前の記事「唸ることしかできない」にて書いていたこと。
改めて付け足しを。
あんねぇ。
なんちゅーか、、。
ラーメンを寝る前に食べてはいけない、なぜなら身体に良くないから。
人の本を勝手に盗んではいけない、なぜならその人に迷惑をかけるから、人に迷惑をかけるのは悪いことだから。
これはある人にとっての、良いことと悪いことである。
誰かにとってもこれは当てはまるかもしれなければ、当てはまらないかもしれない。
価値観と呼ぶのか、道徳観と呼ぶのか、人にはそれぞれのそれぞれにとっての価値観や道徳観がある。
例えば、極端な話。
家系がずっと盗賊である家の息子が、昔から盗みを仕事としてやってきたとしよう。
その息子と平々凡々な家で育った私(私は盗むのは良くないぜ~捕まってまうぜ~そんなの嫌だぜ~、なんて思っている)が”盗む”という行為の善悪についてお話をしてみようものなら、多分会話はうまいことトントン拍子には弾まないと思う。
うまいことトントン拍子にって言うのは、何と言うか、お互いがそうそう!そうだよねぇと納得しあえたり、共感できたりってことを指すとして。
なぜなら、彼にとっての”盗む”という行為は仕事と同等になり得る行為、言わば人間が生きるのに必要となるお金を稼ぐという行為そのものなのだから。
大変なことでもあるし、必要なことでもあるし、、彼にとっては盗むことは悪いことと言うよりも大切なこと、と思えるかもしれない。
すると、当然噛み合ないわけで、その噛み合ないのは価値観や道徳観が違ってってことだと思うんだけど。
ふむむむ。
つまり、それぞれの持つ、考える、善悪や価値観、道徳観はそれぞれの生まれた境遇や教育、いままで出会ってきた人たちとのかかわり合い、など、
そういった私を私と呼ぶようになってきた自分と他者との関係そのものから育まれてきたもので、みんながみんな同じような考えを持っているわけでない。
多分そんなことはみんな痛感していることで、なんでこの人これをわかってくれないんだろう、とか、なんでこの人こんな考え方するんだ、とか。
その自分と他者との違いを楽しく感じれる時もあれば、それをとっても不快に感じる時もある。
他者と気持ちを分かち合う、とか、人を思いやる、とか、あるけれど、それってとっても難しいこと。
自分とは異なる他者の意見や想いを聴くことができる人はいるだろうし、その異なることばたちを自分の中に受け入れることができる人がいるかもしれない。
それを寛容な人と呼ぶのかもしれない。
受け入れることができなくても、受け入れようと努力する人もいるかもしれない。
もしかすると、そんなこと全く気にしたこともなくて、自分の想いばっかり先走っている人がいるかもしれない。
そんな人は思いやりのない人だと思われているのかもしれない。
そんなふうにたくさんの人がいればいるだけのたくさん通りの考え方や価値観やらやらがある。
それで前の記事の話に戻れば、私はラーメンを夜寝る前に食べるのはいけない、ということについて、
私は食べたいときだってあるし、それは確かに身体には良くないかもしれないけれど、それをわかっている上で食べたくなる時だってある、
そんだからそういうときは食べてもいいじゃないか、食べることでそのときあ~おいしいなぁ、ふふふと笑えるなら良いではないか、
そこで我慢して食べないよりは良いだろう、
もちろん、身体にとって良くないからということで食べるのを我慢するのも良いだろう、それはその人の考えだから。
だけど、それを人に押し付けて身体に良くないから食べるのはやめなよって止めることもないんじゃないか、
もっとその人の気持ちを分かち合おうとしようよ、
身体に良くないというのはわかる、だから私を想って止めてくれているやさしさも感じる、
だけど、ごめんだけど食べたい、だから食べる、この気持ちもわかってほしい、、
と、こんなことを結論として出したんだ。
もっとわかりやすく言うと、人の気持ちはそれぞれあるのだから、それぞれの想いを思いやってわかり合おうとお互いが努力することが大切なのでは、、と。
そうまとめたのだけれど、、、。
私自身では考えつかなかったこと!!!!
それは、私の『それぞれがわかり合おうと努力することが大切』ってこの自分の勝手な想い、考えを私は平然と他者に押し付けていたのに過ぎなかったんだ。
正直うわっ!!!って驚いてしまったのだ。
自分ではそんな自覚が全くなかったから。
私はこの考えが正しいとゆるぎない自信でもってみんなに押し付けていたのだから。
いやぁ~こわいこわい。
正しいと自分が思っていることって平然とさもそれが”本当に”、”絶対に”、正しいことと思ってしまっているものなのだ。
ということを改めて思い知らされてですね。
そんで、逆にどうやったら自分とは異なる考え方を持つ人にその考え方を変えさせるのか、、。
これまた難しいねぇ。
これこそが精神的に患っている人を治すときに使う戦法、論理療法なのだ。
行動療法とも言うらしいけど。
有名なあの養老孟司さんも自分が鬱になったときに、病院や薬での治療は全く当てにならずで、
終いには自分で論理療法の本を読んで治してしまったのだとか、、。
論理療法の場合だと、考え方そのものを変えるから治ったら治るのさ。
他の治療だと、例えば薬とか、一時的にその気を紛らわせてるだけにすぎないそうだから、やはしこれがいいのだとか。
けんど、この考え方を変えるっては簡単に言ってはいるけどとっても難しいことで、、。
てなことなのさ。
そんなんで、このゼミでの話題は一時終了したのだな。
わかりづらいだろな。
ふむむむむむ。
ぼくがものをいうときは、そうだとおもっていること、ほんとうに正しいか否かは別として、ぼくが語るというのはいつもそのドグマのなかにいるものね、だからいわなくては自分が問えないんだと思う。
思い込み、かぁ。うん、すんなり入ってくるわけじゃないけどそう言われたらそうなのかな、と思う感じだよな。
言わなくては自分が問えないというのはいまいちピンとこないとこがあるな。
けれど会話、議論、言い争う、けんか、と自分が相手とまともにぶつかればぶつかるほどつらい、そのつらいぶん相手よりも
自分を問うよ。そこではじめて
真剣に自分自身を問うことになるのじゃないだろうか。