2014年7月5日
《あなたは「中国人民抗日戦争記念館」を知っていますか?》
今日、こんな場所に行ってきた。
ここは「中国人民抗日戦争記念館」。北京市内の中心部から、少しだけ外れたところにある。
「たぶん嫌~な気持ちになるんだろうな・・・」と思って行くかどうか考えていたのだけれど、入場料も無料だだと聞いたし、近くにある盧溝橋にはぜひ行ってみたかったので、足を運んでみることにした。
※ちなみに盧溝橋はこんな感じでございます~!
結果から言えば、行ってよかった。ものすごく行ってよかった。だけど、本当に考えさせられる場所だった。
だってあんな展示の仕方をしたら・・・そりゃ反日になりますよ!あの記念館の中じゃ、日本人は悪魔でしかないんだから・・・。
僕は一応は社会科の教員だし近現代史にはとても関心があるけど、研究者というわけではないから正直そこまで詳しいことは分からない。あの戦争においても、本当は何が真実で何が虚偽なのか、分かっているようで全然分かっていないんだと思う。そんなに頭良くねぇし、俺。
だから偉そうなことは何も言えないんだけど、でもやっぱり僕なりに感じるものがとんでもなくあった。
この記念館の中では、日本人は悪魔の申し子でしかなかった。「俺が日本人って分かったら、マジで殺されちゃうんじゃないの?」そう思わせられるほど、そこでは日本人は悪者でしかなかった。
僕はここで、あの戦争についての善悪や賛否を問い質すつもりなどない。日本は実は何をしたのか?それについて自論を語るつもりもない。だけど、あの記念館を見て、やっぱり日本人として思うところはある。
確かに日本と中国は戦争をした。その中で、日本兵による残虐な行為は確かにあったのだろう。戦争とはそういうものだ。戦争という特異な状況下で、異常な事態が全くないなんてことは有り得ない。
だけど・・・あの記念館のような表現の仕方は常軌を逸している。国によってその戦争への捉え方、考え方が違うことはよく分かっている。だけどあれじゃ、ただの「反日意識養成博物館」だ。僕にはそう感じた。
僕はどこかの評論家みたいに、日本は絶対的に正しかったなどと言うつもりはない。だけど、日本が絶対的に悪かったなどとも言うつもりもない。
僕が何より恐れていること。それは、あの記念館の表現の仕方では、新たな対立と憎しみを生むだけでしかないということだ。
僕はここで、あの戦争の真偽や罪悪を問いたいのではない。ただ恐れているのは、あれを見た次の世代への意識の問題だ。
あの記念館を見た中国人の子ども達は、間違いなく日本人への恨みと憎しみを抱くことになるだろう。そしてあの記念館を見た日本人は、逆に中国人への反感を抱くことになるだろう。
歴史を学び後世に伝えることは確かに大切だ。特に戦争の歴史は忘れてはならず、これまで人類は幾度となく戦争を繰り返してきたけれど、少しでもそれを無くす方向へ進んでいかなければならない。
某国の元首はよくこう言う。「歴史を正視しろ、正しく認識しろ。」と。
その言葉はその通りだ。歴史を真っ直ぐ見つめ、そこから学び、平和な世界へと繋げていくことが大切だと。そりゃそうだ、その通りだ。
しかし、僕は思う。「歴史を知るということは憎しみを抱くことなのか?」と。歴史に対する捉え方は国それぞれだ。どちらかが真っ黒でどちらかが真っ白ということなんてなく、どちらかが完全に悪でどちらかが完全に善なんてこともなく、必ずやそれはグレーゾーンなのだ。100:0なんてことはない。
それが歴史だ。歴史を学ぶということは、それぞれの見方はありつつも、そのグレーゾーンを理解し、いかにして他国を理解し尊重し、先に繋げていくかの作業のはずである。そういう点から見れば、僕はあの記念館のような展示の仕方は容認できない。あれではただ闇雲に「反日意識」を生み出すだけにすぎないからだ。
日本のテレビの討論番組にしたってそうだ。見ていると、何だかみんなが「100:0」で話し合う。「違うべ、そうじゃねーべ!」って僕は思う。戦争とは必ずお互いに非があり、でも必ずお互いに正義がある。お互いにグレーな部分があり、そして共通している部分もある。そこを理解して話さなけりゃ何も始まらない。討論を見ていて、いつも嘆かわしく僕は思っている。
