2013年9月4日。
《今日最後に訪れた村の様子です。山の斜面に張り付くように家が立ち並び、その様子は決して裕福ではありません。でも、優しさと笑顔が常にそこにはあるんですよね・・・。》
僕、「先住民族」って好きなんですよ。昔から何故か「先住民族」という言葉が好きで、会ったことも見たこともない子どもの時から、何故か不思議な魅力を感じていました。理由は自分でも分かりません。前世とかの関係ですかね・・・(笑)!
それは冗談として、だから僕は南米だとボリビアが大好きなんです。ボリビアは先住民族の比率が高く、街中を綺麗な民族衣装をまとった人々が随所にいるからというのがその理由の1つです。
なんかね、いいんですよ!(笑)南米のインディヘナの方々って顔つきも日本人にとても似ているし、すごく親近感を感じるんです。なんでなんだろうなぁ、やっぱり自分でも本当のところは分かりません。
グアテマラを訪れる際に色々調べていたら、多くの先住民族の村に行くことができるとありました。これは僕的には行かないわけにはいかないんですね(笑)!グアテマラに入国して真っ先にパナハッチェルに来たのも、先住民族の村々を訪れることが第一の目的だったからです。
でも、すごく考えるんです。「先住民族の村を訪れる」っていうことは、どういうことなのかって。
僕は自分自身は、ただの観光気分とか冷やかしとかなどではもちろんなく、純粋に先住民族の昔ながらの暮らしや歴史、文化に興味があり、本当に「お邪魔させていただく」気持ちで村に足を踏み入れている(つもりである)。でも、それってどうなんだろう。
迷惑ですよね、きっと。嫌ですよね、きっと。どっか他の国の人間が自分たちの生活の場にやって来て、なにやらジロジロ見てバシバシ写真撮ったりして、気分いいわけがないですよね。
僕がどんな気持ちでいるとか、彼らには関係ない。仮にどんなに純粋で崇高で相手を尊重する気持ちであったとしても、気持ちがいいものではないはずだ。
パナハッチェルの麓にあるアティトラン湖。綺麗ですよね。この周辺に、いくつもの先住民族の村々が存在しています。
僕は今日、4つの村を訪れてきました。村によって民族衣装がちょっと違ったり人々の雰囲気も違ったり、ずぐ近くに存在する村なのにそのような違いがあるのはとても興味深いですよね。
最初はきっと、どっかの他人が自分たちの生活を見に来るなんて、先住民族の人々からしたら迷惑極まりないことだったと思う。でも今は、何というか、それが先住民族の人々にとっても大事なことになってしまっている。
何故か。その国の貨幣経済に完全に組み込まてしまった先住民族の村々では、「いかにして現金収入を得るのか」ということが重要な課題になってしまったからだ。
だから、昔はきっと「何しに来たんだ、このやろー」だったはずの外国人観光客も、今じゃ「どーぞどーぞ、お金を落としていって下さい」の存在になってしまった。
僕はそのことがなんか、心苦しく感じるんです。僕は純粋に先住民族の村々が好きだけど、そこにはお金を落とす存在であるからこその受け入れの体制があって、お金を落とす存在だからこそ彼らには僕の価値があって、僕が純粋に学びたいとか感じたいとか、そんなの関係ねぇ、ってことなんですよね。
僕のそんな偽善ぶった気持ちなんかより、目の前の民芸品の1つでも買えよって話になる。
そうなんですよね、お金を落とすからこそ、僕には価値がある。なーんも買い物もしない外国人なんて、今度はそれが彼らにとって迷惑(直接的に迷惑ではないでしょうが、買い物しろよ!って意味で)になってしまう。
なんだか、それが何とも言えない気持ちに僕をさせるのだ。
僕は何のために先住民族の村々にお邪魔させていただいているのだろう。彼らのビジネスのためなのか、それとも自分の好奇心を満たすための自己満足か。
村の方々は民芸品を売るために僕の前に次から次へと持ってくる。それを僕はすべて断る、すべてだ。だってまだまだ旅は続くし、確かにみんな綺麗で欲しいことは欲しい品ばかりだけど、いちいち買っていたら大変なことになる。
その度に、なんだか僕は考えてしまう。この仕組みって何なんだろう、と。
彼らには彼らの伝統的な生活があった。そこに外からの貨幣経済が流れ込んできて、彼らを巻き込んで、その国の一部になった。そして、現金収入がいくらあるかが、価値観の上位になってしまった。
僕はどうするべきなんだろう。買い物をいっぱいすることが、その村のためになるってことか?
