2013年12月2日。
《エジプト、アスワンからスーダン、ワーディ・ハルファに向かうフェリーの船上。ここでの光景を目にしていると、僕は何だか絶望と無力感に包まれてしまう。》
エジプトからスーダンに向かうフェリー。「かなりすごいらしいよ!」との噂は聞いていたが、それはそれはなかなかのものだった。
信じられない量の荷物に埋もれるフェリー。「いったい何をそんなに運んでいるの?」と、マジで聞きたくなる。そしてその間で、その上で眠るスーダン人。いや~なかなかタフなフェリーだ。
しかし僕がこの船上で一番感じたのは、そんな噂通りのフェリーの凄まじさではない。それよりも「僕らが日本でやっていることって、効果的なのかな・・・」という、無力感である。
それは、彼らのゴミの捨て方。
柵も何もないフェリーの甲板に座る彼ら。そして僕もその隣に座っている。彼らは水を飲んだりお菓子を食べたりしているのだが、そのゴミの行く先はどこかというと・・・。
全て、湖である。
面白いほどに、全てのゴミを湖に投げ捨てる。
ペットボトル?生ゴミ?紙屑?ビニール袋?そんなの関係ねぇ。
「湖は僕らのゴミ箱さ!」とでも言わんばかりに、バンバン湖に投げ捨てる。
僕はそれを見て、深く考えさせられる。僕たちは日本で、それなりに環境教育を受けてきたし、またそれなりに行ってきたつもりだ。少なくとも、こんな異常なまでのゴミの投げ捨をする日本人は少ないだろう。
南米の時と同じだ、この感覚、この無力感。
僕は日本で「ゴミの投げ捨てはいけませんよ」とか、「これからはゴミを減らし、再生利用していかなければいけない時代ですよ」と教えてきた。教わってきた。それは学校に限った話ではなく、メディアでも家庭でも、大筋は同じであろう。
きっとそれは、それ自体は間違っていない。正しいことのはずだ。
しかし、今僕の目の前には、あらゆるゴミを目の前の美しい湖に笑顔で投げ捨てまくる大人たちがいる。
僕は決して、このようなゴミの捨て方をするスーダン人だけを批判するつもりなどない。確かにこの行為自体は良くないのだろうが、僕たちはその背景を、そして根本的な問題点を考えなければいけないはずだ。
「窓から投げ捨てる」ゴミの捨て方を子どもに教えるボリビアの親子には、ショックを受けた。
飲み終ったビンを窓から落とし、その割れる音を楽しむベリーズの若い夫婦にもショックを受けた。
そして、あらゆるゴミをバンバン湖に投げまくるフェリーの上のスーダン人にも、ショックを受けている。
いや、「今更」の話なんですよ。発展途上国と言われている国を周れば、凄まじいゴミの散乱なんて当たり前。いちいち「今更」驚くことじゃない。それは分かっているんです。
それでもやっぱり、僕は考える。「僕たちの本当にすべきことはなんなのか」と。
「だってね、意味ないですよ?日本とかほんの一部の先進国で環境保護やら何やら取り組みしたところで、世界の多くを占めている発展途上国では、こんな状況ですよ?こんなんじゃ世界は変わらない。日本でちまちま小さな取り組みしたって、それを何倍も覆すようなことが発展途上国では起きている。これじゃ日々叫ばれている環境保護なんて、無意味ですよ無意味!」
そんな気持ちにも陥る。
じゃあだからと言って、今後一切「環境のことなんて考えるのや~めた!」でいいのか?