僕に言わせれば、世界に存在する全ての国が「戦争犯罪国」みたいなものだ。戦争を経験した国は、みんな何かしらの「負」を抱えている。その国にとっては正義であったとしても、一歩外から見れば正義ではない。一度戦争になれば、どの国も必ず多かれ少なかれ非人道的な行為を犯していることだろう。
それが戦争だ。3歩くらい退いて、感情を抜きにして、冷静に落ち着いて話をしなければ、こういう話は何も前には進まない。
僕は展示物を見ながら、トルコで出会ったある中国人のことを思い出した。
「僕は小さい頃から、日本人は悪だと学校で教わってきた。でも実際に日本人に会ってみたら、全然そんなことはなかった。みんな驚くほど良い人だったんだ。」
彼は僕にそんな話をしてくれた。
ここで重要なのは、実際に日本人が良いか悪いかではない。「悪い」と思い込まされてしまう、それが重要なことだと思う。
「教育は一歩間違えれば大罪だ」僕はそう思った。
中国はもう夏休みなのだろうか、館内にはたくさんの小学生が詰めかけていた。
彼らはどんな想いで、これらの展示物を目にしているのだろう。そして「日本人」というものに、どんな想いを抱くのだろう。
帰り際、僕は入り口の横にある「記帳ノート」を読んでみた。そしたら・・・こんな文字が大きく書かれているものがいくつもあった。
「抗日!」
年齢は小学生だった。パラパラ僕が見ただけでも4~5人、皆11~12歳くらいの年齢だった。
僕は恐ろしくなった。多感な時期の彼らはここでこのような展示物を見、そして学校でも「日本は悪だ」と教わり、そして大人になる・・・。どんな人間になるんだろうって・・・。
僕は心から、日本と中国が良い関係になってほしいと思っている。そのためには、まずはお互いに「悪い先入観」を持たないようにすることが絶対大切だと思うのだ。
上手く言えなんだけど・・・僕は、日本のあの大戦での話を全て正当化するようなことはしない。しかし、この記念館のような表現の仕方も、僕は正しいとは思わない。
僕はあの記念館からは、プロパガンダの臭いがプンプンした。必要以上に日本を悪者に仕立て上げ、国民に共通の敵を作る・・・。まさに「ハンチントン罠」そのものなのではないだろうか。
もう1つ展示物の視点で言えば、不正が証明された写真、現在もなお論争中の事件やその数値を、さも「確定された真実」のように展示することは容認できない。不正が証明された写真を使用するなんてことはまずもっておかしいし、論争中のものであれば、双方の主張を展示するのが当然だ。それをせず、一方のみの視点でしか展示されていないのには憤りを感じる。
記念館の最後のブースは「平和のために」という内容でまとめられていたが、僕にはそうは思えなかった。上手く言葉ではそうまとめているけれど、あれでは「平和のため」にならない。「新たな対立のため」にとしか思えない。僕は記念館を出る時、少なからず恐怖すら感じていた。
日本人として、あのような博物館が中国に存在していることを絶対に知っておくべきだろう。その後僕たちがどのような判断をしてどのような行動を取るか、それは僕たち次第だ。でも、どのような判断をしてどのような行動を取るにしても、僕たちは「自分の頭で考えて」先に進まなければならない。
とても居心地は悪かった。でも学ぶべきものはあまりに多かった。それが北京の「中国人民抗日戦争記念館」だった。
2014年7月5日。相変わらずのどんよりした薄曇り空が広がっている、北京の安宿にて。
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《あなたは「中国人民抗日戦争記念館」を知っていますか?》
今日、こんな場所に行ってきた。
ここは「中国人民抗日戦争記念館」。北京市内の中心部から、少しだけ外れたところにある。
「たぶん嫌~な気持ちになるんだろうな・・・」と思って行くかどうか考えていたのだけれど、入場料も無料だだと聞いたし、近くにある盧溝橋にはぜひ行ってみたかったので、足を運んでみることにした。
※ちなみに盧溝橋はこんな感じでございます~!