それはそうかもしれないけど、何だろう、引っかかるよな・・・。
彼らの多くは、今でも写真を撮られることを嫌がるんです。今このブログに載せた写真の多くが後ろ向きなのは、正面から写真が撮れないのと、撮ろうとするとフッと身体の向きを変えられてしまうからです。
でも、そりゃそうですよね。もし自分の住んでいる地域にたくさん外国人がやってきて、好奇心でカメラを向けれらたら、いちいち笑顔にポーズなんてしていらんないですよね。無視するかそっぽ向くか、下手したら「おい、撮んなよ!」とか言ってしまうかもしれない。
それでもほとんどの人が笑顔で挨拶をしてくれる。もしかしたら僕が考えすぎているだけなのかもしれない。村の人にとって、実は外国人が来ることは嫌なことではないのかもしれない。もしかしたら写真を嫌がるのも、ただ単にシャイなだけなのかもしれない。
でも、やっぱり僕は考える。
そもそも「先住民族の村々が観光地になる」ってことは、どういうことなんだろう。なんだかそこから考えてしまう。
あ~、頭ゴチャゴチャになってきた・・・。
偉そうにブログ書いたところで、俺自身がなーんも分かってないんだよな・・・。
できることなら、マジで腹割って村の人々と話してみたい、ガチの本音で。本当はどう思っているのか、ガチで聞いてみたい。
僕は明日も違う先住民族の街に行きます。僕はどういう気持ちで行くべきなのだろう。
そもそも海外旅行自体が「他の人の土地に上がらせいただく」行為なんだよな。何だか難しいようでシンプルなようで、やっぱり複雑で・・・よくわかりません、愚か者の俺には。
でも、それでいいや。あのソクラテスだって「私は知らない。だが私はそのことを知っている」って、「無知の知」を説いたんだし。だから今の俺も「無知の知」だ。ついに俺もソクラテスに域に入ったか!(笑)
じゃあ今日は「日本人がグアテマラで初めてソクラテスになった上に、今日はそいつの誕生日」だという、素晴らしい日ということでまとめよう・・・!(笑)
2013年9月4日。外では雨が降り続くパナハッチェルの安宿にて。
《今日最後に訪れた村の様子です。山の斜面に張り付くように家が立ち並び、その様子は決して裕福ではありません。でも、優しさと笑顔が常にそこにはあるんですよね・・・。》
僕、「先住民族」って好きなんですよ。昔から何故か「先住民族」という言葉が好きで、会ったことも見たこともない子どもの時から、何故か不思議な魅力を感じていました。理由は自分でも分かりません。前世とかの関係ですかね・・・(笑)!
それは冗談として、だから僕は南米だとボリビアが大好きなんです。ボリビアは先住民族の比率が高く、街中を綺麗な民族衣装をまとった人々が随所にいるからというのがその理由の1つです。
なんかね、いいんですよ!(笑)南米のインディヘナの方々って顔つきも日本人にとても似ているし、すごく親近感を感じるんです。なんでなんだろうなぁ、やっぱり自分でも本当のところは分かりません。
グアテマラを訪れる際に色々調べていたら、多くの先住民族の村に行くことができるとありました。これは僕的には行かないわけにはいかないんですね(笑)!グアテマラに入国して真っ先にパナハッチェルに来たのも、先住民族の村々を訪れることが第一の目的だったからです。
でも、すごく考えるんです。「先住民族の村を訪れる」っていうことは、どういうことなのかって。
僕は自分自身は、ただの観光気分とか冷やかしとかなどではもちろんなく、純粋に先住民族の昔ながらの暮らしや歴史、文化に興味があり、本当に「お邪魔させていただく」気持ちで村に足を踏み入れている(つもりである)。でも、それってどうなんだろう。
迷惑ですよね、きっと。嫌ですよね、きっと。どっか他の国の人間が自分たちの生活の場にやって来て、なにやらジロジロ見てバシバシ写真撮ったりして、気分いいわけがないですよね。
僕がどんな気持ちでいるとか、彼らには関係ない。仮にどんなに純粋で崇高で相手を尊重する気持ちであったとしても、気持ちがいいものではないはずだ。
パナハッチェルの麓にあるアティトラン湖。綺麗ですよね。この周辺に、いくつもの先住民族の村々が存在しています。
僕は今日、4つの村を訪れてきました。村によって民族衣装がちょっと違ったり人々の雰囲気も違ったり、ずぐ近くに存在する村なのにそのような違いがあるのはとても興味深いですよね。