いや、それは違うだろう。それもまた絶対に違うはずだ。
こんなこと、以前南米でも書いたなぁ。今あの時と全く同じような気持ちだ。
「何を言っているんだ。だからこそ、色々な国際協力組織があるんだろう。政府レベルでの協力から草の根での活動まで、様々なことを日本だってやっているじゃないか。オマエはそんな活動も見てきているじゃないか。話も聞いてきたじゃないか。小さなことかもしれないけど、それを重ねていくしか道はない。一気に解決は出来ないけど、少しずつ、ほんの半歩ずつでも、前に進んでいく。それしか道はない。今目の前にある小さなことをやっていく。それでいいんだ。」
綺麗事を書こうとすれば、今の僕の文章はこんな感じでまとめたらいいのだろう。「小さなことだけど、目の前のことを頑張る。それが少しずつの進歩に繋がる」。きっと間違ってはいない。
でも、そんな綺麗な結末は止めてみる。
僕は今、発展途上国にいる。発展途上国ばかりを周っている。僕はどこかの組織に属しているなどして、発言が制限されているわけではない。だから、率直にいこう。じゃなきゃ、僕の旅の意味がない。
僕の感覚。
残念だけど、本当に残念だけど、発展途上国と言われている国の現状は、ひどい。これが世界なんだなって思う。
インドやエジプトの街。とても刺激的だ。とても面白い。
なぜ刺激的?なぜ面白い?嫌な言い方だけど、「汚さ」もその要素の1つだろう。特に日本人にとっては。
なんで「刺激的」なんて言えるの?なんで「面白い」なんて言えるの?それは僕らが所詮「旅人」だから。
もし「マジで世界の問題を解決してやる!」って気持ちで見たら、それは絶望でしかない。「刺激的」とか「面白い」なんて、口が裂けてもいえないはずだ。
そのくらいに、ひどい。僕はそう思う。
悪いのはなに?政治?経済?教育?人間?
きっと、その全てに責任があるのだろう。メッチャ複雑な歯車が不思議に噛み合って、今の世界は周っている。
日本はその歯車のなかで、「たまたま」美味しめのところを食らっているだけ。
そういう視点で見ると、旅なんてクソッタレだ。ただの「怖いもの見たさ」に過ぎない。ただの「冷やかし」に過ぎない。ただの「他の家のこと」に過ぎない。
そういう視点で見ると、旅なんて「学び」じゃないのかも。「絶望」を味わうだけだ。「無力感」に浸るだけだ。
あ~あ、また陥ったぞ、俺!どうにもならん「思考のループ」に!
でも、たとえそれが「どうにもならん」ループであったとしても、そこに陥ることそのものに価値があると僕は信じています。
だから、こうしてこの文章も書いています。
だから、旅も続けています。
だから、もうちょっとこの「どうにもならんループ」の中に身を置いておきます。草々。
2013年12月2日。夜遅くに辿り着いたら目的の宿が閉まっていて、慌てて探したすぐ近くの安宿にて。
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《エジプト、アスワンからスーダン、ワーディ・ハルファに向かうフェリーの船上。ここでの光景を目にしていると、僕は何だか絶望と無力感に包まれてしまう。》
エジプトからスーダンに向かうフェリー。「かなりすごいらしいよ!」との噂は聞いていたが、それはそれはなかなかのものだった。
信じられない量の荷物に埋もれるフェリー。「いったい何をそんなに運んでいるの?」と、マジで聞きたくなる。そしてその間で、その上で眠るスーダン人。いや~なかなかタフなフェリーだ。
しかし僕がこの船上で一番感じたのは、そんな噂通りのフェリーの凄まじさではない。それよりも「僕らが日本でやっていることって、効果的なのかな・・・」という、無力感である。
それは、彼らのゴミの捨て方。
柵も何もないフェリーの甲板に座る彼ら。そして僕もその隣に座っている。彼らは水を飲んだりお菓子を食べたりしているのだが、そのゴミの行く先はどこかというと・・・。
全て、湖である。
面白いほどに、全てのゴミを湖に投げ捨てる。
ペットボトル?生ゴミ?紙屑?ビニール袋?そんなの関係ねぇ。
「湖は僕らのゴミ箱さ!」とでも言わんばかりに、バンバン湖に投げ捨てる。
僕はそれを見て、深く考えさせられる。僕たちは日本で、それなりに環境教育を受けてきたし、またそれなりに行ってきたつもりだ。少なくとも、こんな異常なまでのゴミの投げ捨をする日本人は少ないだろう。
南米の時と同じだ、この感覚、この無力感。
僕は日本で「ゴミの投げ捨てはいけませんよ」とか、「これからはゴミを減らし、再生利用していかなければいけない時代ですよ」と教えてきた。教わってきた。それは学校に限った話ではなく、メディアでも家庭でも、大筋は同じであろう。