結果から言えば、行ってよかった。ものすごく行ってよかった。だけど、本当に考えさせられる場所だった。
だってあんな展示の仕方をしたら・・・そりゃ反日になりますよ!あの記念館の中じゃ、日本人は悪魔でしかないんだから・・・。
僕は一応は社会科の教員だし近現代史にはとても関心があるけど、研究者というわけではないから正直そこまで詳しいことは分からない。あの戦争においても、本当は何が真実で何が虚偽なのか、分かっているようで全然分かっていないんだと思う。そんなに頭良くねぇし、俺。
だから偉そうなことは何も言えないんだけど、でもやっぱり僕なりに感じるものがとんでもなくあった。
この記念館の中では、日本人は悪魔の申し子でしかなかった。「俺が日本人って分かったら、マジで殺されちゃうんじゃないの?」そう思わせられるほど、そこでは日本人は悪者でしかなかった。
僕はここで、あの戦争についての善悪や賛否を問い質すつもりなどない。日本は実は何をしたのか?それについて自論を語るつもりもない。だけど、あの記念館を見て、やっぱり日本人として思うところはある。
確かに日本と中国は戦争をした。その中で、日本兵による残虐な行為は確かにあったのだろう。戦争とはそういうものだ。戦争という特異な状況下で、異常な事態が全くないなんてことは有り得ない。
だけど・・・あの記念館のような表現の仕方は常軌を逸している。国によってその戦争への捉え方、考え方が違うことはよく分かっている。だけどあれじゃ、ただの「反日意識養成博物館」だ。僕にはそう感じた。
僕はどこかの評論家みたいに、日本は絶対的に正しかったなどと言うつもりはない。だけど、日本が絶対的に悪かったなどとも言うつもりもない。
僕が何より恐れていること。それは、あの記念館の表現の仕方では、新たな対立と憎しみを生むだけでしかないということだ。
僕はここで、あの戦争の真偽や罪悪を問いたいのではない。ただ恐れているのは、あれを見た次の世代への意識の問題だ。
あの記念館を見た中国人の子ども達は、間違いなく日本人への恨みと憎しみを抱くことになるだろう。そしてあの記念館を見た日本人は、逆に中国人への反感を抱くことになるだろう。
歴史を学び後世に伝えることは確かに大切だ。特に戦争の歴史は忘れてはならず、これまで人類は幾度となく戦争を繰り返してきたけれど、少しでもそれを無くす方向へ進んでいかなければならない。
某国の元首はよくこう言う。「歴史を正視しろ、正しく認識しろ。」と。
その言葉はその通りだ。歴史を真っ直ぐ見つめ、そこから学び、平和な世界へと繋げていくことが大切だと。そりゃそうだ、その通りだ。
しかし、僕は思う。「歴史を知るということは憎しみを抱くことなのか?」と。歴史に対する捉え方は国それぞれだ。どちらかが真っ黒でどちらかが真っ白ということなんてなく、どちらかが完全に悪でどちらかが完全に善なんてこともなく、必ずやそれはグレーゾーンなのだ。100:0なんてことはない。
それが歴史だ。歴史を学ぶということは、それぞれの見方はありつつも、そのグレーゾーンを理解し、いかにして他国を理解し尊重し、先に繋げていくかの作業のはずである。そういう点から見れば、僕はあの記念館のような展示の仕方は容認できない。あれではただ闇雲に「反日意識」を生み出すだけにすぎないからだ。
日本のテレビの討論番組にしたってそうだ。見ていると、何だかみんなが「100:0」で話し合う。「違うべ、そうじゃねーべ!」って僕は思う。戦争とは必ずお互いに非があり、でも必ずお互いに正義がある。お互いにグレーな部分があり、そして共通している部分もある。そこを理解して話さなけりゃ何も始まらない。討論を見ていて、いつも嘆かわしく僕は思っている。