最初はきっと、どっかの他人が自分たちの生活を見に来るなんて、先住民族の人々からしたら迷惑極まりないことだったと思う。でも今は、何というか、それが先住民族の人々にとっても大事なことになってしまっている。
何故か。その国の貨幣経済に完全に組み込まてしまった先住民族の村々では、「いかにして現金収入を得るのか」ということが重要な課題になってしまったからだ。
だから、昔はきっと「何しに来たんだ、このやろー」だったはずの外国人観光客も、今じゃ「どーぞどーぞ、お金を落としていって下さい」の存在になってしまった。
僕はそのことがなんか、心苦しく感じるんです。僕は純粋に先住民族の村々が好きだけど、そこにはお金を落とす存在であるからこその受け入れの体制があって、お金を落とす存在だからこそ彼らには僕の価値があって、僕が純粋に学びたいとか感じたいとか、そんなの関係ねぇ、ってことなんですよね。
僕のそんな偽善ぶった気持ちなんかより、目の前の民芸品の1つでも買えよって話になる。
そうなんですよね、お金を落とすからこそ、僕には価値がある。なーんも買い物もしない外国人なんて、今度はそれが彼らにとって迷惑(直接的に迷惑ではないでしょうが、買い物しろよ!って意味で)になってしまう。
なんだか、それが何とも言えない気持ちに僕をさせるのだ。
僕は何のために先住民族の村々にお邪魔させていただいているのだろう。彼らのビジネスのためなのか、それとも自分の好奇心を満たすための自己満足か。
村の方々は民芸品を売るために僕の前に次から次へと持ってくる。それを僕はすべて断る、すべてだ。だってまだまだ旅は続くし、確かにみんな綺麗で欲しいことは欲しい品ばかりだけど、いちいち買っていたら大変なことになる。
その度に、なんだか僕は考えてしまう。この仕組みって何なんだろう、と。
彼らには彼らの伝統的な生活があった。そこに外からの貨幣経済が流れ込んできて、彼らを巻き込んで、その国の一部になった。そして、現金収入がいくらあるかが、価値観の上位になってしまった。
僕はどうするべきなんだろう。買い物をいっぱいすることが、その村のためになるってことか?
それはそうかもしれないけど、何だろう、引っかかるよな・・・。
彼らの多くは、今でも写真を撮られることを嫌がるんです。今このブログに載せた写真の多くが後ろ向きなのは、正面から写真が撮れないのと、撮ろうとするとフッと身体の向きを変えられてしまうからです。
でも、そりゃそうですよね。もし自分の住んでいる地域にたくさん外国人がやってきて、好奇心でカメラを向けれらたら、いちいち笑顔にポーズなんてしていらんないですよね。無視するかそっぽ向くか、下手したら「おい、撮んなよ!」とか言ってしまうかもしれない。
それでもほとんどの人が笑顔で挨拶をしてくれる。もしかしたら僕が考えすぎているだけなのかもしれない。村の人にとって、実は外国人が来ることは嫌なことではないのかもしれない。もしかしたら写真を嫌がるのも、ただ単にシャイなだけなのかもしれない。
でも、やっぱり僕は考える。
そもそも「先住民族の村々が観光地になる」ってことは、どういうことなんだろう。なんだかそこから考えてしまう。
あ~、頭ゴチャゴチャになってきた・・・。
偉そうにブログ書いたところで、俺自身がなーんも分かってないんだよな・・・。
できることなら、マジで腹割って村の人々と話してみたい、ガチの本音で。本当はどう思っているのか、ガチで聞いてみたい。
僕は明日も違う先住民族の街に行きます。僕はどういう気持ちで行くべきなのだろう。
そもそも海外旅行自体が「他の人の土地に上がらせいただく」行為なんだよな。何だか難しいようでシンプルなようで、やっぱり複雑で・・・よくわかりません、愚か者の俺には。
でも、それでいいや。あのソクラテスだって「私は知らない。だが私はそのことを知っている」って、「無知の知」を説いたんだし。だから今の俺も「無知の知」だ。ついに俺もソクラテスに域に入ったか!(笑)
じゃあ今日は「日本人がグアテマラで初めてソクラテスになった上に、今日はそいつの誕生日」だという、素晴らしい日ということでまとめよう・・・!(笑)
2013年9月4日。外では雨が降り続くパナハッチェルの安宿にて。
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