きっとそれは、それ自体は間違っていない。正しいことのはずだ。
しかし、今僕の目の前には、あらゆるゴミを目の前の美しい湖に笑顔で投げ捨てまくる大人たちがいる。
僕は決して、このようなゴミの捨て方をするスーダン人だけを批判するつもりなどない。確かにこの行為自体は良くないのだろうが、僕たちはその背景を、そして根本的な問題点を考えなければいけないはずだ。
「窓から投げ捨てる」ゴミの捨て方を子どもに教えるボリビアの親子には、ショックを受けた。
飲み終ったビンを窓から落とし、その割れる音を楽しむベリーズの若い夫婦にもショックを受けた。
そして、あらゆるゴミをバンバン湖に投げまくるフェリーの上のスーダン人にも、ショックを受けている。
いや、「今更」の話なんですよ。発展途上国と言われている国を周れば、凄まじいゴミの散乱なんて当たり前。いちいち「今更」驚くことじゃない。それは分かっているんです。
それでもやっぱり、僕は考える。「僕たちの本当にすべきことはなんなのか」と。
「だってね、意味ないですよ?日本とかほんの一部の先進国で環境保護やら何やら取り組みしたところで、世界の多くを占めている発展途上国では、こんな状況ですよ?こんなんじゃ世界は変わらない。日本でちまちま小さな取り組みしたって、それを何倍も覆すようなことが発展途上国では起きている。これじゃ日々叫ばれている環境保護なんて、無意味ですよ無意味!」
そんな気持ちにも陥る。
じゃあだからと言って、今後一切「環境のことなんて考えるのや~めた!」でいいのか?
いや、それは違うだろう。それもまた絶対に違うはずだ。
こんなこと、以前南米でも書いたなぁ。今あの時と全く同じような気持ちだ。
「何を言っているんだ。だからこそ、色々な国際協力組織があるんだろう。政府レベルでの協力から草の根での活動まで、様々なことを日本だってやっているじゃないか。オマエはそんな活動も見てきているじゃないか。話も聞いてきたじゃないか。小さなことかもしれないけど、それを重ねていくしか道はない。一気に解決は出来ないけど、少しずつ、ほんの半歩ずつでも、前に進んでいく。それしか道はない。今目の前にある小さなことをやっていく。それでいいんだ。」
綺麗事を書こうとすれば、今の僕の文章はこんな感じでまとめたらいいのだろう。「小さなことだけど、目の前のことを頑張る。それが少しずつの進歩に繋がる」。きっと間違ってはいない。
でも、そんな綺麗な結末は止めてみる。
僕は今、発展途上国にいる。発展途上国ばかりを周っている。僕はどこかの組織に属しているなどして、発言が制限されているわけではない。だから、率直にいこう。じゃなきゃ、僕の旅の意味がない。
僕の感覚。
残念だけど、本当に残念だけど、発展途上国と言われている国の現状は、ひどい。これが世界なんだなって思う。
インドやエジプトの街。とても刺激的だ。とても面白い。
なぜ刺激的?なぜ面白い?嫌な言い方だけど、「汚さ」もその要素の1つだろう。特に日本人にとっては。
なんで「刺激的」なんて言えるの?なんで「面白い」なんて言えるの?それは僕らが所詮「旅人」だから。
もし「マジで世界の問題を解決してやる!」って気持ちで見たら、それは絶望でしかない。「刺激的」とか「面白い」なんて、口が裂けてもいえないはずだ。
そのくらいに、ひどい。僕はそう思う。
悪いのはなに?政治?経済?教育?人間?
きっと、その全てに責任があるのだろう。メッチャ複雑な歯車が不思議に噛み合って、今の世界は周っている。
日本はその歯車のなかで、「たまたま」美味しめのところを食らっているだけ。
そういう視点で見ると、旅なんてクソッタレだ。ただの「怖いもの見たさ」に過ぎない。ただの「冷やかし」に過ぎない。ただの「他の家のこと」に過ぎない。
そういう視点で見ると、旅なんて「学び」じゃないのかも。「絶望」を味わうだけだ。「無力感」に浸るだけだ。
あ~あ、また陥ったぞ、俺!どうにもならん「思考のループ」に!
でも、たとえそれが「どうにもならん」ループであったとしても、そこに陥ることそのものに価値があると僕は信じています。
だから、こうしてこの文章も書いています。
だから、旅も続けています。
だから、もうちょっとこの「どうにもならんループ」の中に身を置いておきます。草々。
2013年12月2日。夜遅くに辿り着いたら目的の宿が閉まっていて、慌てて探したすぐ近くの安宿にて。
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