僕に言わせれば、世界に存在する全ての国が「戦争犯罪国」みたいなものだ。戦争を経験した国は、みんな何かしらの「負」を抱えている。その国にとっては正義であったとしても、一歩外から見れば正義ではない。一度戦争になれば、どの国も必ず多かれ少なかれ非人道的な行為を犯していることだろう。
それが戦争だ。3歩くらい退いて、感情を抜きにして、冷静に落ち着いて話をしなければ、こういう話は何も前には進まない。
僕は展示物を見ながら、トルコで出会ったある中国人のことを思い出した。
「僕は小さい頃から、日本人は悪だと学校で教わってきた。でも実際に日本人に会ってみたら、全然そんなことはなかった。みんな驚くほど良い人だったんだ。」
彼は僕にそんな話をしてくれた。
ここで重要なのは、実際に日本人が良いか悪いかではない。「悪い」と思い込まされてしまう、それが重要なことだと思う。
「教育は一歩間違えれば大罪だ」僕はそう思った。
中国はもう夏休みなのだろうか、館内にはたくさんの小学生が詰めかけていた。
彼らはどんな想いで、これらの展示物を目にしているのだろう。そして「日本人」というものに、どんな想いを抱くのだろう。
帰り際、僕は入り口の横にある「記帳ノート」を読んでみた。そしたら・・・こんな文字が大きく書かれているものがいくつもあった。
「抗日!」
年齢は小学生だった。パラパラ僕が見ただけでも4~5人、皆11~12歳くらいの年齢だった。
僕は恐ろしくなった。多感な時期の彼らはここでこのような展示物を見、そして学校でも「日本は悪だ」と教わり、そして大人になる・・・。どんな人間になるんだろうって・・・。
僕は心から、日本と中国が良い関係になってほしいと思っている。そのためには、まずはお互いに「悪い先入観」を持たないようにすることが絶対大切だと思うのだ。
上手く言えなんだけど・・・僕は、日本のあの大戦での話を全て正当化するようなことはしない。しかし、この記念館のような表現の仕方も、僕は正しいとは思わない。
僕はあの記念館からは、プロパガンダの臭いがプンプンした。必要以上に日本を悪者に仕立て上げ、国民に共通の敵を作る・・・。まさに「ハンチントン罠」そのものなのではないだろうか。
もう1つ展示物の視点で言えば、不正が証明された写真、現在もなお論争中の事件やその数値を、さも「確定された真実」のように展示することは容認できない。不正が証明された写真を使用するなんてことはまずもっておかしいし、論争中のものであれば、双方の主張を展示するのが当然だ。それをせず、一方のみの視点でしか展示されていないのには憤りを感じる。
記念館の最後のブースは「平和のために」という内容でまとめられていたが、僕にはそうは思えなかった。上手く言葉ではそうまとめているけれど、あれでは「平和のため」にならない。「新たな対立のため」にとしか思えない。僕は記念館を出る時、少なからず恐怖すら感じていた。
日本人として、あのような博物館が中国に存在していることを絶対に知っておくべきだろう。その後僕たちがどのような判断をしてどのような行動を取るか、それは僕たち次第だ。でも、どのような判断をしてどのような行動を取るにしても、僕たちは「自分の頭で考えて」先に進まなければならない。
とても居心地は悪かった。でも学ぶべきものはあまりに多かった。それが北京の「中国人民抗日戦争記念館」だった。
2014年7月5日。相変わらずのどんよりした薄曇り空が広がっている、北京の安宿にて。
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