TAZUKO多鶴子

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『青山二郎の思い出』…小説家・宇野千代より

2008-06-18 | TAZUKO多鶴子からの伝言
青山二郎の思い出を、
誰もがよく知っている小説家、
宇野千代は次のように綴っている。

「 わたしは沢山のことを教わりました。
 ものを見る眼、
     素直であること。
 自分を空しうすること…。
 骨董についてもいろいろ教わったような気がするけど、
 ただ青山さんは『教える』ということをなさらない。
 自分の眼で見なさい、
     というそれだけでしたね。
 小説を書く上でも、
 青山さんから学んだことは沢山あります。
 公平無私な精神で書く、
     ということ。
 あの人はわたくしの小説を、
 よく出来てはいるがまだまだ、
     と思っていたでしょうね。 」

『青山学院』の卒業生の大半が、
青山から離れていったが、
最後まで付き合っていたのが宇野千代であった。
青山が志賀高原から帰宅し、
要体が急におかしくなって入院した時も、
その病院を紹介したのは宇野であった。
自宅で亡くなった後の密葬の時も、
和子夫人と共に宇野は青山の側にいた。



<参考資料>『陶に遊び美を極める…青山二郎の素顔』
       森 孝一:編
       安藤秀幸:発行者
       (株)里文出版:発行所

       

新たな企画や個展等の話しが様々な所から…

2008-06-17 | TAZUKO多鶴子からの伝言
何故だか
ここ最近続けて様々な所から、
ビックな企画や個展等のお話しのご連絡を頂いています。
しかも、
作家として有り難いお話しばかりなのです。
でも…身体は一つなので…
全てお受けする事が出来ないのが
とても残念です。
もったいない話しばかりなので、
忙しい事を承知で
幾つかの話しはお受けする予定なのですよ!
どんな内容なのか
皆様にお知らせしたい所なのですが、
現在進行形のビックな内容ばかりで…
暫くの間ネットでは公開出来ません。
公開まで…どうか今暫く待ち下さい。
これから益々、
作家として
更に大きくなっていくTAZUKO多鶴子をお楽しみに!
皆様!
応援宜しくお願い申し上げます。

『寺田屋』に行って来ました…

2008-06-16 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は有名な『寺田屋』に行って来ました。
多くの方が知っている坂本龍馬の暗殺事件。
あの有名な歴史に残る事件に出て来る名称『寺田屋』。
その『寺田屋』まで行って来たのですが、
あいにく月曜日がお休みで、
残念ながら中には入れませんでした。
色々と調べてみると、当時の建物と違っているそうですが…
当時の様子を再現した状態でしょうから、
それを知る為には一度は見ておきたい所でもありました。
今日はお休みにも関わらず、
沢山の観光客が写真を撮っていて
その会話から聞こえて来るのは『龍馬…龍馬』の名前ばかりでした。
今だに慕われ続けている『坂本龍馬』。
私も大好きな人物の一人です。
でも…龍馬だけで無く…幕末の志士達には敬服するばかりです。
以前の個展イベントで『幕末の志士達展』をしましたが、
作品を制作する為に、
当時の志士達の様々な生き様の歴史を調べてみました。
あの若さで彼らはやはり皆凄いです。
志を持って命を燃やし、
強く生きた志士達。
その時に感じた深い感動を今も忘れません。
はたして…今の人達に…
あの生き方が出来る人が…
どれだけいるのでしょうか?
そんな事を考えながら…
『寺田屋』を後にしました。


<寺田屋事件>
寺田屋事件(てらだやじけん)とは江戸時代末期の京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した事件である。以下の2つの事件が寺田屋事件と呼ばれる。
1 文久2年(1862年)に発生した薩摩藩尊皇派等の粛清事件。
2 慶応2年(1866年)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
<坂本龍馬襲撃事件>
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件。
龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避し、しばらくの間は西郷隆盛の斡旋により鹿児島に潜伏する。お龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。龍馬は主に銃で反撃。左手の親指を負傷。
<現在の寺田屋との関係>
現在の寺田屋の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかし、これらの事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものである(明治38年(1905年)に登記されている)。特に湯殿がある部分は明治41年(1908年)に増築登記されたもので、当時のものではあり得ない(お龍はその2年前に病没)。
当時の建物の敷地は現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所(京都市伏見区南浜町262番地)であるが、この土地は大正3年(1914年)に所有者(寺田屋主人とは血縁関係にない)から当時の京都府紀伊郡伏見町に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

紀伊國屋書店『高松店』からパステル画ご注文(^-^)

