採られた。現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東アジア史を視野に入れてこの「海禁政策」という用語を使う傾向がみられる。
*語源*
鎖国という言葉は江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が享和元年(1801年)の『鎖国論』においてはじめて使用した。
エンゲルベルト・ケンペルという人物が、江戸参府旅行を経て帰国後書いた著書『日本誌』(1712年刊)の中の、巻末の一章にあたる「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という題名を、志筑が「鎖国論」と変更した。この「鎖国」という言葉は、その際の新造語であり、実際に鎖国という言葉が普及するのは明治以降で、それ以後は以前の政策も鎖国の名で呼ばれることになった。そのため、近年では「鎖国」ではなく、他の東アジア諸国でも見られた「海禁」にあらためようとする動きがある。なお、当然ケンペルはいわゆる鎖国体制を肯定する立場である。
要約すると、「日本のように他国よりも資源に富み、勤勉な国民により産業が発達している国、つまり自給自足で豊かな国が、何も求めるものの無い外国人からの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などから守るために、門戸を閉ざすのは適切で、そうするべきである」というもので、志筑の造語(鎖国)もこの立場からの言葉であった。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』