2008-06-15 | パステル画
今日大変嬉しいご連絡を頂きました。
いつも大変お世話になっている
紀伊國屋書店の高松店の
坂谷店長からのご連絡です。
現在、
高松店では『TAZUKO多鶴子作品のコーナー』があり
パステル画(ブログ写真)を展示して下さっているのです。
そのパステル画『猫』の絵をご覧頂いてのオーダーのご注文です。
『TAZUKO多鶴子ネット画廊』のネットでの紹介もしているのですが、
やはり本物を見るに勝るものはないのでしょうね!
え?金額?
金額は『TAZUKO多鶴子ネット画廊』の金額ですよ~。
以前の安価な金額はもう既に時期が過ぎ、
作家としても以前の金額でお受けする事が
作家レベルを下げてしまいますので…。
現代は仕方ない時代なのですね!
金額で作家のレベルを計る時代なのですから…。
それに以前よりも美術年鑑等でも作家金額が上がっていますし、
スイスでも絵が売却された実績も出来ましたしね。
でも…制作時間や画歴等を考えたら今の金額でも安いと思うのです。
ブログでは具体的には出さなかったと思うのですが…
広島店等で絵画金額をご存知の方で眼力のある方がよく言われていました。
「この絵だと、オーダー作品だから、一人描くパステル作品だけで、F4号で10万円以上はするだろう…」と。
それから
金額が高額になる方が坂谷店長にもご恩を返せるはずですから…。
この企画を考え、
チャンスを下さったのは勿論!高松店店長の坂谷嘉久店長です。 
坂谷店長の企画力と頭脳と感性にはいつも敬服するばかりです。
今までの企画も凄いアイデアばかりです(^ ^)
坂谷店長との出会いに感謝で一杯です!
坂谷店長は私という作家をここまで育てて下さった方のお一人です!
昔も今もご恩を感じ、そして今後も益々…。

このご恩に答える為には、
作家として
まだまだ大きく成長するよう頑張るしかありません。
さて~頑張るぞ~!

坂谷店長!
本当にほんとうに!
ありがとうございました。



梅雨の季節から…『紫陽花』

2008-06-14 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今年も梅雨の季節がやってきましたね~(^ ^)
雨ばかりのジメジメした季節で嫌な方も多いと思います。
しかし、
見方を変えれば素敵な季節でもあります。
梅雨の季節に画学生の頃『苔寺』まで行って、
雨上がりの水滴で輝いた眩いばかりの美しい苔を見て、
美しさに感嘆した思い出があります。
まさに梅雨の季節が見せてくれる、
魔法のような瞬間でした。
又この季節、
美しい『紫陽花』の花が咲く季節でもあります。
母は梅雨の季節に亡くなりましたが…花が大好きでした。
そして…
亡くなった父は『紫陽花』の花が大好きだった…
私にとては、
そんなことを思い出す季節でもあります。

今日は『紫陽花』に絡んで
『花の由来』と、
その名付けの親…詩人『白居易』をご紹介します。
下記をご覧下さい。


<紫陽花>
最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイを改良した品種である。
花の色は、助色素というアントシアニンの発色に影響を与える物質のほか、土壌のpH濃度、アルミニウムイオン量によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。日本原産の最も古いものは、青色だという。花はつぼみのころは緑色、それが白く移ろい、咲くころには水色、または薄紅色。 咲き終わりに近づくにつれて、花色は濃くなっていく。
「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人『白居易』が別の花(ライラックか?)に名付けたもので、平安時代の学者源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。


<白居易>
772年、鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官を輩出するくらいの低い家柄であったが、安禄山の乱以後の政治改革により低い家系でも取り立てられやすくなったおかげもあり、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳でちゅうちつ県(陝西省)の尉になり、翰林学士、左拾遺にまで上りつめた。このころ、『新楽府』を完成させた。
その後、左遷され地方の長官を歴任。任期を終え中央へ戻り838年刑部侍郎、836年太子少傅、842年刑部尚書となり引退。74歳のとき『白氏文集』を完成させ、75歳にしてその生涯を閉じる。
*逸話*
唐の白居易は禅を好み、禅僧道林(鳥カ和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示された。 白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか!」といったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられ、謝ったという。これは史実ではないが、道元もこの逸話について論じており、「わかる」と「できる」とは全く異なるということを示した逸話として有名である。
*禅僧との交流*
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。
『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥?道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。


<七仏通誡偈>
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)は、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)を讃える偈である。『法句経』に収録されている。 上座部仏教及び禅宗に於いて特に重んぜられ、禅宗では日常の読経にも取り入れられている。一休宗純による「諸悪莫作・衆善奉行」と大書した掛け軸が有名である他、道元は「正法眼蔵」で「諸悪莫作」の巻を設けてこの教えについて詳細に述べている。
・ 諸悪莫作(しょあくまくさ) … もろもろの悪を作すこと莫く
・ 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) … もろもろの善を行い
・ 自浄其意(じじょうごい) … 自ら其の意(こころ)を浄くせよ
・ 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) … 是がもろもろの仏の教えなり
(「衆善奉行」は漢語訳によっては「諸善奉行」とすることもある。)




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